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できるだけ早く先生たちへの同窓会の連絡を済ませたかった。
忠はモニターの名簿を確認しながら、次の電話をするために、電話機の通話ボタンを押した。
プー、という音を聞いて、数字のボタンを押そうとして指が止まった。
パソコンや電卓では、数字は下から上に大きくなっていくが、電話機は逆に上から下に数字は大きくなる。いつの間にか、前者に慣れてしまっている。
ゼロの次に押そうとした数字の位置を間違えそうになったのだ。
「どうして統一できないのかね」
独り言を大きな声で言って、正しい番号をゆっくり一つずつ押していった。
大谷先生は、三コール目で本人が出た。
忠は挨拶もそこそこに、今年の同窓会を六月に開催するので、郵送で案内を送りますから、是非、出席をお願いします、と用件を話した。
大谷先生は、三年の時の担任で部活の顧問でもあった。高校に入ってからも部活のOBとして三年間はちょくちょく手伝いに、母校である中学には行っていたので、最も付き合いがある先生だった。忠の結婚式にも出席してもらった。
大谷先生の声が昨年より元気なことが嬉しかった。
一通りの説明が終わると、互いの近況報告になった。
高校受験が始まる二月になったある土曜日。
忠は最初の講座にギリギリに間に合うタイミングで、教室に滑り込んだ。いつもの席は、薫子たちが同じように座ってキープしていてくれた。
「珍しいね。いつも教室に来るの早いのに」
小さな声で薫子が言った。
忠は、愛用の自転車が盗まれたから電車で来た、と説明した。
それまで忠は、雨の日以外は自転車で通っていた。
本屋に寄ったほんの数分の出来事だった。無残に切断された頑丈な鍵付きのワイヤーだけが残されていた。
ワイヤーを切断するのには、隠せないほど大きなハサミの形をしたワイヤーカッターが使われたはずだった。
人通りのあるの商店街にある本屋の前だ。通行していた人たちや、本屋の周辺の商店の人たちは、目の前で犯罪が行われているのに何もしなかったのかと疑問に思った。盗んだ犯人も憎いが、見て見ないフリをした人たちも同罪だと憤った。
忠はやるせない気持ちに支配されて、講座に集中できなかったので、仲間の二人の男子を誘って、途中からサボることにした。
薫子たちにノート取ってもらうことを頼んで、すぐ近くののボーリング場で遊んだ。
そんなことはなんの解決にもならず、余計にイライラした。
忠に同情して、付き合ってくれた男子は、明らかに講座をサボったことを気にしていて、ボーリングに集中していなかった。講座が終わる時間には帰らないと親に怒られるからと、何度も時間を確認して、結局、講座が終わる時間に合わせるようにボーリング場を出たのだ。
忠はもう少し遊んでから帰るからと、彼らとはその場で別れた。
六人の中で自転車で通っていたのは忠だけだった。
いつも塾の前で仲間に挨拶して、忠は駅とは反対方向に向かって自転車を漕ぎ出していたが、その内の何割かは家に真っ直ぐは帰らずに、I駅の繁華街をブラブラしていた。中学生に見られることはなかったので、補導される心配はしていなかった。
別に何をするわけでなく、ブラブラしているだけでも十分に冒険だった。自然に色々な場所に詳しくなった。
自転車に乗らずに見るI駅周辺の繁華街は、妙にリアルだった。自転車があれば、何かあれば走って逃げられる安心感があったのだと、忠は初めて知った。
夜八時の大通りは、閉まっている店はなく、人で溢れていた。駅から向かってくる流れと駅に向かう流れが複雑に入り組んで、混んでいる電車の中のようだと忠は思った。自分だけが流れと無関係に漂っている疎外感に包まれた。
人混みの端で、目に止まるものがあった。
いかにも軟派な感じの三人の高校生が、女性に絡んでいたのだ。
それだけなら、この町に腐るほどあるシーンだったが、絡まれていたのは薫子だった。
勝手に身体が動いた。
人混みを掻き分けるように薫子に近づいて、
「お待たせー」
と言いながら、肩を抱いた。
「お前。誰だよ」
三人の制服を着崩した高校生にすごまれたので、忠は笑顔で言った。
「彼氏。恋人。という感じなんだけど。君たちこそ何なの?」
彼らよりも年上に見られるように意識した。
忠には暴力はふるわれない確信があった。制服を着て、人が多いところで無茶をすれば、すぐに警察が来るというぐらいの知恵は彼らにもあるはずだと考えたのだ。
薫子と何もなかったように立ち去ろうとしたが、現実は甘くはなかった。
「はぁ? 君たち? じゃねぇんだよ」
「ちょっとこっちに来いよ」
軟派な高校生は三人で、忠と薫子を囲むようにして、路地のほうに一緒に来るように威圧的に指示をした。
人に見えない所に行けば、彼らは色々なことがしやすくなる。
そのときになって、忠は薫子の顔を見た。泣きそうなほど不安なのに、笑顔を作ろうとしていた。勇気が湧いた。
「じゃあ、僕だけご一緒しようかね」
とにかく、薫子を逃がそうと思って、肩を抱いた手を放した。しかし、薫子は小さく首を振って、動こうとはしなかった。
「そっちのねえちゃんに用があるんだよ。帰るならお前だけが帰れや」
三人の軟派な高校生は自信満々に言った。
忠はパニックになりそうだったが、作戦を立て直して、どうにか逃げようと頭をフル回転させた。
彼らに軽く小突かれるようにしながらゆっくりと歩いた。
通りがかったジーパン屋の前で、忠は薫子の手を引っ張るように繋いで、店内に入りながらできる限りの大声を上げた。
「あの高校生たちが、今、万引きしました」
三人を指差すまでもなく、店内の全ての目が彼らに注がれた。忠たちを追いかけようと、客を押しのけるように店内に入ってきたのも彼らの印象を悪くしていた。
店員に囲まれる高校生を尻目に見ながら、忠は薫子の手を引いて店の奥に一目散に逃げた。
この店には以前来たことがあった。出入口が二カ所あった。大通りに面した間口の広いほうがメインで、裏通りにも小さな出入口があるのだ。
店を抜けて裏通りに出てから、二人は全力で走った。
何度か角を曲がり、できたばかりのビルに引っ越しの業者が出入りしているのを見て、忠は薫子を引っ張って、その中に入った。
階段をどんどん上がった。屋上のドアには鍵は掛かっていなかったので、屋上に出た。
「あつしくん。ありがと」
息を切らせながら、薫子は頭を下げた。忠も息を整えながら、気にするな、というつもりで何度か小さく頷いた。
「ここは秘密基地なの?」
屋上は塾の教室ぐらいの大きさがあった。周囲のビルのほうが高いので、屋上なのに谷間のように感じる場所だった。
「初めて来た」
忠は周囲を見渡しながら、以前に、別の場所で引っ越し業者が出入りしているビルは中に入っても誰にも怪しまれないという経験があったことを説明した。
繁華街に近い場所はトラックを横付けできなかったりして昼間に引っ越しすることが難しいケースがある。できるだけ早く引っ越しをしたい場合には、どんな時間でも空いていれば引っ越しし作業をする。そういうビルは、比較的出入りが自由だった。
屋上は薄暗かったが、周囲のビルの看板の照明などが色々な光線を放っていたので、不思議な空間を作っていた。
「生まれて初めて……」
薫子が何かを言いかけてやめた。
「ナンパされたのが?」
私服だったけど、薫子は女子高生どころか、女子大生にも十分に見えたので、今までもナンパぐらいはされているのではないかと思って、忠は意外だという声で聞いた。
「違うよ。あんなのはないけど、ナンパは塾の行き帰りとかで時々はあった」
「じゃあ、何?」
忠の問いには答えずに、薫子は背を向けた。忠も無理に聞くことはないと考えて、どうして、塾の帰り道とは全く違う場所にいたのかを聞こうと思った瞬間、背中を向けたまま、大きな声で怒ったように薫子は言った。
「男の人に、肩を抱かれたこと! 手をギュッて繋がれたこと!」
忠は薫子の背中を見つめた。
確認したことはなかったけど、薫子は年上の恋人がいて、大人の恋愛に足を踏み入れているのだと勝手に思っていた。だからこそ、独特の落ち着きがあり、男子に対しても慣れている受け答えができるのだと考えれば、つじつまが合った。
「ごめん」
忠は色々な意味を込めて、謝罪した。
「謝らなくて良いよ」
薫子は、くるっと振り返って笑顔で言った。
そして、座ろう、と忠を誘って、返事を待たずにコンクリートの台の上にひょいっと座った。スカートから白い膝小僧が二つ、顔を出した。
新しいビルの屋上には、看板を設置するためのものなのか、柱が突き出たものなのかわからなかったが、四人掛けのテーブル大のコンクリートの四角い塊が十個ほど規則正しく設置されていた。