【第2回】第一章:回天の土方―(2) | マイナビブックス

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龍馬、蝦夷に征く! (上)

【第2回】第一章:回天の土方―(2)

2016.12.22 | ナリタマサヒロ

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1122日、箱館から回天丸と神速丸が開陽丸救出の為に江差に到着したんだが、また風が強くなってきたために、この2隻は波に翻弄され始めた。

このうち、回天丸はなんとか沖合いへと脱出したが、神速丸は浅瀬に座礁して、破船してしまった。

そして、座礁から約10日後、ついに開陽丸は、俺たちは見守る目の前で、江差の海底へと消えてしまった。

俺は、榎本さんと側にあった松の瘤を叩いて泣いちまったよ。

この時ばかりは、周囲の目もはばからず、榎本さんの通称の「釜次郎」の名を呼んで、

「釜さん、口惜しいのお~っ」と、男泣きに泣いた。

まあ、そんなこんなで、どういうわけか、今、俺はこの回天丸の上にあって、宮古へと向かっている。

なぜかって?

それは軍事機密だから、ハッキリとは言えねえが、まあ、判りやすく言っちまえば乗っ盗りを敢行するためだな。

だからさ、あの江刺の沖で俺たちは、虎の子の開陽丸を失っちまっただろう。これが効いているんだよ。

これで、俺たちの海軍力が低下したのを見計らって、なんと、あのアメリカの野郎が最新鋭の甲鉄艦を新政府に売り渡してしまいやがったんだ。

そもそも、この甲鉄艦って艦は、もともと、ストーンウォールという名前で、アメリカの南北戦争中に南部連合がフランスに発注して建造された装甲軍艦らしい。

それが、完成直後に南北戦争が終結したので、アメリカが徳川幕府へと転売した代物だ。

しかし、代金を半分払った時点で、徳川幕府が大政奉還で倒れてしまったものだから、横浜に繋留されたままとなっていたと聞く。

新政府は、旧徳川の武器弾薬を引き継いだのだから甲鉄の所有権も自分等にあると主張したが、アメリカは戊辰戦争の中立を建てに引渡しを拒否していたそうだ。

だが、その後の奥羽戦争の俺たちの敗北や、榎本艦隊の旗艦・開陽丸沈没によりアメリカは中立を撤廃して、残り代金を新政府軍が支払うと言う事で船を引き渡した。

榎本さんの話によれば、この甲鉄の性能は日本最強で、いままでの最強だった開陽丸と比べると、排水量は約1000tと開陽丸の半分以下だが、逆に開陽丸の2倍以上の出力が出せる蒸気機関を装備しているらしい。

そして、何より、この艦の特徴は、その名が示すとおり、木造の船体に厚さ7010mmの鉄板の装甲が施されており、前後二箇所に30ポンドアームストロング砲は、開陽丸に積んであったグルップ砲よりも射程距離が上というから、とんでもないシロモノだ。

思えば、今から15年前に浦賀に来航したアメリカのペリー艦隊は、たった4隻の黒船で200年を超えるこの国の鎖国政策を打ち破った。

一国の方針なんぞは、巨艦4隻でいとも簡単に覆ってしまうものなのだろうか?

そう考えると、榎本さんが海軍を後生大事にし、彼らの機嫌を損ねないようにと開陽丸を江刺に差し向けた気持ちも判らぬではない。

事実、それで肝心な開陽丸を失って以来、それまでは中立という名の日和見を決め込んでいたアメリカが、勝ち馬に乗るべく、さっさと手の平を返すように、新政府にこの最新鋭艦を売り渡してしまったんだ……。それはまるで、制海権という名前の巨大な天秤ばかりが、艦一隻をどっちに乗せるかによって、大きく傾いてしまう様子に思えた。

かつて、自分は新撰組の副長として、赤穂浪士に習った浅黄色のダンダラ装束で白刃を振り回していたが、鳥羽伏見での敗戦を経験して以来、これからの戦闘は洋装に限ると、あっさりと伝統やこだわりを捨て去った。

同じことは、兵器や軍隊の在り方にも、ひいては、国そのものの在り様にも言えることかもしれない。

かつて、開陽丸は幕府の威信と期待を背負って、戊辰戦争の2年前に完成されたばかりの最新鋭艦だった。

例のグルップ砲にしても、聞くところによれば、当初、6門を装備する予定が、ドイツとの戦いを戦目付として現場で体験した榎本さんが、その威力に惚れ込み、急遽、16門に増やして、日本に持ち帰ったモノだった。

しかし、その後、2年もしないうちに、今や、「甲鉄」のアームストロング砲の射程の前では、すでに時代遅れの武器となってしまっている。

大砲なんぞ、遠くに届いてナンボのものだ。いくら、数を増やしたところで、当らぬ鉄砲や届かぬ大砲など、何の役にも立たない。

その冷徹な現実を俺は、幾多の戦場で味わされてきた。ついこの前に占領した松前城でも、そこに残された旧式の大砲の姿がひどくみじめに思えたものだ。

かくして、この3月9日に江戸の新政府に潜り込ませている間者から、1万5千を超える新政府軍が、「甲鉄(ストーンウォール)」、「飛竜」、「陽春」、「春日」、「丁卯」、「豊安」、「戊辰」、「震風」の8艦に分乗し、江戸湾を発したという報がもたらされた。

対するこっちは、3千程度の軍勢しかいねえ。

それでも、その天秤秤の傾きをひっくり返そうと、榎本さんが軍議の席でこうのたまった。

「諸国の官軍、8艘の軍艦に乗じ、南部鍬ケ崎へ来ると聞く。そのうち甲鉄艦と言えば、米国の製造にして、前面ことごとく鉄装にして、いかなる弾丸といえども、これを破ることあたわず。この船、敵にありては、我が軍、実に難戦ならん。よりて、今、回天艦などをして、鍬ケ崎に到らしめ、不意にかの船を奪い、箱館に備えて防御せん時には、その余の軍艦は恐るるに足らず」

なんだか、たいそうなことを述べておられるようだが、敵の戦艦がとてつもねえから、これを奪えば、こっちの防御は堅くなり、他の軍艦は敵じゃねえという御説らしい。

つまり、これから、新政府軍が逗留する宮古湾に奇襲を掛け、敵の玉とも呼ぶべき、戦艦「甲鉄」を奪い取ろうということだが、簡単に言ってくれるぜ。

が、どうも、今回も嫌な予感がする。

この3艦には、520名あまりが乗艦していた、

<旗艦・回天>250余名
海軍総督・荒井郁之助、艦長・甲賀源吾、以下海軍200余名、陸軍奉行・土方歳三、添役・相馬主計、同介・野村利三郎、彰義隊士官10名、神木隊士官36名、フランス人仕官・ニコール

<高雄>120余名
艦長・古川節蔵、以下海軍70名神木隊士官25名、フランス人仕官・コルラッシュ

<蟠竜>150余名
艦長・松岡盤吉、以下海軍100余名新選組士官10名、彰義隊士官10名、遊撃隊士官12名、フランス人仕官・クラトー

しかし、榎本艦隊にまつわる毎度の不運のように、今回も嵐にもまれて、艦隊は散り散りになってしまった。

「蟠竜」は集合地点にたどり着くことなく、どこかに行ってしまうし、「第二回天」こと「高雄」も、蒸気機関の故障で、「さあ、これから殴り込み!」という時に、速度が半分に落ちて脱落してしまった。

本来であれば、宮古湾への奇襲は、「蟠竜」と「高雄」が、それぞれ「甲鉄」の両舷に横付けして、斬り込み隊を乗り込ませる筈であった。

そして、その間、回天は新政府軍の他の艦を砲撃して、牽制する役割だった。

それが、肝心な切り込み隊の2艦が遅れを取ってしまい、俺が乗るこの回天ただ一隻で、新政府軍の軍艦がたむろする宮古湾に突入して、日本最強の「甲鉄」を分捕ろうという作戦に変更された。

「こりゃ、負けるな。」

歳三は、ふたたび、呟いた。幸いなことに、周囲には誰もいなかったので、聞かれることは無かった。

同じような予感は、あの鳥羽伏見の戦いの前にも、脳裏を過ぎったことを思い出した。

あの戦いの前の兵力数では、幕府軍が負けるはずが無かった。

事実、大阪湾や阿波沖での艦隊戦では、幕府の旗艦・開陽丸が薩摩の艦を蹴散らし、圧勝していた。

しかし、俺たちは負けてしまった。結局、俺たちが負けた相手は、薩摩や長州じゃない。

彼らを下関戦争や薩英戦争で打ち負かせた外国の連中に負けたことに違いなかった。

この2つの負け戦を通じて、薩摩や長州は過去の軍備や戦闘法を捨て、すべて最新式の西洋流に改めることに成功した。

「負けるが勝ち」という言葉があるが、ある意味で、この状況を指しているのかもしれない。

事実、この俺自身、そうした西洋化された薩長との鳥羽伏見の戦いを経験してこそ、今のこの身なりや戦闘法に切り替えた。