天正10(1582)年6月3日、本能寺の変第一報が、備中高松城を水攻めしていた羽柴秀吉のもとに届いた。
これを聞いた秀吉の軍師・黒田官兵衛は、秀吉の耳元で囁いたという。
「御運が開かれる機会が参りましたな」
信長の死を受け、とり乱していた秀吉はこれにより落ち着きを取り戻し、備中高松城主・清水宗治を自刃させ、すぐさま毛利氏と和睦を成立させる。
秀吉軍は備中高松城の陣を引き払い、6日、急ぎ京へと「中国大返し」を開始する。
行軍は秀吉を先頭に2万以上の軍勢で行われたといわれている。
6日、備前沼城へ入城。
宇喜多勢を残し、暴風雨のなか姫路城へと軍を進める。
7日、播磨国姫路城へ入城。
休養のため9日まで滞在する。
その間に秀吉は城内に備蓄してあった金銭や米穀を将兵に分け与えた。
9日早朝、秀吉は浅野長政を留守居役として姫路にとどめ、残り全軍を率いて姫路城を進発。
その日のうちに明石に到着し、軍の一部を淡路島洲本に派遣し、明智方に与力していた菅氏の洲本城を落城させた。
そして10日朝に明石を出発。
同日の夜には兵庫まで進軍。
11日夕刻には摂津尼崎へ到着する。
大坂在陣中の丹羽長秀、神戸信孝、池田恒興らに尼崎へ着陣したことを書面で伝えると、12日、尼崎から富田(現在の大阪府高槻市)に着陣。
ここで秀吉の書状が功を奏し、池田恒興、中川清秀、高山右近らが秀吉軍に参陣する。
さらに織田信孝・丹羽長秀が大坂より合流。
明智討伐軍の総大将には信長の三男・信孝が立ち、明智光秀討伐の大義を手にすることに成功する。
こうして6月13日、明智軍と羽柴軍は山崎で激突。
「山崎合戦」の火蓋が切って落とされた。
黒田官兵衛の機転により成功した中国大返しは、秀吉による亡君への弔い合戦として語られているが、その過程はどうも怪しい点が多い。
まず、京から200キロメートルも離れた備中高松にわずか1日で本能寺の変の情報が秀吉にもたらされた点だ。
これは毛利氏に送った密使が秀吉の陣中に迷い込んだからだという説が通説として語られているが、それにしてもこれでは都合がよすぎる。
そのため、秀吉があらかじめ光秀の謀反を知っていたのではないかと憶測がされるようになった。
ただし、これについては信長の側近である茶人の長谷川宗仁が早馬をだし、秀吉に訃報を知らせたともいわれている。
次に、2万の軍勢が6日から13日の間に備中から山崎(摂津国と山城国の境)まで大返しできるのか?という点だ。
このときの行軍スピードは1日70キロであったという。
フルマラソンが42.195キロだから・・・かなりの強行軍である。
日程についてはおそらく秀吉が要所に到着した日の記録であり、なにも2万の軍勢がすべて同日に目的地に着いた、というわけではないのだろう。
それにしても、驚異的なスピードであることは確かだ。
一説によると、秀吉と甲冑武具などは海路で送り、兵は褌のみでただひたすら駆けたといわれている。
おそらく街道筋に炊き出しなどを用意し、食事も走りながら摂らせたのだろう。
だとすれば、海路の調整、兵糧の確保など、事前の準備が必要である。
やはり秀吉は事前に信長暗殺を知っていたのでは・・・!?
一方そのころ、柴田勝家は北陸で上杉景勝と、滝川一益は関東で北条氏と対峙し、丹羽長秀は大坂に滞在していたものの明智光秀の謀反を受け多くの兵が脱走してしまい、羽柴軍の到着を待つしかないという状況だった。
秀吉にとってあらゆる好都合が重なっていたのだ。
これら好都合が秀吉の意図したものであったのか否かはさておき、大返しの結果、秀吉は天下人への足がかりを築くことになったが、この後秀吉は官兵衛の智謀を恐れるようになり、二人の間には深い溝ができてしまった。
なんとも皮肉な話である。