【第1回】1 | マイナビブックス

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まつよい

【第1回】1

2016.06.02 | 篠原嗣典

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 プルルルル、という呼び出し音を耳にしたとき、スイッチが入ったような気がして、ひとつやなぎあつしは小さく咳払いをした。
 自分一人用の小さな事務所の机の上には、固定電話とエクセルで作られた名簿が映し出されたモニターとキーボードとパソコンの筐体、メモ用紙と多機能ペンがあった。もう一つある机の上は資料の山ができていた。
 二つの机があるだけで事務所の面積のバランスは取れている。小さな部屋にトイレと小さな給湯所があれば十分であることが、忠の現在の現実だった。
 壁につけられた棚の中に入れられた小さな液晶テレビは音声を消した状態なのに音楽専門チャンネルが選局されて、少し前に流行った邦楽の曲のプロモーションビデオが流れていた。消してしまえば良いことはわかっているけど、習慣でテレビが消えていると淋しく感じるので事務所にいるときには必ずテレビはONになっていた。
 三回目の呼び出し音がしても、相手が出る雰囲気が伝わってこない。
 忠は急に不安になった。
 鈴木先生は、忠たちが通っていた中学校で在学時の校長先生だった。昨年の中学の同窓会では、九十歳なんだと言いながらも他の年下の先生方より元気に見えて、参加した同窓生たちを驚かせた。
 3月に入っても、寒い日が続いていた。高齢者には寒い季節は厳しいというイメージが頭の中を過ぎった。パソコンのモニターの中で、先生方の名簿の一番上に載せられた鈴木という苗字の文字が、なんとも頼りなく見えた。
 呼び出し音は五回目になっていた。忠は自分の弱気を正すように、もう一度小さく咳払いをした。
 忠たちが中学を卒業してから三十数年。同窓会を毎年するようになって十年目だった。四十歳直前になって急死した同窓生の葬儀がきっかけになって、会えるときに会っておかなければという動機で同窓会は開催されていた。
 忠が幹事になってから五回目の同窓会の準備が始まった。最初の仕事は先生方への電話での挨拶だった。
 七回目の呼び出し音が鳴っている。
 
 一九八一年。忠は中途半端なポジションで高校受験を迎えようとしていた。
 公立校が第一希望だったが、最もレベルが高い学校を諦めた時点で受験の結果は出ているようなものだった。一番目の学校のレベルと二番目の学校のレベルが大きく離れていたからだ。二番目の学校なら確実に合格する実力が忠にはあった。
 当時の都内の公立高校の受験システムには、そのような不条理なことがよくあった。平等と公平という概念は、伸び縮みしたり、変形することを忠は高校受験で教えられた。
 志望校を決めた時点で、高校受験は惰性になった。早く受験日にならないかと夏の終わりから思っていた。同級生たちが受験勉強のラストスパートで鞭打っている中で、忠だけが速度が違う別の世界にいるようだった。
 忠の親は、息子のそんな状況に不安を覚えた。環境を変えて、集中力を落とさないように、大々的にコマーシャルを流していた全国チェーンの塾の高校受験直前短期講座を受けてみるようにと忠に提案した。
 地元にいても遊ぶ相手もおらず、退屈していた忠にとって、I駅にある塾に通うことは渡りに船だった。高校に入ったら新しい出会いがあるのだと期待していたが、その前に、色々なところから集まってくる連中との出会いがあるかもしれないと考えた。
 当たり前のことだが、高校受験直前短期講座に遊びで来ている受験生はいなかったので、忠の期待は空振りに終わった。原則として、教室の中にいる受験生はライバルなのだ。
 それでも、何度か通っている内に、知り合いはできて、友達にもなっていく。かなり高額な授業料を払って通う受験生は、似ている面も多かったし、塾側も同じレベルでクラス分けもしていたのだろう。自然といくつかの小さなグループはできあがった。
 中学校と違って、座る席は自由だった。毎回違うところに座る受験生もいたが、同じような場所に座る受験生のほうが多かった。
 忠を含めた男子三名と女子三名の6名のグループは志望校も、住んでいるエリアも全然違ったが、同じ場所に座っていたことから自然と仲良くなった。
「僕らは同志だ」
 グループの中の一人の男子の口癖だったが、休み時間や授業が始まる前後に、同志だという言葉を合言葉に親交を深めていった。
 忠がそのグループに属するようになったのは、薫子ゆきこがいたからだった。
 色白で、背が高くて、派手ではないのに誰もが振り向く美人が薫子だった。
 初めて彼女を見たときに、一人だけ大人の女性が教室にいると忠は思ったぐらいに大人びた雰囲気を出していた。
 講座の初日。薫子は通路から離れた教室の奥のほうに座った。
 飛び抜けて異質なものがあると、人は無意識に敬遠して距離を取るものだ。徐々に入ってくる受験生は空いているところを見つけて座っていくが、薫子の雰囲気に気が付くと距離を取るように席を決めていた。
 忠は、真ん中の後ろのほうに座っていたが、素知らぬふりで彼女の後ろの席に移動した。どうしてそうしたのかは、よく覚えていない。
 その日の内に、薫子と話をした。自己紹介を始めた忠に関心がない態度だった薫子が興味を持ったのは名前だった。
「普通は『タダシ』って読むでしょう?」
 ノートの端に『忠』と書いて、前の席の薫子の脇に差し出して説明をした。
「どういう訳だか。『アツシ』って読むんだよ。おじいちゃんが決めたらしいんだけど、正確に読めた人は今まで一人も会ったことがないんだよね。大迷惑だと思わない?」
 急に薫子が振り向いて、忠は一瞬、言葉を飲み込んだ。抜けるような白い肌の頬だけでなく、瞳の色が見たことがないぐらい薄い茶色だったからだ。
 きれいだと見とれそうになったことを誤魔化すように、忠は自己紹介を続けた。
「誰も名前をちゃんと読まないだけでなくて、忠という漢字がチュウって読むからって、あだ名は『ちゅうさん』なんだ。確かに中学三年生で中三だけど、洒落にならないよね」
 薫子は声を出さずに少しだけ笑った。その仕草が大人に見えて、忠はドキドキした。
「あつしくんは、身長、何センチ?」
 薫子は落ち着いた低い声で質問をしてきた。ハスキーな声が意外だったが、忠は彼女に似合っている声で素敵だと思った。
「あぁー。今、変な声の子だって思ったでしょう?」
「一七三センチ」
 二人の声が重なって、打ち解けた感じになった。
「全然変な声じゃないよ。良いなぁって思ったし」
 言い訳のようにならないように注意しながら、自然な感じを装って忠は薫子をなだめた。
 薫子は疑うような目で忠を睨んだ。冗談なのだと思ったが、忠は少し動揺した。
 すかさず、薫子は忠のノートを奪って、一旦前に向いて、何かを書いてからノートを忠に戻しながら振り返った。
「わたしの名前も見て」
 忠と書いた横に、きれいな字で薫子という文字が書かれていた。
「普通は『カオルコ』でしょう? でも、それで『ユキコ』て読むの。あつしくんと同じで、誰も正確には読んでくれない」
「本当だ。確かに、読めないね」
「面倒だから、わたしは修正しないことにしている。だから、知り合いの中にはわたしのことをカオルコだと思っている人がけっこういると思う」
「それって、凄いね」
 忠は本気で感心した。
 薫子が、知り合いという部分を強調したように聞こえた違和感は一瞬だけで消え去った。美人で人を寄せ付けない光線を出しているように見える薫子の秘密をいきなり見せられたような気がした。
 忠は名前を読み違えられると『アツシ』なんだと必死に説明することが常だった。修正しないと言い切れる薫子は、勇ましいと思った。
「そもそも、ユキコっていう名前が古臭いでしょう。カオルコも変な名前だけど、少しはマシかなぁって」
「でも、雪みたいに肌が白いから響きとしては合っていて、悪くないと思うけどな」
 薫子は無表情のまま忠をじっと見つめた。
「高校受験直前短期講座で、女子を口説く男子がいるとは思わなかった」
 低い声で薫子が言った。慌てて弁解をしようとした忠を制して、
「ありがとうね。薫子って名前は悪くないって言ってくれた男子はあつしくんが初めてだよ」
 次の講座が始まるベルが鳴った。
 それをきっかけに二人は話をするようになって、講座ごとに自己紹介をしてくる男女がいて、半月ぐらいの期間でなんとなく六人の仲間になったのだ。
 薫子は、仲間から『ゆきちゃん』と呼ばれて、忠は薫子以外の四人からは『ちゅうさん』と呼ばれていたが、薫子だけは最初に話をしたときのまま『あつしくん』と呼んでいた。
 忠が感じたように薫子は大人の女性だと他の仲間からも思われていたが、忠も同じように大人びていると思われていた。中三とは思えないちゅうさんと言われるたびに、怒ったフリをしながら悪い気はしなかった。
 薫子の身長は一六七センチで、忠より少し低かったが、容姿だけではなく、中身についても薫子は特別に大人だと思うことがよくあった。
 受験生に恋愛は御法度だったが、恋愛の話は頻繁に出た。どういう異性が好きかというテーマであれば、恋に恋するような中学生でも語ることができた。未熟な恋愛談義は、話せば話すほど未熟さを更に露呈させるが、そういう緩い感じが楽しくもあったのだ。
 忠は背の低い女の子が好きで、年上も駄目だというようなことを流れで話した。そのときに、薫子は喧嘩売っているのか、と冗談で怒ってみせて仲間を笑わせた。
 薫子は自分のことはほとんど話さずに、いつも仲間の話を静かに聞いていた。忠はそんな薫子を見るたびに、彼女は大人だと改めて思ったのだ。
 忠には、少し前まで付き合っていた恋人がいた。
 秋の終わりの頃、なんの前触れもなく、受験が終わるまで会わないようにしようと言われた。忠は何も言えなかった。
 当時の中学生の恋愛のほとんどがそうだったように、手を繋ぐのがやっとのプラトニックなものだった。お互いに励まし合って受験を乗り越えるほうが、何倍も力になりそうだと考えたが、口にはしなかった。
 彼女が忠に宣言した瞬間に全ては終わったのだ。地元の友人たちが自然消滅を口にするたびに、反論することも虚しいと諦めて過ごしていた。
 塾の仲間の間では、地元の話はしないというような決まりが自然にできていて、忠は塾でそんな話はする必要も機会もなかった。
 高校受験直前短期講座では半月に一回、全国模試があった。試験慣れする意味もあり、実力を確認する意味で、それは十分に機能していた。
 忠は毎回、教室にいる五十人中の二十番目辺りをうろうろしていた。
 薫子は教室内で常に三番以内で、一度は全国で六番という成績で表彰されたりもした。
 六人の志望校はそれぞれ別で重ならなかった。
 薫子の希望校は最難関の女子校だったが、合格判定はAで、全く問題はないように見えた。
「本当はね。女子校じゃなくて、共学の学校に行ってみたいんだ」
 薫子は言ったが、受験予定校は全て女子校で、共学の学校は一校もなかった。仲間から箱入り娘、とからかわれて、薫子は淋しそうに笑った。薄い色の瞳が更に薄くなったように見えて、忠は話題を変えようと無理に大きな声を出して、仲間を驚かせた。
 高校受験まで三ヶ月前に始まった講座は、どんどん進んだ。
 
 唐突に高校受験直前のことを思いだしたのは、たぶん、鈴木先生の卒業式での贈る言葉が連動したせいだ。忠は自分に言い訳をするように決めつけた。
 数えていたわけではないが、二〇回以上の呼び出し音が鳴っても鈴木先生は電話に出なかった。
 どこかに出掛けているのだろうと、強いて気楽に考えて、忠は受話器を戻した。嫌な予感は微かに続いていたが、何もできることはない。後で、もう一度かけ直せば良いだけのことだ。
 中学校の卒業式で、鈴木校長は大きな紙に毛筆で書かれた力強い文字を見せながら壇上から言った。
「君たちに贈る言葉は『好きになれ』です」
 好きになれ、という紙の文字を忠はハッキリと覚えている。
 その後の人生で、忠はずいぶんと『好きになれ』に助けられた。
 上手くいかないときや諦めそうになったときに、その言葉を思いだしては好きになる努力をしようと自分を奮い立たせた。
 もちろん、全てが好転したわけではないが、好きになる努力をしたことで確実に効果が出たこともあった。
 昨年の同窓会で、鈴木先生にその話をした。
「そんなことを言ったかね…… すまん。忘れてしまった」
 忠は拍子抜けしたが、そういうものなのかもしれないとも思って納得した。
 鈴木先生がいい加減なのではない。発信する側と受信する側は、往々にして温度差があるものなのだ。
 一人が集団に向かって発信したことを影響力の有無にかかわらず集団は個別に受け取る。個別に話すより何十倍にもなれば、五パーセントに薄まってしまうこともある。
 忠は自らの人生でそれを痛いほど経験してきた。