【第0回】まえがき | マイナビブックス

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まえがき

 

◆学生時代

 

 1967年5月3日生まれ満47歳。群馬県の公立高校を卒業後、家業を継ぐという事を前提として、東京の経営の専門学校へ進学。

 東京での住まいは、東京都新宿区中井の小さなワンルームのアパート。高校まで厳しく育てられた私には、小さくても親から解放された自分だけの城だった。

 親が自営業だった事もあり、仕送りは毎月約15万円。今、自分が子供達に同じ事が出来るか?と聞かれれば到底無理な金額だ。そして、学校が終わった後に飲食店でアルバイトしていた事もあり、賄いプラス給料は一ヶ月約15万円。18歳そこそこの若造が毎月30万円の現金を手にし、時代はバブルという事もあり、毎晩、飲み歩き、デザイナーズスーツに男性化粧を身にまといディスコ通い、遊んでばかりの日々を過ごす。東京での学生生活は、「東京ってこんなに楽しいとこなんだ」と、世間の何も知らない若造の私を勘違いの道へと導いていった。

 

◆最初の就職

 

 最初に就職した会社東証二部上場の商社の酒類部門。東京都の足立区にあった事もあり、原付きバイクで通える距離に住居を移す。学生時代に毎月30万円以上の現金を手にしていた私の最初の給料手取りは、なんと約12万円……家賃5万円を差し引くと7万円しか残らない。

 東京でのビジネス生活に夢を持っていた私は、「どう生活していくか?」という最初の壁に当たる。壁と言っても、今となればこんなの壁なんて言えるようなもんじゃなく、ただのガキの戯言に過ぎない。そして、家業を継ぐための繋ぎくらいの気持ちでいた。

 約6ヶ月経過した時点でのある日、上司の不正を発見する。一日の終わりに在庫をチェックする業務を行っていたが、合わない日が何日かあり、不審に思っていた矢先、上司が車に積み込んでいる姿を目の当たりにしてしまった。日頃から今でいうところのパワハラ上司で、普段から気にいらなかった事もあり、私は上司を呼び出し、問い質すが、惚けている態度に腹を立て、正義感だけは一丁前に強かった私の心にスイッチが入り、あろう事か、上司を怒鳴りつけてしまった。会社?大人?に幻滅した私は、その月に退社。これが最初の転職の始まりとなる。

 

◆2回目の就職 最悪なサラリーマン時代

 

 次に勤めた会社は、小さなワインの商社。やはり手取りは約12万円。友達は、学校卒業後、将来を見据えて売り手市場の中、好条件で就職する中、安易に家業を継ぐまでの繋ぎという感じで最初の就職をしてしまった事に後悔する。家賃を引くとやはり残りは7万円。ワインの「ワ」の字も知らなければ、フランス料理の「フ」の字も知らない20歳の若造。 ただ持っていたのは、根拠の無い自信と角だらけの希望と言う名の大きな岩石の様な心。頭の中でいつも流れるのは嶋大輔の「男の勲章」。「負けてたまるか!」「ナメラられてたまるか!」自分はさておき「曲がった事が大嫌い」……この時の自分に会う事が出来たら、恐らくぶん殴りたくなるくらいの生意気なヤツだった。

 何も判らないから上司に叱られる。何も出来ないのに生意気にも反抗するから更に叱られる。気づくと先輩上司と叱られるのを越して喧嘩ばかりの日々。社員旅行では、宴会の席の中央で先輩と大喧嘩になり、先輩を殴りつけた事もあった。上司の注意に腹を立て、上司の顔をカバンで殴りつけて帰り、上司がアパートまで迎えにくる事もあった。朝起きるのが辛い時は、平気で仮病で休み、恐らく毎月2日くらいは仮病で休んでいた気がする。

 

◆気付かせてくれた出会い

 

 ただ、仕事に対してだけは一生懸命に取り組んだ。2ヶ月で靴が1足ダメになるくらい歩いてレストランへの飛び込み営業を行った。渋谷から麻布十番まで、レストランを探し歩いた事もあった。スーツも汗で痛み3ヶ月で変色してダメになってしまっていた。ワインの知識など、全く無いまま抵抗なく飛び込んでいった。何故そんな事が出来たのか?それは、ただただ「負けたくない一心」が身体を動かしていた。想い起こせば、その時の私は、かなり野性的な生き物だったかも知れない。

 そんな日々が続いたある日、業界を知っている人間なら絶対に飛び込まないであろう高級店に飛び込んでしまった。そこは、今まで見た事の無い世界。20歳そこそこの新米営業の私がアンティークな個室に通され、待つこと数分。流石の野生児も緊張で手に汗が滲む。そこで、出てきたソムリエ(後で知ったのだが、ソムリエ協会でもトップクラスの人物)が、何も知らない私とキチンと話をしてくれた。そこで、一つの気付きがあった。私はワインもそうだが料理を知る事の大事さに気付いた。前にも話したが私の手取りは約7万円。そこで、日々の食費を限界まで削り、朝は納豆と親が送ってくれる米を炊いたご飯のみ。夜はインスタントラーメンにモヤシだけにして、ランチは一人でフランス料理のランチ(1000円から5000円)、夜は月に1回だけディナーを食べて勉強した。もっともっと知りたくなった私は、レストランオーナーに頭を下げ、土日の休日を賄いを食べさせてもらう事を条件に無償で働いた。凄く大変だったけど、楽しかったと記憶している。結果、知識が付いてきた私を可愛がってくれる人物が増えていき、ワイン、料理の知識が増えると同時に営業成績も上がっていった。

 これは余談だが、そんな生活をしていた事もあり、年に数回帰省した際に実家で刺し身や寿司、鰻等を食べさせてもらう事が楽しみで、本当に有難くて、初めて親の有り難みを実感出来たと記憶している。

 そんな中、世の中はバブルで盛り上がっているが、自分の給料は増えず、生活は苦しいまま。そして、高額なワインが翔ぶように売れる。「こんな時代が、いつまでも続くのか?」そんな事が頭を過り疑問を持ち始めた。

 

◆ワイン業界からビール業界への転身

 

 そこで、今まで可愛がってくれた方々の声を振り切り、ワインの業界から足を洗う決意をする。そして、「実家を継ぐために東京に来た事」など、すっかり忘れ「将来、東京で自分で会社をやる」と心に想いを抱く。こんな世の中で持て囃されているワインに対して対照的なモノは何か?と考えた結果「とりあえずビール」の世界。時代は「ビールなんて、どれもみんな一緒だよ」と言われている時代。そしてワインを扱う人達からは、「ビールなんて」と言われてしまう時代。

 だったら、その「ビールを極めたら次の時代を生きられる」と直感的に感じ、たまたま見ていた求人誌に「世界のビールの専門店・世界50カ国700種類の品揃え」と書かれていた事に「これだ!」と直感し決意する。そして、「こんな商売やってる社長に会ってみたい」と思い、直ぐに電話して面接の約束を取り付けた。

 

◆本気に目覚めさせてくれた出会い

 

 面接では、ここで就職するというよりも「この社長から何を教わろう」という気持ちで挑んだ。そして、私は社長に、こう言った。「私に会社をやらせて下さい。私に出資して下さい」。一瞬、呆気に取られた社長は、「いいね。面白いね。本気?」と笑顔で言い、「今、貯金どれくらいある?」と聞いてくれた。数万円しか持っていなかった私に、社長は「それじゃ試用期間として暫く時給2500円で働いて」と言った。その瞬間、私の心は、この男気のある社長の態度にグッときてしまった。「俺も、こんな男になりたい!」

 面接をする事、約3時間。今までの人生や、これからの夢を話し、翌日から、子会社の店舗に就いた。店に出勤すると2歳下のイケメン店長がいた。初日は無難にこなし、世界のビール50カ国700種類に圧倒されながら、「ヨシ、ここで俺は頑張る!」と想いつつも、「俺は、ここでは終わらない」と、またもや偏った自信が出てしまう。

 数日経ったある日の仕事中、店長からの指示の中で「何故、年下にこんな言い方をされるんだ?」「もうちょっと違う言い方あるだろ!」と、頭に血が昇ってしまった私は、店長にこう言ってしまう。「店長は、この店で2年経験があるかも知れないが、俺は店長より人生を2年経験している。だからこれでプラス・マイナス0のタメだ。人生の事は俺が教えるから、仕事の事は教えてね。ヨロシク」。何と馬鹿な男だろうか……当然の事ながら、関係は悪くなり、入社から数日にして自ら独学で勉強する羽目になってしまった。本当に悲しいくらにバカ過ぎる。

 社長の図らいもあり最初の給料は、なんと約60万円。後で聞いた話だが、「お金に余裕の無い者は、イイ発想が出てこないし、イイ体験も出来ない。イイサービスも出来ない」という事だったらしい。そう言えば、社長は、いつも私に「財布の中に、いつも100万円入っていると思って行動しろ!」「金の無いところには、金は集まらない。本当は無くても、金を持ってる心を持ってるところに金は自然と集まってくる」と教えてくれた。

 それからの私は、社長の言うままに心を入れて朝から夜遅くまで働いた。体はシンドイ時もあったが、常に心は充実していた。

 約半年が経ったある日、本社の営業への人事異動があり、課長代理として営業職に就いた。その後、営業課長、広報課長、人事面接担当、子会社の店舗管理(直営3店舗及びFC店)を兼任していたある日、社長室に呼ばれ、「そろそろ会社をやってみないか?」という話になった。勿論、断る理由もなく頑張る決意をした。それは、入社から約3年が経過しているある日の事だった。

 念願の雇われ社長となった私は、FC店拡大(直営プラスFC店合計20店舗)を行うと同時に「TBS系アッコにおまかせ」や「メンズクラブ/この人」他のメディアに出演し、店舗の認知拡大に務めた。

 

 これが、駄目駄目サラリーマンから、脱出出来た出会いであり、その後の人生の基礎となった出来事である。

 同社は、約6年間、勤めた後に当時ブームになった「地ビール」のコンサルタント会社の役員としてスカウトを受け、一時、師匠の元を離れる事になるが、ここで得た心と仕事のスタンスが、その後の人生に大きな影響を及ぼす事になる。

 

 

「まえがき」としては、異常に長くなってしまったため、この辺りでお終いとしておくが、その後、関西老舗清酒メーカーでの店舗開発、東証二部上場での管理職、36歳の時に難病にかかり余命半年宣言を受けてからの人生等などの経験から、今までの経験と心を息子達に残したいという想いで、今回の本を描く事を決意した。

 サラーマン生活27年、ここで学んで来た心を我が息子達に残すべく描き残した本だが、この本を読んでくれた皆さんの生活の中で、何か一つでも感じて頂き、明日への活力になれば幸いです。

 尚、私の体験した目茶苦茶な16回の転職について、闘病生活、その後の人生については、機会があれば書きたいと思っているので、皆さんに読んで頂ければと思っております。

 今から27年前、山から生まれた角だらけの大きな岩石は、数々の経験を経て、川上から川下へと流されていく中で、少しずつだが角が取れ、色んなところにぶち当たりながら転がり続け、少しずつだが角が取れ、所々粉砕し、バランスのとれた丸みある形に近づいている様な気がします。そんな体験から得た気持ちを書に描いてみました。皆さんの心に少しでも響き、少しでもお役に立てれば幸いです。

 長い長い「まえがき」を最後までお読み頂きまして、有り難うございました。

 

Kou