「ところで、榎本さん。おまんらは、あの「甲鉄」ちゅう艦を狙ろうちょったようじゃが、あの艦の元値を知ちゅーがや?」
龍馬は、この場の雰囲気を変えようとして、別の話題に話を振った。これも、龍馬ならではの気遣いだった。
榎本は、自分がもっとも関心のある話に水が向けられ、俄かに元気付いた。
「あの艦は、アメリカが南北戦争ちゅう国を二分して争うちょった折にアメリカ南軍がフランスに建造を依頼した軍艦じゃきに。その時に、フランスのボルドーちゅう町の造船家が作った艦は、『スフィンクス』と名づけられたそうじゃ。しかし、その後、フランス政府と南軍の関係が悪化したことで、南軍への引渡しを拒否したそうじゃ。そんで、第三国経由での引渡しを模索した結果、スウェーデンちゅう国に売却され、さらにデンマークが買い取ったそうじゃきに。そこで、デンマークはこの艦を『ステルコーダ』と命名しちょる。しかし、そんデンマークちゅう国がプロシアちゅう国との戦さに負けたことで、もう一度、艦はフランスに戻されて、今度は、『オリンダ』ちゅう名前になった。それから、再び、南軍に譲り渡すことになったことにより、北軍の目をかすめるために、スペイン本国を経由して、スペイン領のハバナに入港させたきに。しかし、そのハバナに入った時点で南北戦争は、南軍の降伏で終結してしもーたちゅうわけぜよ。そん時に、「ストーン・ウォール」ちゅう名前が付けられたそうじゃが、南北戦争の内戦が集結したアメリカ海軍は、この船を徳川幕府に売ることにしたわけじゃな」
龍馬の艦艇に関する知識はかなりもものがあったし、また、艦への深い愛情が感じられた。
そうして、1隻の艦に対しても、まるで一人の武人の数奇な生き様を語るように、尊敬と好奇心を込めて、語るその口調に歳三は思わず、惹き込まれた。
龍馬の説明はさらに、熱を帯びて続いた。
「而して、アメリカ海軍は、この軍艦ストーンウォール号を徳川幕府に売ることにし、南米の南端を大きくまわり、ハワイ経由で、去年(1868)の4月1日に江戸湾に入ったわけじゃきに。江戸城開城が、4月11日であろうから、まさにその直前でじゃき、いったん横浜に係留され、ずっとアメリカ国旗を掲げたまま、おまんらの戦さの結末を日和見ちょったちゅうわけぜよ。」
その時、榎本が口を開いた。
「幕府がこの艦の受取のために、アメリカに派遣した軍方軍艦組一等の2名のうち、小笠原賢蔵君は、今回の宮古湾奇襲作戦の際に、『高雄』に搭乗しておりました。江戸湾にストーンウォルが入ってきて、横浜に回航された際には、私もアメリカ公使のMr.ヴァルケンバーグ(RBVan Valkenburgh)と引渡し交渉を重ねました。その時の買取額は、約40万ポンドでござった。このうち、半額を支払ったところで、幕府が瓦解してしまいました。その後、新政府が我々の『開陽丸』沈没を受けて、アメリカと再交渉し、残金を支払って、この『甲鉄』を手に入れて、海軍に編入したのです」
自分でそう言ったのち、榎本は再びうなだれた。
しかし、今度はその言葉を聞いて、龍馬の声が驚いたように裏返った。
「40万ポンドかえーっ? そりゃ、げに法外じゃきに。おまんら、幕府も、新政府も、完全にアメリカに足元を見られとるぜよ。わしが調べたところ、あの艦の 建造費はおよそ、4万5千ポンドじゃきに、わしら、日本人は10倍もふっかけられとるちゅーことぜよ。」
「じゅ、10倍ですか?!」
榎本が再び、頭を抱えた。
すでに支払い済みのこととはいえ、高い買い物をしてしまったという現実が海軍副総裁という過去の役職上の責任感を苛むのであろう。
いっぽう、歳三は龍馬の話にすっかり、魅了されていた。
龍馬の口から語られる、「ストーンウオール」改め、「甲鉄」の数奇な運命は、まるで我が身のように思えてならなかった。
武蔵国多摩郡石田村で、10人兄弟の末っ子として生まれた自分が、実家の秘伝の「石田散薬」を行商しつつ、各地の道場で他流試合を重ね、修業に励み、天然理心流4代目の近藤勇と出会ってから、武士としての運命が開けた。
その後の京や奥州、そして、今に至るまでの戦いに明け暮れる経緯は今更語るまでもないが、その戦いの場毎に、自分が所属する組織の名は次々と変ってきた。
文久3年に将軍の上洛警護の目的で組織された『浪士組』が、京で『壬生浪士組』となり、『新撰組』となった。その後、江戸に逃げ帰った後、勝海舟より『甲陽鎮撫隊』となり、『会津新撰組』、『函館新撰組』として、今に至っている。
「あの『甲鉄』は、まさに俺そのものだな」
歳三は、一人苦笑した。
まるで、戦いの場を求めて世界中を彷徨い、常に死に場所を求めているように思える。
しかし、その一方で容易には死ねないことも、自分と同様に思えた。
その名の通り、鉄の装甲で木造船の外壁を覆ったその防御力や、艦の水線下艦首部に取り付けられた衝角(RAM)で突撃して、敵艦の船体に穴を空けるというその戦法も、まさに、自分の戦い方が乗り移ったような艦に思えてきた。
つい、2日前には、その強大な装備のガドリング砲で、仲間の多くの命を奪った憎んでも憎みきれない筈の敵艦なのに、なぜか、龍馬の話を聞いているうちに、この艦への愛着が自分にも伝わってきた。
と、同時に、敵味方を問わず、すべての艦を愛し、海を愛し、世界に目を向ける龍馬という男にも、強く惹きつけられている自分を感じ始めていた。
歳三のそうしたまなざしには、まったく気付いていない様子で龍馬は榎本を慰めるように語り掛けていた。
「まあ、榎本さん。もう、済んだことじゃきに。それに、『甲鉄』をはじめ、薩摩の『春日丸』などの新政府軍の艦隊も、丸ごと、この函館にあるぜよ。これで、しばらくは、薩長の連中は津軽海峡を渡って来れんぜよ」
その龍馬の言葉に、励まされたのか、俄かに榎本の顔が明るくなり、龍馬の方を向き直って言った。
「そうだった。今や、新政府の海軍力は我々以下だ。これで、しばらくは、時間が稼げる……」
その時、歳三がすかさず、つぶやいた。
「しかし、すでに我々の嘆願は、朝議に聞き入れられなかった」
去年の明治元年12月15日のことである。
蝦夷地平定を祝う祝典が函館で開催され、この日、箱館に碇泊していた軍艦や弁天砲台が放った祝砲の数は、実に101発に及んだ。
榎本海軍の軍艦上では、5色の旗が風で鮮やかに翻り、その晩には箱館市街が色とりどりの花灯で飾られた。
榎本は、諸外国の領事や碇泊中の外国船の船長らを「回天」に招待し、華やかな船上パーティーを催した。
旗艦「開陽丸」を失ったことによる兵力および戦闘意欲の低下の懸念を払拭し、「事実上の政権」であることを認められたことをことさらに強調する目的を兼ねていた。
そのパーティの席上で、榎本はイギリス艦「サテライト」のロワ艦長と、フランス艦「ヴェヌス」のホワイト艦長に、朝廷(天皇)への嘆願書を託した。
この二人からは、以前より「もしも、天皇に嘆願書を出すつもりがあるのなら、橋渡しをしてやっても良い」と、聞かされていたからである。
しかし、この榎本の嘆願書は、結果的に新政府に握りつぶされて、朝議には聞き入れられなかった。
この現実は、すでに蝦夷共和国の兵士の末端にまで、認識されていた。
当時、18歳だった元彰義隊の丸毛利恒の言葉を借りれば、
「……先に仏英をもって天朝へ奉聞せし議、朝議、その語辞を無礼なりとして、断然、聞こし召されざるのみならず、不日、征伐の官師下向せらるるのよし通達するものあり。我輩、もとより朝家に対し抵抗するの意は毫髪もなく、ひたすらもって、上は皇国のために不毛の僻郷を開拓し、もって北門の護を厳にし、かつは君家の旧臣の秩禄を失う者をして活業を求めしめんがために、その微衷を明にしてこれを嘆訴せしに、はからざりき、却って国賊の冤名をこうむるとは武道のならい是非に及ばず、防御の備えを設け快く血戦して天戮につき、死して赤心を述べんと衆心初めて決定す」
つまり、我々は天皇に逆らう意思は毛頭なく、ひたすら皇国のために不毛の地を開拓し、北方の守りを厳重にすること、かつ、主家の俸禄を失った者に活路を見出せさせるために誠意を尽くして、ひたすら嘆願しているだけである。
それなのに、朝議はそれを聞き入れないばかりか、国賊の汚名をきせて討伐しようとまでするのであれば、こちらも武門の意地にかけて戦い、死んで赤心を明らかにしようという考えであった。