【第1回】第一章:回天の土方―(1) | マイナビブックス

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龍馬、蝦夷に征く! (上)

【第1回】第一章:回天の土方―(1)

2016.12.08 | ナリタマサヒロ

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「正直、海は苦手だ……」

歳三は、船室の片隅で一人呟いた。

その独り言を聞いて、「ふっ」と、自笑もした。

〝俺が弱気になってやがる。この俺が〟

思えば、去年の1125日のあの出来事からだった。

そう、松前で榎本海軍の旗艦・開陽丸が座礁して、旧幕府軍と新政府軍の海軍力の彼我の差が、一挙に逆転して以来だ。

あの座礁にしても、自分には考えられないヘマだ。そもそも、松前藩の攻略に、軍艦を廻す必要などどこにもなかった。

11月1日に知内で受けた松前藩の奇襲を撃退して以来、俺たち陸戦部隊は破竹の快進撃を続け、松前城を制圧した後、すでに11日からは江刺方面に退却した松前軍の追討に出発していたのだ。

聞くところによれば、松前城は、安政元年(1854年)に落成した日本で一番、新しい城だそうだ。

安政元年といえば、アメリカからペリーが来航して、翌年に日米和親条約が結ばれ、日本が開国した年である。

当然、そんなご時世に築かれた城ということもあって、海側からの艦砲射撃に備えて砲台を構えるなど、それなりに近代戦を想定した縄張りとなっていた。

ご丁寧まで天守閣まで築かれたこの城を落とすには、少しはてこずったものの、そこはそれ、俺の最も得意とする決死隊の突入攻撃で城門を開かせ、一気に勝負をつけた。

そもそも、あの城を攻めるにあたり、11月1日の時点で、榎本海軍の軍艦・蟠龍を偵察に行かせた際も、海上の波浪の激しさに翻弄されて、船体と舳先にそれぞれ、一発ずつ砲撃を喰らったという不始末を仕出かしたばかりじゃねえか。

だいたい、松前藩の大砲なんぞ、旧式で射程が短いから、ほとんど届いていなかったにも関わらず、激しい波風に弄ばれて、結果的に弾に当たりに行ったようなものだ。

たしかに、今の俺たち、つまり、北海道共和国軍を支えているのは、日本随一の海軍力であることは疑いようはない事実だ。

これも、榎本総裁が去年の8月19日に、軍艦8隻を率いて、江戸を脱走してくれたことにより、成り立っていることには違いない。

聞けば、榎本さんはあの鳥羽伏見の敗北の際に、将軍慶喜公に自分の船を大阪から乗り逃げされたという苦い思い出があるそうじゃねえか。

そりゃ、たまらんだろう。

なにせ、開陽丸といえば、幕府がオランダに特別注文して、足掛け5年も掛けて建造した最新鋭艦だった訳で、あの艦一隻で、大阪湾の制海権を完全に押えていたわけだからな。

俺たちが鳥羽伏見で戦っている最中も、榎本さんは開陽丸に乗って、阿波沖で薩摩の軍艦を砲撃し、座礁させたというから、それはそれで大したものだ。

まあ、聞くところによれば、オランダから乗って帰る時には何度も暴風雨に遭ったらしいし、蒸気機関を回して無事帰還たらしいから、年季が違うってことだろうな。

しかし、その開陽丸の軍艦乗組頭取という大層な肩書き、つまり、艦長さんになった榎本さんが、上様に謁見するために、艦を降りた間に、入れ違いに総大将の上様が江戸に逃げ帰るのに、勝手に使っちまったというから、榎本艦長としちゃ、やりきれんわな。

置き去りにされた榎本さんは富士山丸に、大阪城の武器や有り金を丸ごと積み込んで、江戸に戻ってきたそうだからな。

だから、その後、いくら海軍副総裁に任じられたところで、榎本さんの中じゃあ、あの時に幕府というより、上様を見限っていたんだろうな。

それだからこそ、江戸城引渡しの際にも、房総の先の館山で幕府海軍を温存し、徳川家の石高が70石に値切られた時には、ボロ船4隻を新政府に渡して、お茶を濁し、徳川家が駿府に落ち着くのを見計らって、脱走したんだ。

まあ、そういう経緯もあるし、この時に江戸を脱走した8隻のうち、運送船の美賀保丸・咸臨丸は、無くしてしまったがそれでも、旗艦の開陽丸に、回天丸・蟠竜丸・千代田形丸の軍艦4隻があるだけで、新政府に対して、強気でいられるのだから、海軍力の影響の大きさは認めてやろう。

しかし、戦さは結果だろう。

そもそも、なんで俺たちが松前城を落とすことが出来たのか? 話は簡単だ。この寒い中で、凍死したくねえからだよ。

この11月の蝦夷の豪雪の中で、野宿なんぞをすれば、戦さをする前に、寒さで皆凍死する。だから、俺たちが休むには松前城を落としてそこを寝床とするか、それが果たせない時は、その場で全滅するかのどちらかなので、皆、不眠不休で必至になって戦った結果なんだ。

しかし、そうやって、俺たちが死に物狂いで戦って勝ちを拾いに行っている横で、どうも海軍さんってのは、別のことを考えているらしい。

今回の江刺攻略にしても、俺たち陸兵の兵力だけで充分だってのに、わざわざ、開陽丸を江刺に向かわせて、海上からの砲撃をしようなんて言い始めた。

それで、ついこの前に、やっと銚子沖の嵐の時に壊れた舵の修理が終わったところなのに、艦を廻すなんて言っているから、出航の前夜に、遊撃隊長の人見さんが

「わずかな敵を討つのに、わざわざ開陽丸を動かすのは、鶏を割くのに牛刀を用いるようなもので、全然意味の無いものでしょう。なのに、なぜ、開陽丸はなぜこの暴風雨の中、危険な航海をしてまで江差へ行く必要があるのでしょうか?」と、尋ねてくれたらしいんだ。

すると、榎本さんは、

「開陽丸が江差に向かうのは、鷲の木上陸以来、海軍が一戦せず、これまでの戦功は陸軍ばかりで海軍の兵たちに不満があがってきている。そこでそれらを慰撫するために開陽丸を江差へ向かわせ、松前兵に向かって大砲の一発でも撃たせてやって、かれらの不満を解消させるためだ」

と言ったというじゃねえか。

なんだよ、それ?

そんな男の嫉妬みてえなことで、手前らの虎の子の軍艦を失ってしまったら、世話は無い。

だいたい、1115日の夜明けに江差に到着して、夜が明けるのを待って、陸から6町(1町=109m)余り離れた小さな島(かもめ島)に向けて大砲を撃ってみた。

が何の反応もなかったてんで、今度は江差の山に向けて大砲を7発ほど撃ってみたがそれでも松前兵は応戦してこねえ。

そらそうだろうよ。砲撃したところで、松前兵はとっくに熊石方面に逃げていたんだからな。

そこで、榎本さんは艦に必要最低限の兵を残して、江差に上陸し、付近の寺に泊まったんだが、その時に、どうも海底の地形調査とか、気候について、調べなかったらしいんだな。

俺は詳しいことは知らねえが、船が新しい海域に着いた時は、周囲を調査をするとか、地元人間にその地域の気候や、海の状態を聞くのが常識らしいじゃねえか。

それをしなかったものだから、この時期は、夜になると風が強くなって海が荒れ、タバ風と呼ばれる激しい時化を伴う風が吹くことを知らなかったものだから、果たして、夜になって、風雨が強くなってきて、開陽丸は荒波に翻弄されはじめたらしいんだ。

あの江差の海底は堅い岩盤状になっているそうなので錨が引っかかりにくく、開陽丸は錨を引きずりながら陸に向かって流され始めてしまった。

艦に残っていた機関長の中島三郎助は、慌てて錨をあげて、蒸気機関を始動させて、沖へと脱出しようとしたそうだが、蒸気機関ってのは、釜に火を入れてから動かせるようになるまで時間が掛かって仕方がない。

そんなもんだから、その間にも開陽丸は陸に向かって流され、ついには海底の岩に艦が乗り上げるような感じで座礁してしまい、その時にできた船底の傷から船内に海水が入りこんできたらしい。

そこで、中島は最後の手段として、開陽丸が搭載していた大砲を陸に向けて一斉に砲撃して、その反動で脱出しようとしたそうだが、うまくいかず、それがかえってさらに船底の傷を広げる事となったというから目も当てられねえ。

その大砲の音で、飛び起きた榎本さんらが急いで港へと向かったんだが、海が荒れているため、船を出して近づくことが出来ない。

激しい時化は翌日も続き、3日後になってようやく収まったところで、ようやくそこで、艦に残っていた船員と運べるだけの物資を上陸させたんだ。

でも、悲劇はこれで終わっちゃいなかった。

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