出向も終わりが近くなると今度は、CD-ROMというメディアの立上げの仕事に私が関わり、本社へも行くようになるという噂を耳にします。「えっ、本社勤務になるのか」とお思い込み、住む場所のことなどもあるので上司にどうなっているのか問い詰めたりしました。その態度が上司に嫌われたらしく、CD-ROMの担当の話は無くなったようでした。
戻って任された仕事は、LD(レーザーディスク)の評価でした。私が会社入社時に関わったVHDは露と消えてしまい、CDと同じレーザーで再生するLDが売れ始めていて、会社もLDの販売に乗り出すと同時に製造も考えていたのだと思います。
私は、LDの評価装置を設計・製作、そして実際の測定も行い、評価レポートを提出するという仕事に携わります。
耐久試験も行いました。湿気の多いところもLDを設置し、その結果物理的、電気的な変化や映像などへの影響を調べます。
評価するためのLDを購入する訳ですが、自分が観たい作品を選んで就業時間中に楽しませて頂きました。
そこへかつて噂になっていたCD-ROMの仕事が、私のところへ正式に舞い降りてきます。
CD-ROMの製造システムの運用、製造品質管理と客先への技術営業が私の仕事になります。一度外された私ですが、他に適任者が居なかった(という噂話しを聞きました)らしく、再び候補になり選ばれたようです。
当時CDはすでに認知されていましたが、CD-ROMに関しては皆無でした。客先にCD-ROMの話しをしても相手にされません。この頃の客先は、プログラムなどのデータを持っている企業です。ゲーム会社へ行っても「CD-ROMの容量を埋めるようなゲームは、開発に一生掛かりますよ(笑)」と言われる始末です。
最初に採用して頂いたのは、教材系の出版社で、CD-ROMには、ほとんど音声をオーディオで収録し、一緒に利用するフロッピーディスクとCD-ROMのディクスが間違いなく対応しているのか確認用のわずかなデータを記録するだけでした。
当時のCD-ROMの営業は、ほとんど宗教の布教活動のようで、「CD-ROMとは・・・」と説教をする感じです。
CD-ROMのマスタリングについているハードディスクの容量は700MBぐらいだったと思いますが、高さ180cmのラック1本分あり、電源も三相交流の200V仕様というごっついものでした。今考えると時代を感じます。
640MBのデータを汎用コンピュータ用の磁気テープからはオードディスクに取り込み、CD-ROMのマスター・テープを作成するのに一日掛かりの作業だったと記憶しています。
その後ようやくCD-ROMというメディアを活かすコンテンツが現れます。車のナビゲーションの地図データです。私と本社の部長二人でそのナビゲーション・システムを開発している会社のある名古屋まで何度も足を運ぶことになりました。
試作から始まり、試験を繰り返し行って、製品化までこぎ着けます。ようやくCD-ROMと言うメディアに光が当たり始め、電子出版などの話題が世の中に出始めてきました。新たなメディアの誕生です。
しかし、1985年頃のCD-ROMにはデータを記録するだけで、ファイルを管理するシステムがありませんでした。なので、自分の欲しいデータが何処にあるかを絶対番地と呼ばれる何分何秒何フレーム(CDのタイムコードです)から記録されていますというテーブルを用意しないと使い物にならないという不便な点がありました。
しかし、メディアに脚光があびるとそれを使えるようにしようという人たちが現れ、CD-ROMのファイル管理システムが国際標準で決まります。
するとフロッピーディスクやハードディスクと同じようにCD-ROMも扱えるようになり、プログラムなどを記録保存するメディアとして一般的に使われるようになっていきます。
さらにソニー・フィリップスは、CDメディアを利用した新しい用途開発を進めます。その中にCD-I(Iは、Interactiveの意味です)というコンシューマ向けパソコンとでも言えるような規格が1986年に登場します。
このCD-Iプレーヤーをテレビにつなぎ、対応のディスクを入れるとマウスなどを利用してインタラクティブ(当時は聞き慣れない言葉でした)にコンテンツを楽しむことができるというものです。
ここでかつてコンピュータ・グラフィックスについて勉強したことが役立ちます。基本的に画像データを如何に小さくコンパクトに記録するかが当時メインだったコンピュータ・グラフィックスの技術がほとんどそのままCD-Iには利用されていました。
お陰で規格書に書かれていることが苦労すること無く理解できましたし、それで広がる世界を思い浮かべるだけで、楽しい世界が描けたのです。
その時、レコード会社が持つ資産を利用して新たな作品ができるチャンスだ、それをやるのは自分しかいないと確信しました。
CD-ROMというメディアに関わることで、私の人生は、新たなステージへ変わっていきます。私の夢がレコーディング・エンジニアから別なものに変わるきっかけが訪れたのです。