【第3回】関ヶ原の戦い -後篇- (1600) | マイナビブックス

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歴史1コマ事件簿: Part.2

【第3回】関ヶ原の戦い -後篇- (1600)

2016.10.27 | みかゆめきよみ

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石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍、関ヶ原にて、いよいよ決戦の時を迎える。
忠節・傍観・裏切り…あらゆる思惑が蠢く戦場。
天下分け目の関ヶ原、その経緯を追っていこう。
 

決戦の日
 

【戦いの火蓋が切られる】

慶長5(1600)年9月15日早朝…霧が立ちこめる美濃国(現・岐阜県)関ヶ原にて、西軍約8万、東軍約7万5千が対峙。
静かにその瞬間を迎えようとしていた。

西軍の実質的な大将・石田三成は、関ヶ原北西の笹尾山に布陣。
そのふもとには家臣の島左近、蒲生郷舎隊が布陣し、さらに南に向かって島津義弘隊、小西行長隊、宇喜多秀家隊、大谷吉継隊、そして南の松尾山に小早川秀秋隊が陣取った。

これに対し東軍は、黒田長政隊、福島正則隊、井伊直政隊ら諸隊が笹尾山と松尾山に囲まれたくぼ地に陣取り、総大将である徳川家康は彼らの後方、桃配山へ陣取った。

この東軍を囲むような形で、東の南宮山には西軍の毛利秀元隊、吉川広家隊、長宗我部盛親隊が陣取った。

この西軍の布陣は「鶴翼の陣」という。
鶴が左右に大きく羽を広げた形に陣取り、向かってくる敵を左右から包囲しつつ殲滅するというものである。
誰が見ても、西軍の完璧な布陣であった。
しかし、現実はそうはいかなかったのだ…。

午前八時ごろ、東軍の先鋒を任された福島正則隊の横を井伊直政隊と松平忠吉隊が通過し、宇喜多隊に先制攻撃をしかけた。
これは軍規違反であるが、井伊直政は豊臣恩顧の大名である福島正則ではなく、徳川譜代の大名が一番槍をあげるべきでだと思っていた。
また、自分の婿であり家康の四男である松平忠吉に一番槍の手柄をとらせたいという親心もあった。
こうして、直政の隊が西軍の宇喜多隊に向け鉄砲を撃ちかけると、この砲声を合図に本格的に決戦の火蓋が切られた。
 

【一進一退の攻防戦】

これに慌てた福島隊の先鋒隊長・可児才蔵(かにさいぞう)らも宇喜多隊に攻めたが、宇喜多隊の先鋒・明石全登(あかしたけのり)とその軍勢約8千の猛攻により後退を余儀なくされた。
しかし態勢を整え果敢に攻め、しばらくは一進一退の攻防が繰り広げられた。

いっぽう笹尾山に本陣を置く石田隊に黒田長政・細川忠興・加藤嘉明らが猛然と襲いかかった。
三成襲撃事件にも加担した彼らの士気は高く、石田三成の家臣、島左近は黒田隊の鉄砲を受け重傷を負ってしまった。

さらに小西隊が田中吉政・本多忠勝・織田有楽斎隊と激突、大谷隊が藤堂高虎・京極高知隊らと激突した。

開戦から2時間、戦況は西軍有利に動いていた。
これを見て苛立つ家康は、味方を鼓舞するため本隊を桃配山から最前線近くに移動させた。
 

【動かない西軍】

そのあいだ、石田三成は島津隊に使者を送り参戦を促した。
しかし、島津隊はこれを断固拒否。
理由は「使者が下馬せず無礼であったから」だというが、島津義弘はもともと東軍に与するつもりであったし、関ヶ原合戦当日に至るまでの石田三成の対応に不信感を抱いており、協力する気はなかったのである。

午前十一時ごろ、三成は勝利を確固たるものにしようと、まだ参戦していない小早川隊・毛利隊に向けて総攻撃の狼煙(のろし)を上げた。

しかし、南宮山では家康と内応した吉川広家が陣を動かさず、その後ろに控えた毛利・長宗我部らは戦いに参加できない状況に陥っていた。
さらに、松尾山の小早川隊も動こうとはなかった。
小早川も家康と内応していたのである。
 

【小早川の裏切り】

小早川は家康に対し機をみて西軍に攻撃をしかけると約束していた。
しかし、小早川はなかなか動こうとはしなかった。

正午過ぎ、業を煮やした家康は松尾山に向けて威嚇発砲を行った。
これに驚いた秀秋はようやく突撃命令を下し、約1万5千の大軍で松尾山のふもとに陣をとる大谷吉継へと攻撃をしかけた。

吉継は小早川の裏切りを予知していたという。
しかし、この勢いに乗じて小早川隊の前にいた西軍の脇坂安治・朽木元綱らが東軍に寝返ってしまうと、大谷隊は数で押されてしまった。

「もはやこれまで…」
覚悟を決めた大谷吉継は自刃、三成との友情に殉じた。
 

【島津の退き口】

小早川の裏切りによって西軍有利の戦況は一気に逆転した。
大谷隊の壊滅に次いで、小西・宇喜多隊までもが敗走し、石田隊が孤立。
三成は笹尾山の背後に控える伊吹山へと落ちていった。

午後二時ごろ、もはや東軍の勝利は揺るがないものとなった。
しかしその戦場に取り残された隊があった。
島津隊である。
島津義弘は当初討ち死にする覚悟でいたが、甥である島津豊久に説得され、敵中突破をする意思を固めた。
これが世に名高い「島津退き口」である。

島津隊は義弘を守るため、「捨てがまり」の戦法をとった。
これはしんがりの狙撃手を道筋に配置し、本隊を確実に撤退させる捨て身の戦法である。

島津隊は家康の本陣横を堂々と退却していった。
これには家康も意表を衝かれた。
すかさず、井伊直政・松平忠吉・本多忠勝隊がこれを追いかける。
直政と忠吉は捨てがまりの餌食になり、この傷が元で数年後に亡くなってしまう。

豊久はこの戦の中で討死をするが、義弘は無事に戦場を脱出することに成功した。

戦場から西軍がいなくなり長期戦が予想された関ヶ原の戦いはたった1日で終わった。
徳川秀忠率いる本隊がいまだ到着していないというのに、結果的には東軍の圧勝であった。
 

【戦後処理】

家康は敗走し行方不明となっている三成らを徹底的に捜索し、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊を見つけ出して京都引き回しの上、処刑した。

島流しの刑になった宇喜多秀家は、八丈島にて83歳の天寿をまっとうした。
反面、東軍を勝利に導いた小早川秀秋は岡山藩55万石の大大名に出世したが、関ヶ原の戦いの2年後に21歳で狂死したという。
なんとも皮肉な話である。

領地保証の約束をとりつけ戦闘に参加しなかった毛利家は、その約束を反故にされ、領地を大幅に削られてしまった。

関ヶ原から退却し薩摩に戻った島津家は、黒田如水や加藤清正ら九州勢の東軍と一触即発の状態となるも、みずから降伏をし、交渉の上家康から領地安堵を認められた。

そのほか、西軍に属した諸将、また各地で戦っていた西軍派の諸将はことごとく降伏し、減封、またはお家取り潰しとなってしまった。

さて、関ヶ原の戦いの発端である豊臣家の処遇だが、蔵入地(直轄地)が廃止され、222万石から65万石に減封となり、一大名に成り下がってしまった。

天下分け目の関ヶ原、これに勝利した徳川家康は慶長8(1603)年に江戸幕府を開府。
慶長20(1615)年の大坂の役にて豊臣家を滅亡させ、以後、約270年続く江戸幕府の礎を築いたのである。

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