【第2回】関ヶ原の戦い -中篇- (1600) | マイナビブックス

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歴史1コマ事件簿: Part.2

【第2回】関ヶ原の戦い -中篇- (1600)

2016.05.20 | みかゆめきよみ

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徳川家康の命により、石田三成がその領地である佐和山(現・滋賀県彦根市)に蟄居させられると、いよいよ豊臣政権内で家康に意見する人物がいなくなってしまった。
 

■関ヶ原の戦いカウントダウン


関ヶ原での決戦まであと一年、そこに至る経緯を追っていこう。
 

【前田家への圧力】

慶長4(1599)年9月、大坂城に入った家康は、利家亡き後前田家を継いだ前田利長が「徳川家康暗殺計画」を謀ったとして弁明を求めた。

この情報の出所は不明だが、家康はこのウサワを最大限に利用し、利長と結託したとされる淀殿の側近である大野治長や、五奉行の浅野長政を失脚させた。
さらに家康は、細川忠興にも嫌疑をかけ、その息子・忠利を人質にとった。
家康は前田家を討伐すべく出兵の準備を開始する。

利長は一戦を交える覚悟を決め軍備を進めたが、利長の母・芳春院(前田利家の妻・まつ)はみずから進んで人質に差し出すように言った。

芳春院のすばやい決断が功を奏し戦闘は回避された。
この危機を乗り越えた前田家は、その後従順に徳川家に従うようになる。
家康の圧力の前に、100万石の大大名・前田家も屈服せざるを得なくなったのだ。
 

【会津征伐】

家康が次にターゲットにしたのは上杉家である。
上杉家は、慶長3年に秀吉の命により越後から会津に国替えされたばかりであった。
そのため景勝は慶長4年に会津に帰国し、領国経営に力を入れていた。

慶応5(1600)年3月、家康はこれを謀反の兆しととり、弁明と上洛を要求した。
しかし、上杉家の重臣・直江兼続からの返信は、痛烈に家康を非難し上洛を拒否するものであった。
これが天下に名高い「直江状」だ。

一家臣である直江兼続が五大老の家康に言いがかりをつけるとは。
家康はこれを豊臣家への反逆とみなし、上杉征伐の兵を挙げた。
(ただし、現在伝えられている内容は後世の創作とする説もある)

これは、家康は上杉家がこのような返答を返してくることを承知で会津討伐の大義名分を引っ張り出したとも、じつは三成と兼続が結託して家康をおびき出したともいわれている。
 

【西軍VS東軍】

慶応5(1600)年6月16日、家康が諸大名を率いて、会津征伐の途についた。
三成は、大坂を留守にした家康をみて決起を決意し、さっそく行動に移る。
盟友の大谷吉継や五奉行の増田長盛、毛利家の家臣・安国寺恵瓊らを味方に引き入れ、挙兵計画を立てた。
恵瓊の説得により、125万石の五大老・毛利輝元を西軍の総大将として据えることに成功。
さらにもう一人の五大老・宇喜多秀家も味方につけた。
大坂城を拠点にした三成らは、諸大名に打倒家康の檄文を送り、毛利輝元を総大将に迎えたこともあって、小西行長や立花宗茂ほか多くの西国大名が結集し、総勢10万近い兵力を確保していた。

西軍は7月19日、家康の重臣・鳥居元忠らが守る伏見城に攻撃を開始。

7月24日、この報を聞いた徳川家康は小山(現・栃木県小山市)にて、徳川軍が今後どうするべきかを諸将に相談した(小山評定)。
この会議では豊臣恩顧の武将がどちら側に味方するかがカギとなっていた。

そこで黒田長政は事前に家康と打ち合わせ、秀吉子飼いの武将・福島正則が真っ先に徳川方につくよう説得した。
「石田三成襲撃事件」にも加わるほどの三成嫌いであった正則は大勢の大名の前で徳川方につくことを宣言。
この発言が引き金になって豊臣方の武将はことごとく家康につくことになった。

会議は決した。
打倒石田三成を掲げ一致団結した諸将は、福島正則らを先鋒とし、正則の居城である尾張の清洲城へと兵を進めた。
家康は、次男・結城秀康に1万8千の兵を与え関東の抑えとして置き、上杉家の抑えを最上家・伊達家にまかせると、8月4日に小山を出立。
翌5日に江戸城に帰着した。

江戸城にて家康は、豊臣恩顧の諸将が裏切らないか見定めると同時に、各地の大名に書状をしたため協力を仰いだ。
この根回しが関ケ原本戦に大きく作用することとなる。

かくして、石田三成方の西軍、徳川家康方の東軍の図式ができあがり、天下分け目の関ヶ原合戦へとつながっていくのだ。
 

【決戦の地・関ヶ原へ】

8月23日、東軍は先方・福島正則らが西軍の要となる岐阜城を陥落させる。

8月24日には、家康の三男・秀忠が東軍の主力となる本隊3万8千を率いて、宇都宮から中山道を西に向けて進軍を開始した。

ちなみにこの本隊は上田にて、西軍に味方した真田昌幸・幸村親子に足止めを食らい、本戦には間に合わなかった。

9月1日、ついに家康が3万の兵を率いて江戸を出陣し、9月14日に美濃赤坂に着陣。
家康率いる東軍が、三成ら西軍が詰める大垣城の目と鼻の先に迫っていた。

そのとき、三成のもとに「東軍は大垣城を無視し大坂に向おうとしている」という報が入る。
これは西軍をおびきだすために東軍が流した情報であったが、そもそも大垣城では東軍を抑えきれる保証がなかった。
三成は関ヶ原に布陣中の西軍と合流し、決戦の地を関ヶ原の地に改めた。

しかし、西軍には多くの問題があった。
まず総大将である毛利輝元が大坂城からでてこない。
さらに、立花宗茂らが率いる1万5千の兵が、西軍を裏切った京極高次の立て籠る大津城を報復攻撃するが、京極軍の果敢な抵抗により足止めされていた。

そもそも西軍は全体がまとまりきれていなかった。
東軍につこうとしていたが成り行き上、西軍に属せざるを得ない島津軍や長宗我部軍は士気がまったくあがらない状況だった。

ここでも黒田長政の調略の手が伸びる。
黒田長政は南宮山に陣取る吉川広家と秘密裡に裏切りの約束を取りつけ、後ろに控える毛利秀元や安国寺恵瓊らの隊が動かぬようけん制させた。

また、長政は秀吉の甥である小早川秀秋にも東軍に裏切る約束を取りつけていた。
というのも秀秋はかつて三成の報告がもとで大減封された経験があり、それを家康がとりなしで回復してもらった経緯があったのだ。

小早川秀秋は松尾山を陣取った。
ここは関ヶ原が一望できる最高の立地である。
三成にとってこれは大きな誤算だった。
9月14日夕刻、三成は松尾山の北、笹尾山に陣取り、東軍を迎える準備を整える。

この動きに対し、東軍も兵を進め、両軍は関ヶ原に集結。

関ヶ原の決戦まで、あと24時間をきった。

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