【第3回】東京オリンピックを迎えて〔昭和三十年代〕(2) | マイナビブックス

100冊以上のマイナビ電子書籍が会員登録で試し読みできる

当世珈琲茶屋事情

【第3回】東京オリンピックを迎えて〔昭和三十年代〕(2)

2016.08.15 | 武山博

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

東京オリンピックを迎えて〔昭和三十年代〕(2)

――開店の頃――

 
 
後年、家屋を新築し、新装開店をした折、営業面積の比率で手伝いに来たコーヒー会社の営業マンも驚くような売り上げを記録したことがあるが、数日後、ドスンと落ちて、これまたびっくりしたものだ。こんなわけで、賑わいも続かなくては話にならない。まして代替わりの店ともなれば、イメージの一新は不可欠となる。
そこで洋菓子店経営の友人のアドバイスをうけ、三つの戦略を立てた。
まずコーヒーの仕入先の変更だ。昭和三十年代の頃は、まだコーヒーという飲み物が、ひどくハイカラに思われていた。そこで、焙煎工場と営業所が銀座にある会社を紹介してもらい、「銀座の味がご当地へ」をキャッチ・フレーズにし、ケーキは友人の所から二日ごとに配達してもらうことにした。そして、フード物にも特色を出そうと知恵をしぼった結果、「ガンちゃん」特製のグレービー・ソースを利用したスパゲッティをフード・メニューの中心に据えた。この作戦は成功し、売り上げに大いに貢献したものだ。
ガンちゃんとは、友人の店の喫茶部で働いていたが、当時は「開店屋」をやっていた男のあだ名で、岩崎邦男といい、飛び出たような目と大きな口が特徴の独身の若者だ。
開店時は、どんな不測の事態が起こるやも知れず、わたしたちのような未経験者にとって、経験者は力強く頼もしい存在だ。
畢竟、指導料も弾むことになり、経営者の親族やら来賓たちの心付けも入る。感謝され、いい稼ぎにもなり、あっちの店、こっちの店と手伝っているうちに味をしめ、「開店屋」になったらしい。
けれども、この商売は短期で終わる。間は遊んでいるわけで、彼の家族はそのフラフラした境遇に不安を覚えたのだろう、その忠告もあってか、わたしの店に腰を据える気になったようだ。ド素人で御しやすいと考えたのかもしれないが、当方にも事情はある。
「コーヒー値段史」という資料によると、当時、一杯、六十円が相場という。けれど、下町のわたしの店の界隈は五十円が一般的だった。わたしはその弱気な地域性にあえて強気で臨み六十円に設定した。別段自信があったわけではないが。
それにしても、彼の人件費が高すぎた。すぐ辞めてゆくはずだったので、無理をしてしまったのだが、このあたりは彼も察していて、簡単に辞めさせられない方策を考えていたのを後で知ることになる。
売り上げも目標をクリアして、一応、店は軌道にのったかに見えたが、内情は火の車だった。というのも、五十年前、喫茶業という業種は世間に広く認知されず、水商売の一種と見なされ、大方の金融機関は融資先としてまともに相手にしてくれなかったという記憶がある。幸運にも、わたしの場合、融資が受けられたものの、それはごく一部で、大半は親族を拝み倒し、三ヵ月といった短期で借金をし、売り上げのほとんどを返済に充てる綱渡りの生活をしていたのだ。
原材料と人件費、返済金を支払うと、手元に現金が残らず、食事はすべて残り物で済ませ、従業員の方が金持ちだ、とカミさんと笑いあったが、本音は笑いどころでなく、なんとかガンちゃんに辞めてもらおうと真剣に思いを巡らしたものだ。
一方、敵もさるもので、そう易々と辞めるわけにはいかない。その切り札が、例の特製ソースで、聞くところによると、さる大ホテルのシェフ直伝のレシピによるとか。当初わたしは、うかつにも好意からこのソースの使用をすすめてくれたと思い違いし、心から感謝していたのだが。
このソースは毎回十日分ほどを大きなステンレスのボールに作り置きし、毎日その一部を鍋に溶いて使用するのだ。この製造は、閉店後、店が無人になると、彼が一人残って二時間ほどかけて作る。わたしが調理場へ入ってゆくと、彼はニヤリとしながら、「そのうちに教えますから……」と言葉をにごし、レシピを隠す。いつまでもいると迷惑そうな顔をするのだった。
わたしは、彼を嫌っているわけでは毛頭なく、ソフトな口調とユーモアのある受け答えで客を笑わせる天性の接客業向きのこの男の言動には、学ぶところが多かった。
しかし、彼は絶対辞めさせられないと自信を持ち始めるや、だんだんと調子に乗り出した。給料の前借は当たり前となり、原料の持ち出し、売り物のタバコの私用などつぎつぎに手を広げてゆく。無論、わたしたちの目に触れないところでやるのだが、一緒に組んだパートさんが見かねて耳に入れてくれる。
ここで、十坪、二十席程度の店で、なんでそんなに人を使うのかという疑問に答えなければならないだろう。

 

「戯曲座」という劇作家・三好十郎先生の主催する劇団の演出部に所属しながら脚本書きの勉強をしていたわたしは、主催者が亡くなり劇団が解散するにおよび、友人のつてを頼り、さる出版社の手伝いをしていたのだ。原稿のリライト、校正の請負、時には特派記者として三、四日と地方を取材して回ったこともあった。実はその収入で、やりくりに貢献することもあった。ために、カミさん一人に店をあずける日が多く、ご承知のごとく喫茶業は営業時間が長い。その上、有難いことにそれなりに繁盛もしていたので、どうしても他人の手が必要だった。
けれども、ガンちゃんの行状を耳にして、わたしは、中途半端な自身の立場を清算しなければと決意した。この頃まで、わたしは、この商売をあくまで一時的な腰掛と考えていたのだ。覚悟を決めたわたしは、まずソースの作り方を探ることから始めた。領収書を調べ、材料を抜き出し、作り方の手順についてガンちゃんが時たま自慢げに口にする片言隻語を聞きだし、練習を繰り返した。しかし、どうしても同じ味が出ない。何かが足りない。頭をかかえていた時、カミさんがふともらした言葉が壁を破るきっかけとなった。
「誰が使うのかしら? 醤油がばかに減るのよ」
隠し味に彼が使っていたのだ。そっくりの味が出来るようになって、わたしは出版社の仕事を清算するとともに、その時が来るのを待った。辞めてもらう理由付けが必要なのだ。
やがて彼が店の常連客から金を借りて、返済しないので、その客が苦情をいって帰ったという噂を聞いた。その客は、タクシーの運転手で、賭け事が好きと評判の人物だった。客が客を呼ぶということがあり、わたしはそうした連中の溜まり場になることを恐れていたが、ガンちゃんがその仲間になることは何としても許せなかった。
狭い街で商売をしていると、いつの間にか公私のけじめが消えてゆく。喫茶業組合にわたしは入っているが、同業者同士が親睦のため旅行などをすると、大量のみやげ物を買い込むことが多いが、これは日頃の客からの頂戴物へのお返しになる。わたしは、そうした関係をなるべく作らないよう気を配っているが、それでも少しずつ増えていく。
開店早々の頃のわたしは、今にして思えば潔癖すぎた気がしなくもないが、彼の行為は許されないと考えた。給料を計算し、いくばくかの慰労金を用意して、のほほんと現れた彼に理由を話し、即刻辞めてくれと通告したのだった。
わたしがそんな風に出るとは夢にも思わなかったに違いない。彼は一瞬呆気にとられていたが、まだ慢心があるのだろう。金を借りたといっても、馬券の立替分だから、問題にするほどのものでないといい、「いつだって辞めてもボクは平気だけど、マスターが困るんじゃないですか?」とうそぶく。契約書など取り交わさず、口約束の雇用である。万一、何としても辞めるわけにはいかない、と反論してきたらどうしようと、内心不安だったが、平気だといってくれて、ホッとしたものだ。わたしは平静を装い、少しも困らないといった。客との間にそうした関係だけは起こしてもらいたくなかったとも。
大げさかもしれないが、最悪の場合、刺し違えてもいいとまでこの時は思い詰めていた。
気迫に押されたのか、「はいはい、分かりました」と答え、「じゃ、お世話になりました」と去っていった。当時はいくらでも働き口がある時代だったからに違いない。地方から上京した集団就職の子らを金の卵といっていたのもこの頃だったと思う。
わたしは彼を切ることで、やっとであるが店主になれたのだと思っている。

さて、現在の感覚からすると信じられないかもしれないが、当時の夏場対策は扇風機がほとんどだった。わたしは多少経営が安定してきたので、なんとか同業店との間に差別化をはかりたいと考え、クーラーを思い切って入れようと計画した。近くのナショナル系の家電店に声をかけたところ、今でいうところの家庭用の小型クーラーがないという。仕方なく、その店の紹介で、重電機系の日立電機から、最小のタイプを購入することにしたのだった。「冷房完備」のパネルを店頭に飾った時は嬉しかったものだ。けれど、大家の承諾を得ないまま壁をぶち抜いてクーラーを取り付けたと、烈火のごとく怒られ、以後過剰な干渉がやんだのは、怪我の功名かもしれない。考えてみると、社会経験不足のわたしたちも結構非常識をやったのだろう。この大家にして、この店子あり、なのかも知れない。
しかし、中元、歳暮、新年の挨拶といったケジメは相変わらず厳格で、少しでも遅れると催促がくる。そして、自分はそんなもの少しも欲しいわけではないが……という説教が始まる。まるで落語の中の、大家といえば親同然……の論理で。また、妙な癖があって、わたしたちの食事中、突然窓を開け、どうでもいいようなことを口実に、食卓をのぞきこむのにも閉口したものだ。小唄を趣味とするもの静かな和服の似合う老人というイメージは、早々に根底から崩れたといっていい。
わたしは昭和の初めに東京の新橋に生まれた。当時の新橋は庶民の町という記憶がある。祖父が貴金属装身具の製作所を手広く経営していたのだが、太平洋戦争が始まり、戦火が広がるにつれ、贅沢品はしだいに制限されてゆき、やがて閉鎖されることになった。家業を嫌った父は、志願して軍人の道を選んでいたが、いつ外地に出征しても心配しなくてすむようにと当時勤めていた陸軍省の筋を頼り都の西北にあった士官学校の教員住宅に家族を疎開させた。十一歳の時だった。以来三十歳近くまでわたしの郊外生活は続いた。
こんなわけで多少下町の雰囲気は覚えているつもりだったが、いざ生活してみると、この隅田川に近い町の濃密な人間関係には圧倒されるばかりだった。無論、人間の営みは土地柄をこえて共通するものではある。けれど隣家同士が惣菜や調味料を交換したり、近くの食堂と蕎麦屋が「めし」の貸し借りをするといった親密さは、ほほえましさを通り越して、恐怖心すら覚え、この町に生きてゆく自信がややもすると失せてゆくのだった。
けれども、皮肉なことに、商売のほうは比較的に順調だった。町には「上を向いて歩こう」などの歌声が流れ、三十四年には現天皇の結婚、三十五年にはカラー・テレビの本放送が東京オリンピックにあわせて始まり、インスタント・コーヒーもこの年に登場している。すべてが豊かさに向かい突き進んでいるという時代だったのだ。
この頃、わたしたちにある試練が訪れた。それは、近くに強力なライバル店が現れたのだ。「コサカ」という店で今では世間も忘れているのだと思うがボクシングの東洋ライト級のチャンピオンの小坂照男が経営者だった。しかも彼は、これまたカリプソという陽気な歌をうたって大ヒットした歌手と結婚して話題になった直後だった。
その人気者たちが店を出したのだから、たまらない。今思い返しても冷や汗が出るほどで、店の常連さんたちも含め、ほとんどのお客さんが店から消えてしまったのだ。冷静極まりないカミさんも、愚痴こそこぼさなかったものの、夜中、寝言をいい、しきりと歯軋りをしていたものだ。それでも有難いもので、頑としてわたしの店に残ってくださった少数のお客さんもいた。正直、心の中で感謝状を贈りたいと思ったほどだ。
幸いなことに、「コサカ」は一年ほどで店を閉めた。ご本人たちが店に顔を出したのは開店早々のわずかで、あとをまかされていたバーテンがひどく生意気だったそうで、客足が遠のいたとか。一旦消えたお客さんが、再びわたしの店に戻ってきたのだった。
今にして思えば、そうしたことで一喜一憂していたことがなつかしくも思われる。お客さんは回遊する魚のようにあちこちの店を楽しんでいるのだ。そして常連さんほどその店に対して不満をもっており、よりよい店が出現すれば、いつでも去っていってしまう厳しい世界なのだということを、わたしはこの事件から教えられたのだ。

年表によると、三十七年の項に早稲田大学の暉峻教授の造語「女子学生亡国論」が話題になったとあり、女性パワーがだんだん強くなっていく様子が感じられる。なつかしい「こんにちは赤ちゃん」の歌も、この翌年流行った。業界関係でいえば、三十一年に、野放図だった喫茶店などの深夜営業に取り締り条例が公布されたとある。

続きをご覧いただくには、会員登録の上、ログインが必要です。
すでにマイナビブックスにて会員登録がお済みの方は下記の「ログイン」ボタンからログインページへお進みください。

  • 会員登録
  • ログイン