【第1回】本能寺の変 (1582) | マイナビブックス

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歴史1コマ事件簿: Part.1

【第1回】本能寺の変 (1582)

2016.09.28 | みかゆめきよみ

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時は天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長が家臣の明智光秀の謀反にあい、京都・本能寺にて自刃!

天下統一が目前に迫っていた織田信長の最大の敵は、身近な家臣であった・・・

通説では、明智光秀は徳川家康の接待役に任ぜられたが途中解任され、中国攻めをしている羽柴秀吉援護のため丹波亀山城に移った。
いっぽう信長は秀吉の援軍に自ら出陣するため僅かの供回りを連れ居城・安土城を発ち、京・本能寺に入る。

6月1日、光秀は1万3000の手勢を率いて出陣し、翌2日未明、桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言し、進路を本能寺にとった。

6月2日早朝、明智軍は本能寺を完全に包囲。
周囲の物音に目覚めた信長は小姓の森蘭丸の報告に唖然とした。

「敵勢の軍旗は、桔梗の家紋・・・!」
桔梗は明智家の家紋である!

「是非に及ばず・・・」信長と小姓らは明智勢に応戦するも衆寡敵せず。
信長は蘭丸に火を放つよう指示すると、奥に篭り自刃し果てたのだ。
ドラマなどでは炎の中「人間50年」の節で有名な敦盛を舞うシーンが印象深い。

本能寺の変の容疑者については今現在も様々な憶測がされている。

もちろん、本能寺に攻め込んだ明智光秀が犯人であるとする説が一般的だ。
その動機は信長からの度重なる理不尽な扱いを受けたことに対する「怨恨説」がしばらくのあいだ通説となっていたが、最近では史料を基にした研究により、さまざまな学説が唱えられている。

明智光秀が主犯であるとする説で語られるエピソードでは、本能寺襲撃前、光秀は愛宕権現に行き、おみくじを引いたが結果は凶だったという。
光秀は納得のいく結果が得られるまで3回もおみくじをひいたとか。
謀反に向かう光秀の心には、迷いや不安があったのではないではないか?

また、亀山城にて光秀は連歌の会を催し、その席で「時は今 天が下知る 五月哉」と詠んだ。
土岐氏の一族である光秀が「時」と「土岐」をかけ、自分が天下を治めることを暗示して詠んだ句であると解釈されている。

それから・・・秀吉もなかり怪しい・・・!

備中高松城水攻め中に信長の死を知った秀吉は、すぐさま毛利軍と和睦し、京都へと引き返す。
いわゆる中国大返しだが、こうもうまくいくだろうか?
大返しに必要な物資や兵糧は街道筋に事前に用意されていたのではないか?

また、秀吉は光秀との決戦、山崎の戦いにおいて要衝である天王山を制している。
その後秀吉が天下統一を果たしたのは周知の事実だ。

信長暗殺の容疑者は挙げればきりがない。
それだけ信長は敵の多い人物だったということだろう。

さて、現在京都市中央区寺町にある本能寺は七回目に建立されたもので、信長と共に焼失した本能寺は別の場所にあった。

本能寺の変のころの本能寺は4回目に建立されたもので、北は六角通(三条通とする説もあり)、東は西洞院通、西は油小路通、南は四条坊門(現在の蛸薬師通)まであったとされている。

また、種子島の島主・種子島氏は法華宗を信仰し、本能寺には種子島氏を通じて多くの鉄砲や火薬が保存されていた。
信長が本能寺に寄宿した理由の一つにこの鉄砲・火薬ルートを押さえる目的があったといわれている。

現在の本能寺の宝物館には、唐銅香炉「三足の蛙」が展示されている。
これは本能寺前夜、信長に危険を知らせるかのごとく突然鳴きはじめたという逸話があるものだ。
とにかく可愛らしいので!ぜひその目で確かめてみてほしい。

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