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当世珈琲茶屋事情

【第2回】東京オリンピックを迎えて〔昭和三十年代〕(1)

2016.07.26 | 武山博

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東京オリンピックを迎えて〔昭和三十年代〕(1)

――開店の頃――

 
 

縁というものはつくづく不思議なものだと思う。ほんの些細なきっかけで、わたしは喫茶店経営などという未知の世界に飛び込んでしまったのだ。
それは三年後に東京オリンピック(一九六四年)が開かれ、また翌年には「三河島駅事故」という大惨事のあった昭和三十六年の秋も終わりに近い頃だった。カミさんの友人が経営していた喫茶店を事情あって手放すにあたり、「やってみない?」と声をかけられたのが事の始まりだ。
早とちりに関しては、カミさんも、わたしも人後に落ちない。彼女は、そっくり居ぬきで、権利金、敷金もそのまま経営権を引き継げるよう錯覚し、わたしはわたしで、うまくいけば“髪結いの亭主”になれるとすっかりその気になってしまった。
無論、不安な気分もないわけではない。まず世の中、そんなにうまい話が転がっているわけがない。次に、その土地がまったく未知の場所だった点だ。それに、知人にその道に詳しいのがいて、彼は、どんな事惰であれ居ぬきの店は新規開店より難しいというのだ。問題があるから手放すのであって、その問題克服が予想以上に手ごわいという。カミさんが商家の出であって、計数に明るく、その店を半年ほど手伝ったといっても所詮素人の域を出ない。
それに、わたしは生来の人見知り性だ。こんな男が客商売に向いているはずがない。だんだん不安になってゆく。周囲に相談すると、皆が皆反対。こうなると逆にムキになるところが、わたしの欠点で、ここでも妙に依怙地になってしまったが、思えば若気の至り、未熟の一語につきよう。
家主がどんな人物かも気になるところだが、カミさんに聞くと、「武骨な爺さんだけど、いつも和服で、小唄なんかやってるそうよ」という。道楽や趣味のある人物なら、そうそう銭勘定にうるさくなく、筋の通らぬことをいうこともあるまいと、ここで、またしても大きな過ちを犯したものだ。
ともあれ、早速その店を見てみようと出かけて、聞いてはいたものの、その不便さに驚いた。どんな最寄りの駅からも急いで徒歩十五分はかかる。バス便をつかうか、自転車が必需品の土地だ。近くの不動産屋の主人に土地の特性を尋ねると、「不便というけど、客にとっても出かけるのが大変だから、結局地元で用たしをせざるを得ない。商売するにはソコソコの利益は出る。しやすい場所だよ」という話だった。
店は、南北に三百米メートルほどの道を挟んだ百店舗ほどの商店街の中ほどの角にあった。十坪はあろうかという平凡な内外装の喫茶店で、奥に六畳と三畳に一坪のキッチンとトイレが付いている。なんだこんな小店か、と正直がっかりしたが、反面ひどく気が楽にもなって、おまけに住まいの心配もなくなるしで、いよいよその気になってゆく。
しかし、いざ話を進めてみると、楽観は吹き飛び、予想外の方向へ向かってしまった。家主にとっては、全くの新規契約だという。カミさんの友人がいった、「やってみない?」という誘いは、契約解除による内外装を原型に戻す費用を肩代わりさせる口実だったのだ。何という親友だ、と文句をいっても後の祭り。内外装が変わらなければ費用はかからないものの、権利金、敷金は相場どおりとられ、しかも全く変わりばえのしない店を営業し続けることになる。
わたしたちは、ここですっかりやる気を無くしてしまった。そこで、いつものことだが、カミさんの父親のご意見をうかがうことにした。義父の意見は、「面白いじゃないか」というものだった。もっといい場所だったら、「よしなさい」というつもりだったという。それに契約が十年というのも借り手には魅力だというのだ。わたしはこの義父の意見には、いつも素直に耳を傾けるのだ。彼は、何をやっても失敗ばかりしている人で、親族の中でも「ああ、あのオジさん」と軽んじられている。ご本人も承知の上で、少しもでしゃばらないし、瓢々として、いつも群れの後方にいる。親族の集まりなどで、うしろの方でタバコの煙が上がっている箇所があると、大体そこにいる。苦笑しながらポツリという一言は、体験に裏打ちされ、苦渋に満ちている。
というわけで、この一言で、わたしたちは気を取り直して「やろう」ということになった。問題は先立つもので、脚本家志望のこれといった技能もないわたしは、友人、知人に全く信用がなく、結局カミさんの実家の援助をあおぐことになったが、実をいうと、まだかなり足りない。金融機関の世話になることとなり、さて担保提供となった。こうなると、土地持ちでないと話は先に進まない。幸いというか、わたしの父は元軍人で、都の西のはずれで多少の土地を持ち、火災保険の代理店をやっていた。この親不孝者は、ここ数年、ほとんど寄り付かなかったのだが、意を決し、土下座する覚悟で頼みに行った。
父は、黙ってわたしたちの計画に耳をかしていたが、その日は、とうとう即答してくれなかった。当然だと思った。父は、そうでなくても堅い仕事をせず、脚本家なぞを目指しているわたしの生き様を苦々しく思っていたに違いなかったからだ。そしてあきらめたのだ。ところが三日ほどして、保証人の欄に署名捺印した書類が送られてきて、改めてわたしは、父が老い、気が弱くなったことを知った。と同時に、絶対父に迷惑をかけるわけにはいかない、と覚悟した。もう甘ったれてはいられない。なにしろ、居ぬきというイメージを変えるため、内外装も一新することにしたので、見積り費用も当初の倍近くもかかってしまったのだから。
さて、この店の立地をもう少し詳しく説明しよう。わたしたちの店の隣にもう一つ同じような間取りの店が壁一重でくっついている。約五十坪ほどの角地に一棟二店舗の二階家が商店街通りに建っているわけだ。二階は、脇道に別の入り口をもったアパートになっていて、そこには、六畳一間と半畳の踏み込みとミニ台所のついた、いわゆるワンルームが、中央の廊下を挟んで左右に三つと四つ、合わせて七つあり、トイレと洗濯場は共用となっていた。そして、隣家に接する奥の部分に一米幅のベランダが部屋にそってぐるりと付いている。大家夫妻は、この建物の裏手に路地を接して間口二間の細長い二階家があり、そこに住んでいた。
家主は、和田正之助といって、当時七十歳に近かったが、年のわりに油ぎった大男で、頭は坊主、唇が分厚く、和服をだらしなく身にまとい胡坐をかいている様は、ドングリ眼とあいまって、狸和尚然とした印象を与えた。婆さんはフキといい、ムンクの絵「叫び」に出てくる女のような南京豆顔で、いつも不機嫌な表情をした、これまた七十歳近い顔全体が皺に埋まった小柄な女だった。この二人の取り合わせが、初対面の時からわたしにはどうにも不思議で、どういうめぐり合わせで一緒になったのか考えたものだったが、とうとう分からず、未だに分からないままだ。人にはそうした結ばれかたもあるのだろう。二人には子がなく、フキの筋から養子をもらい、当時すでに結婚して別の所に所帯をかまえているということだった。寂しかったのか、その頃フキは猫を二匹飼っており、子供に語りかけるようにしていたのを覚えている。
壁を接しての隣家は、衣料品の月賦屋で、この建物が出来上がった二年前から入っている先輩でもあったので、わたしたちは分からないことがあると、真っ先に相談に行ったものだ。小さい頃から商家で鍛えられた苦労人で、貸し借りの問題やら人との交渉にたけており、随分と助けられたものだ。
けれど反面、わたしたちのような商いに関してのド素人はスキだらけだったのだろう。やがて大家との間の限りない緊張と、嫌がらせやら値上げ交渉といった店子として共同戦線をはる立場にもかかわらず、微妙な店の体力や条件の違いから生じる店子同士の駆け引きにも巻き込まれ、煮え湯を飲まされる目に幾度かあったのである。
その一つに、金融機関からの融資の問題があった。実質的には、わたしの父の保証でお金は借りられることになったのだが、第三者としての保証人も形式的に必要だというのだ。そこで隣家の主、小林勇さんの名前を拝借したところ、いつの間にか、勇さんがわたしたちの資金の面倒をみてやったのだという風聞に発展してしまい、愕然としたことがあった。
で、話を元に戻すと、いよいよ明日開店という慌ただしい晩だったが、正之助が、ちょっと顔を出してくれと、台所から声をかけてきた。納期が遅れ、やっと届いたテーブルと椅子の据付けに大汗をかいていたわたしたちは、とにかく仕方ないと、時間を気にしながら顔を出した。
茶の間に、正之助が正座しており、フキは脇で縫い物のようなことをしていたと記憶しているが、ちゃぶ台の上に盃が伏せてある。
わたしたちを並ばせて座らせると、まるで大勢の人に話すように、「え……いよいよ明日に迫った開店、お目出度うございます。ここで貴家の商売の繁栄を祈念して、一献差し上げたいと思うので、盃をお取りください」という。うやうやしく盃をとり、わたしたちは冷酒をふるまわれたのだった。
飲み干すと、正之助は、小唄を披露したいといい、やおら目をつぶり、首をふりふり小節をきかせて、

 土手の草 人に踏まれて 一度は死ぬる
    露の情けで生き返る

と謡った。
早々に退散したわたしたちは、貴重な時間をつぶされたと腹を立てながらも、なんであんな唄を聞かせたのだろう、と話し合ったが分からない。カミさんが、「あれしか知らないんじゃない」といったので笑ったが、事実、正之助の十八番があれで、その後も事あるごとに聞かされたものだ。ただ、この時のフキの表情が妙にあとあとまで気持ちに引っかかった覚えがある。冷ややかな笑いといったもので、けっして仲のよい夫婦の間に流れるものではない。それにしても、なにかにつけ干渉したがる正之助の性格に、やがてわたしたちは悲鳴をあげることになる。
まず、開店するや、連日のように様子を見に来る。店内に知り合いを見つけると、というより、この地で自分の知らぬ人間はモグリだと自称しているだけあって、誰でも知っているわけで、片端から声をかける。それも、ここのは味がいいから、これからも来てくれと歯の浮くような世辞をいう。カミさんが手伝っていた頃は、そんなことはまずなかったというから、わたしたちは気に入られたのだろうか? それとも、開店早々だからなのか? いや、危なっかしくて、見ていられなかったのだろう。しかし、正直ほっておいてほしいのだが、口にするわけにもいかない。それだけではない。通りすがりの知人を引っ張ってもくる。自分はこうして身銭をきって、あんたらを応援している、というところを見せるわけだ。客が帰ると、あの人物は、どこの誰で、どういう仕事をしているから信用してもいいとか、悪いとかいう説明が始まる。当方にとってはどうでもいいことだが、本人は自分の好意にいい気分なのだから始末が悪い。次第に腹が立ってきたものだ。

ところで、開店という火事場騒ぎの中で、実は一番の心配は、この奇妙な家主のことでもなければ、融資先への返済の問題でもない。ただただお客さんが引き続き来てくれるかということだった。
ある先輩の話によると、下町の人々は開店の花輪が出ていると、景品がもらえるぞ、とどっと来るという。山の手の人々は、物欲しげに思われるのはいやだから花輪がとれたら行きましょう、というのだそうだ。当否は別として確かにお客さんにも地域性はある。

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