【第2回】樹海(2) | マイナビブックス

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【第1回】樹海(2)


達也の頭に一瞬ひらめくものがあった。無料で宣伝という手段がある。日頃、自分の中で夢が肥大してゆけばゆくほど、達也は身を慎まなければならないと考えていた。何故なら、多分人々は達也の考えているような事柄を理解するよりも、まず気味悪がるのではないかと思ったからだ。幼い頃、仲良しの友達の前で、空想の中の地底人と会った話をまことしやかに話しているうちに、友達が怖がって逃げ出してしまったことがあったのだ。
けれど、自制にも限度があった。丁度、童話の中のあの理髪師が、「王様の耳はロバの耳」と、こらえきれずに森の奥で叫んでしまったように。道路の補修とか、地域の利益のためといった地方選挙と違い、衆議院議員選挙は国家のために働く人を選ぶものだ。達也のアイデアは、まさしく国家的プロジェクトに値するものだ。こらえ切れなくなった達也は、立候補することを節子に告げ、節子は、夫が狂ったかと驚愕した。有能なスパイが家族をあざむき続けるように、達也は、節子らにもう一つの顔を全く知らせなかったのだ。「思いとどまって」と必死で頼む節子の願いに、達也は耳をかさなかった。
政治に対し、達也はそれほど関心を持ってはいなかった。どの人物も、似たような公約を、さも自分の独創のように見せて体裁をとりつくろっているように見えた。それに、限られた任期の中で、数多くの公約を実現させるなぞ不可能なことだ。
立候補にあたり、達也には一つの秘策があった。「あれもこれも出来ませんし、やるつもりもありません。そのかわり、唯一つ、日本のエネルギー問題を解決します」というキャッチ・フレーズで勝負しようというものだった。選挙運動も一切やらない。大きな活字で、「高野達也は日本海の海水を太平洋におとし、その水力で日本のエネルギーを解決します」とやるのだ。
当選さえすれば大企業も放っておかないだろうし、実行は、その道の知恵者たちがやってくれるに違いない。よしんば落選しても、国中にセンセーションを巻きおこさずにはおかないだろう。小男の「ボーヤ」のこの無謀ともいえる行動に、周囲は呆気にとられたのはいうまでもない。
しかし、選挙の結果、この大計画は結局のところ国民には理解されず、三百数十票という国政選挙としては惨たんたる票数で落選し、供託金は没収され、借財が残ったのである。センセーションは見事に起きなかった。これがきっかけとなって、達也の家はきしみ出したといえる。ガスが抜け、目立たない普段の顔に戻ったにもかかわらず、「ボーヤ」に周囲は新たな変人というレッテルを奉ったのだ。
それまでにも、節子は口数が少なく、いつも物思いにふけっているような達也に「なんて退屈な人なの」と憎まれ口をたたいていた。このきつい冗談に、「くたくたに疲れて帰ってくるんだ。家で夫婦漫才なんか出来るか」と、むっつり応酬した。それが落選ののち、「あなたという人が気味悪くなったわ」に変わった。
そして、節子は蒸発した。なんの書き置きもなかった。そのうち帰ってくるだろうと高をくくっていたが、音沙汰もなかった。しまいに腹が立ってきたが、それも忘れた頃、離婚届が送られてきた。争う気も失せ、印判をついて送り返してやった。そののち、後添えももらわず達也は頑張った。父の気持ちを子供たちはきっと分かってくれると信じて。
ところが少しも理解していなかったのだ。毎朝、手造りの弁当を持たせて送り出していた長男が、なんと学校へ出ていなかったという。問いつめると、「面白くねえんだ」という返事。思わず手を上げてしまったが、忍耐がなくて、どうして一人前の人間になれる。「父さんを見てみろ!」と怒鳴ったっけ。
鼻先で笑った長男は、高校中退で勤めに出、いつの間にか家を出てゆき、全く親許へ寄りつかなくなった。そうだ、一度、結婚したからという便りがあって訪ねたことがあった。孫も出来ていた。ささやかな晩さんの席で達也はタバコを出したところ、家は禁煙だからベランダへ出て吸ってくれ、といわれた。狭く、きたないベランダで煙をふかしながら二度と訪ねまいと誓ったのだ。
なんとか終電に間に合いたい。達也は急ぎ足になった。歩きながら、この道は以前通ったことがあるような気にもなる。いや、前に進んでいるのだからそんなことのあるはずがない。
娘が家出をしたのは、大学受験をひかえた年の初めだった。達也は別段、世でいう教育パパではなかったが、自分が高等教育を受けそびれた苦い経験から、せめて子供には一通りの教育だけは受けさせてやりたかった。それだけだ。あとは自由にやればよい。その程度の期待すら娘には重荷だったのか。もっとも、それが原因ではないかもしれない。一時、達也が入り浸っていた酒場があって、そこの由利江という女に惚れていたことがあった。面影が節子に似ていた上に、ふともらした達也の夢を笑わずに聞いてくれたのだ。
そんなわけで、つい帰宅が遅くなることも間々あり、娘はそのことに気づいていたのかも知れない。達也は未亡人だった由利江を後添えにもらおうと真剣に考え、一度家に連れてきたことがあった。シュリーマンの大事業を陰で支えたのは、発掘先の現地で娶った妻あればこそだった。夫婦は夢を共有し合うことが大前提なのだ、と落選ののち反省したからだ。
長男も未だ家にいた頃で、口を酸っぱくして家で待っているよういっておいたにもかかわらず、子らはとうとうその夜帰ってこなかった。無言の子らの抵抗に気持が萎え、いつしか、その話は流れた。子供たちの年齢がもっと幼いか、あるいは大人になっていたら、多分流れは変わっていたろう。人生は意地の悪いものだ。
八方探したが、娘は見つからなかった。そのうち、静岡の方のスーパーで働いている女性が娘らしいと知らせてくれる人があった。尋ねてみると人違いだった。しばらくして、東京湾の月島桟橋に浮かんだ水死体がそうではないか、という連絡が入った。
まさかと思うものの、駆けつけてみると二目とみられない姿の娘だった。覚醒剤が検出されたという。どうしてこんな目にあったのか、見当もつかない。何かの事件にまきこまれたのだろう。もっとも達也自身、未だ確信がつかず、ひょっとすると何処かで元気に生きているような気がしなくもない。唯、右肩のつけ根にある五百円玉大の痣がやはり娘のもののように思え、そう確認したのだったが。
おや、ここはさっき通った道ではなかったか? 立ち止って周囲を見まわす。そうだ。たしかに目の前の五階建てのビルは、あの寮に違いない。窓の明かりがすべて消えているが、入口の感じは間違いない。右隣の分厚いシャッターも、その隣の一階の車庫もそうだった。達也は愕然とする。再び同じ所へ戻ってきてしまった。
終電はすでに出てしまったに違いない。一体何時だろう。腕時計に目をやると、長針と短針が重なりあって十二時で止っている。達也は以前、旅の途中、富士山麓の樹海を眺める機会があった。入ったが最後、出てこられないと聞かされ身震いしたことを思い出した。まさかとは思うが、知らずに自分は、今、街の樹海に迷いこんでしまったのだろうか? やむをえない。
自力の脱出をあきらめ、タクシーを拾おうと周囲へ目をやるが、人の気配はおろか、車の影さえもない。
急に後ろの方で車のブレーキをかける音が聞こえる。ふり返るが何も見えない。ビルの陰に止っているのかもしれない。達也は走って、ブロックの脇道をのぞいてみるが、無人の道に街路灯が点々と灯っているだけだ。と、前方の道にちらりとライトの二つ目が光る。やがて光は速度をまして近づいてくる。心に希望の火がともる。道の中央に出て力一杯手を振る。身を避けて目の前にきたタクシーをのぞきこむと、男と女が寄りそうように乗っている。蒸発した節子と見知らぬ男だ。
車は速度をゆるめず通り過ぎようとする。達也は必死に車を止めようとして追うが、関心を示さず闇の中へ消えてゆく。ひょろりと達也はよろめく。今、節子を責めようという気持は全くない。むしろ許しを乞いたいとさえ思う。その気持を伝えたいのだ。横手で突然人の笑い声が聞こえる。達也は力をふりしぼって走る。とにかく、この場から脱け出る道を教えてもらおう。
けれど、駆けつけると人影はない。たしかに、あれは人の声だったのに。こうなると、犬でもいい、猫でもいい、何か生きているものに出会いたかった。
思わず達也は大声で叫び出していた。「おーい、誰かこの街にはいないのか!」叫び声はビルの谷間に吸いこまれて返ってこない。先刻、寮の三階に電灯が一つ灯っていたのを思い出す。寝入りばなを気の毒だが起きてもらい、道順を尋ねてみよう。入り口に向かうが開いていた扉はしまり、鍵がかかっている。
達也は決心をする。後戻りしてみよう。道を逆にたどって、元の住宅地へ出て、恥をしのんで先輩の家に助けを求めに行こう。達也は駆け出す。走ることによって、不安を拭い去らせようとするように。
そうだ、こんなことが子供の頃にもあったっけ。たしか誕生日のプレゼントを買ってもらうことになり、父母につれられ、大はしゃぎでデパートへ行った時のことだった。玩具売り場のオモチャの量に目を奪われ、あれもこれもと目移りしてさまよい、父母とはぐれてしまったのだ。探し求めて走りまわるうちに、とてつもない所へ迷い込んでしまったらしい。警備員室のような所でシクシク泣いているところへ父母が現われたが、孤立感の恐怖が去らず、家に戻っても、その不安な夢をいつまでも見つづけたものだった。「ああした時は、ジタバタしないで、じっとしているんだ。それが一番の方法なんだよ」と父は達也を論したものだったが。
けれど、達也は走らざるをえなかった。健康の不安、生活の不安、そして何よりも、未だにあきらめきれない夢の実現に向けての最後の挑戦のために。
達也は、選挙の敗北をアイデアの敗退とは考えていなかったのだ。たしかに、日本海の水位と琵琶湖の水位の問題があった。しかし、これは小さな瑕瑾だ。この国の技術力はそうしたものを克服するだけの力をもっている。要はやる気なのだ。やはり時期尚早と準備不足だったし、あるいは大企業の既得権益擁護のための黙殺かもしれない。あのシュリーマンでさえ、どれだけ永い間、世間の無理解と戦い続けたことだろう。持続しなければいけない。それには、やはり資力が必要だ。
夢を夢で終わらせないためにも、達也はマスメディアの活用を根気よく続けようと決意した。そして、壮大な夢の実現のために一切の財産を処分した、あのシュリーマンの潔さにあやかるためにも、知人のすすめに従って土地建物を担保に、初めての大勝負の投資をしたのだったが。
達也は走る。ビル街を四ブロックほどこえてみる。しかし、同じような風景がくり返されるだけだ。一体どれほどの時間が経過したのだろう? 先輩の家を出たのは今夜だったのか? 一カ月前だったのか? いや一年前だったのか? それとも……
街が、いや彼をとりかこむ一切が悪意をいだき、封じこめようとして、網をゆっくりとしぼりこんできているのだろうか? そうか、そうに違いない。
達也は、悪意に逆らい、逃れるように、不意に右手へ折れ、三ブロックほど走ってみる。息が苦しくなり、急ぎ足に変えて、なお数ブロック進む。と、左手に小公園が現われる。再び尿意をもよおし便所へ駆けこむ。ちびりちびりと小水を出しながら、目の前の壁の落書きに見覚えのあることを思い出す。又同じ所へ戻ってきてしまったのだ。恐怖が全身を貫き、気力が失せ、磁石に吸いついたように足が重い。どうしたら、この場から脱出できるのだろう。作戦を今一度、根元から組み直さなければなるまい。
チャックをしめ、足をひきずりながらぼんやりと照らし出された公園へ出る。ふと、片隅の樹陰に人の気配を感じる。目をこらすと、男の後ろ姿がぼんやり見える。迷った山中で、やっと人に出逢った時に感じる涙の出るような優しさに襲われ、思わず駆けよりたい衝動にかられる。と、人影は奥へと去ろうとする。見ると、樹の太い枝から縄が下がっており、先端の輪に人影は首をさし込もうとするではないか。思わず叫び声をあげると、それが合図のように男は踏み台の大石を蹴る。
「止めろ!」叫んで達也は男にとびかかる。ぶらりとゆれて、くるりと男がふり向く。なんと、それは許しを乞うような表情のもう一人の達也ではないか。
「いかんよ」、「ほっといてくれ」と二人は激しく争う。重さにたえかねて縄がひきちぎれ、二人は組んだまま地面へ倒れこむ。激しく息をつく二人は、そのまま疲れ果てたように身動きもしない。達也は、首に縄の切れ端をまいたもう一人の自分を、このところすっかり忘れていたことを思い出していた。
近くの「水飲み場」の水がピチャピチャと辺りの静寂を破る。達也は、そのか細い水音がだんだんと増幅され、やがて激しい水流となって地平を貫いてゆく幻影を一瞬夢見る。
「なあ、水の音のなんと清々しいことだろう。どうだい、絶望しないで、もう一度、日本海と太平洋を本州のど真ん中で結びつける夢のために、ひとふんばりせんかい、相棒」と囁く。
首に縄をつけた達也は、しばらく沈黙していたが、ぽつりと答える。
「この街を抜け出せたらな」
その冬一番の冷えこんだ夜の帷があがり、朝の光が小公園を照らし出した。片隅の水飲み場の水も氷柱になっている。入り口脇の道にパトカーと救急車が停っている。この近所では見かけたことのない浮浪者が一人ベンチで凍死したという。

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