【第09回】8 | マイナビブックス

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星の流れに 風のなかに 宇宙の掌に

【第09回】8

2016.07.01 | 澤慎一

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僕はミユキと別れる決心をし、リノアひとりだけに決めて真面目につきあう決意をした。
ミユキと別れた僕は、東中野のマンションに向った。暗い夜道を歩きながら、僕はこれまで人を真剣に愛したことがあっただろうか、と思った。なんとなくつきあい、お互いの都合が悪くなったら別れた。深く傷つくこともなければ、深く愛することもなかった。愛することが怖かった。愛を失ったら、どうしていいのかわからない。心を抑えつけ、冷たい仮面をかぶって生きてきた。死んだ明日風に対しても、僕は心を開いて彼女を受け入れることができなかった。僕はひどい男だと思う。
何のために、その人と一緒にいるのか。どうして、二人でいるのか。
今度はリノアと二人で、その意味を見つけたい。
僕は引越しすることに決めた。東中野のマンションを出て、隅田川河口の埋立地に移り住んだ。新しい引っ越し先は、勝どき五丁目にあるマンションだった。そこは、倉庫が並ぶ埋立地だった。

海を感じられる場所に住みたかったこと、窓から東京タワーの明かりが見える部屋に住みたかったこと、人気のないひっそりとした場所で暮らしたかったこと、そして職場の新宿から比較的近い距離にあること、それが勝どきを住む場所に選んだ理由だった。
最寄り駅は、大江戸線の勝どき駅だった。新宿から約二十分の距離にあった。新しく住むマンションは、勝どき駅から海に向った方角にあった。
新しいマンションや古い文化住宅が混在する清澄通りの広い舗道を十分ほど歩くと運河があった。この運河を越えると、人もクルマの量も、うんと減った。ここから先は豊海町と呼ばれる場所で、埋立地の先端だった。これより先は岸壁となっていて、道は行き止まりとなっていた。辺り一帯は倉庫街だった。埋立地の先端は駐車場となっていて、レインボーブリッジを真横から眺めることができた。夜になればエメラルドグリーンに光り輝く斜張橋が帆船のように翼を広げていた。斜張橋に吊り下がった光は、夜の海の中にも光の帯を映し出していた。
誰もいない寂れた倉庫街から見る東京湾景を、僕は気に入った。穏やかな夏の夕暮れ時、岸壁に腰を下ろして潮風に吹かれていると、東京の息苦しさや喧騒、ざわめきから解放され、自由に呼吸をすることができた。
また、マンションから歩いて十五分ほどのところに勝どき橋があった。勝どき橋は、石の橋台と鋼鉄のアーチを組み合わせた近代建築の白い橋で、鉄製のランプが橋の両脇に幾つも吊り下がり、どこか懐かしい感じがした。橋の下を隅田川が流れていた。川なのに、波のうねりが連なっていた。まるで海を見ているような感じだった。河口が近いせいだろう。

川岸には遊歩道がつくられていて、細長い公園となっていた。遊歩道はまわりの道路やマンションからずいぶん低い位置にあった。階段を下りて川に近づくと、川岸に打ち寄せる波の音が聞こえた。心地よい響きだった。川岸の公園のほかに、児童公園も近くにあった。
銀座からバスで十分ほどの距離のところに、こんな静かな埋立地があるとは気づかなかった。引っ越しを決めようと物件を探して歩き回っていた時、ここなら海に近いだろうと思って、たまたまバスを降りてさまよった場所が、勝どきだった。八月の初めのころだった。
引越しの荷物を整理し、夏の夕暮れの中を隅田川に沿って、ゆっくり歩いていた。正面に勝どき橋が見えた。橋の上を無数のカモメが群れながらゆっくり旋回している。視線を下に落とすと、夕日を浴びてキラキラ光る隅田川があった。モーターボートや屋形船が川面を行き交い、その度に波頭が乱れた。その乱れにあわせて水の上に散らばった光が、いっそう輝きを増した。
僕は夕暮れの光に輝く隅田川を見ながら、久しぶりにリノアにメールを送った。

〈元気でいますか? 引っ越しをしました。今度の部屋は、隅田川をはさんで東京タワーが見えます。都心からすぐ近くの場所なのに潮の香りがして、心が洗われます。人通りが少ないから、人の目を気にせずにいられる場所です。人は少ないけれど、そんな危険な場所でもないです。君も気に入る場所じゃないかなって思う。実は君とのこと、僕は真面目に考えている。きちんと君と向き合いたい。病院を出て、よかったら僕の隣で暮らしませんか? ふたりで未来を見つけてゆきたい。隣の部屋も空いているので、その部屋も借りることにしました。費用は会社から融通してもらいました。社長は僕のことを信頼してくれていて、君とのことを話したら支度金をくれました。君が心配することは何もないです。君が誰にも会いたくないのであれば、誰にも会わなくていいし、ひとりがさみしいのならどちらかの部屋で食事したらいいし、寝る時はお互いの部屋で眠ればいいです。病院よりも、ずっと自由な暮らしだと思う。隣にいるからいつでも会いたい時に会えます〉

二日後、リノアからメールが届いた。
〈こんにちは。長い間、連絡できずにごめんなさい。このところ、調子が良くなったかと思えば、すごく悪くなったりして、不安定な状態が続いていました。リュウジさんはいつも私のことを静かに見守ってくれていて、とても感謝しています。隣同士で暮らすというのは、とても素敵なアイデアですね。私も、そろそろ病院から外に出なければいけないころだと思っていました。お医者さんに話をすると、様子見と薬をもらいに一週間に一度くらいきちんと通院すれば問題はない、ということでした。私は今でも時々、富士浅間神社にリュウジさんと出かけたことを思い出します。病院のベッドでひとり横になりながら、そのことを思い出したりしています。あのホールで歌を歌ってから、ほんの少しだけれど、前向きに生きようと思い始めています。私も未来に向って、少しずつ歩いてゆきたいです。音楽療法士になる夢をあきらめていません。私はリュウジさんとふたりで、これまで私が知らなかった未来への扉を開けてゆきたい、そう思っています〉

リノアが病院を出て、品川のマンションに戻り、わずかばかりの荷物を持って僕の部屋の隣に移り住むようになったのは、八月の終わりだった。隣同士に住むので、同棲ではなかった。僕はリノアの荷物を部屋に運び込みながら、「お父さんに断った方がいいんじゃないか。ご挨拶に行くよ」と言った。けれども、リノアは「ごめんなさい。父は許すはずがないから」と、申し訳なさそうな顔でそう言った。
「リュウジさんは、きっと前科のあることも父に言うでしょう? 父はリュウジさんと私のおつきあいを許すはずはない。父は検事だから」
リノアは、悲しそうな目で僕の顔をじっと見つめた。
そんなリノアの目を見ていると、彼女と一緒に暮らしてゆく気持ちをいっそう強くした。
そして、リノアは父親を棄て、何もかも棄てて、たったひとりで僕のところに来た。リノアは恥ずかしそうな、うれしそうな顔で、僕の隣の部屋にやってきた。リノアのそんなうれしそうな顔を見るのは初めてのことだった。

リノアは、まったく無力だった。まるで、雨にずぶ濡れになった仔猫のように。そして、リノアには、この世のどこにも行く場所がなかった。青あざだらけだった。
そんなリノアを、僕はただやさしく抱きしめてあげたかった。ただ、リノアのことが、愛しかった。リノアと未来を見つけてゆきたい……そう、思った。

リノアが僕の隣で暮らし始めることを祝って、僕はささやかなパーティを開いた。日曜日の昼下がりだった。勝どき駅前のスーパーマーケットで、僕たちは買い物をした。リノアは幸せそうな顔で食材を選び、そしてエプロンを買い求めた。白いリボンの付いたエプロンだった。二人でかごを持ってレジに向かった。ただ、それだけのことが楽しかった。ただ、一緒にいるだけで楽しかった。
買い物を終えて僕の部屋に帰り、ふたりで台所に並んで食事をつくった。リノアは買ったばかりのエプロンを着て、台所に立った。リノアは食材を包丁で刻み、野菜や牛肉を煮込んだスープを作った。リノアは料理の本を見ながら、楽しそうにガスの火を調節した。ふたりで協力しながら、ぶり大根やハマグリのうに焼き、新鮮な野菜や豆腐を使った和風サラダや、あんずの甘煮もつくった。僕はご飯を炊いたり、部屋を片付けたりした。そして、時々、リノアが包丁で刻む料理をのぞき込んだりもした。好きな女の子と料理をつくることはとても楽しいことだった。
やがて、テーブルに食事が並んだ。僕たちは椅子に座った。部屋は三階だった。窓から隅田川を眺めることができた。川面は夕暮れの光を反射させて光っていた。空の向こうに、東京タワーを見ることができた。東京湾の一角を目にすることができる部屋を、リノアは気に入ってくれた。
僕たちは、ソーダで割った梅酒で乾杯した。
食事をしながら、リノアが言った。
「生まれて初めて。男の人に料理をつくるって、とても楽しいことなのね」
そう言ってリノアは穏やかに微笑んだ。僕も、おだやかでやさしい気持ちでいた。リノアといると、自分らしくいることができた。リノアも、僕と一緒にいると、素直な気持ちになれるみたいだった。
お酒に弱いリノアが、ソーダ割の梅酒を二杯も飲んだ。ほんのり頬が赤くなった。
時間は刻々と過ぎてゆき、夜になった。東京タワーがひっそりとした白銀の光を身にまとっていた。くっきりとシャープな光で、微かな愁いを含み、闇夜にすんなりと立っていた。清楚な輝きだった。
リノアとの楽しい時間は、いつまでも続いた。そして、十時になると、食器を二人で片付けた。リノアはエプロンを綺麗にたたんで台所の棚に仕舞い込み、
「今日はどうもありがとう。また、あしたね」と言って、微笑んだ。
それから、リノアは玄関先で手を振り、「おやすみなさい」と言って、少し照れながら隣の自分の部屋へと戻っていった。
リノアと別れ、ひとりベッドに入り、僕はメールで「おやすみ」と壁のすぐ向こうにいるリノアに送った。そして、すぐ壁の向こうにいる彼女から、「おやすみなさい」というメールが届けられた。

翌朝、今度はリノアの部屋で朝食をとった。リノアはサンドイッチを作ってくれた。野菜がたっぷり入ったヘルシーなサンドイッチだった。手作りの味がした。いつも朝食をまともに食べていない僕が、朝からサンドイッチを三つ食べた。美味しかった。リノアの顔はうれしそうだった。
僕は玄関先でリノアに見送られて会社に行った。階段を降り、マンションの玄関を出てリノアの部屋を見上げると、窓の中で小さく手を振るリノアの姿が見えた。僕はリノアに向って手を振り返した。幸福だった。愛しい人がいることは、とても幸せな気持ちになることができる。その人を想うことだけで、とても幸福になれる。
そんなふうにして僕たちの新しい生活が始まった。仕事をしていても充実感があった。退社時間が待ち遠しかった。
仕事帰りはいつも、勝どき駅前のスーパマーケットで待ち合わせた。一階の洋菓子屋の前にあるベンチに座って、どちらかが先に待っていた。
仕事帰りにリノアと待ち合わせ、買い物を終えて家路を急ぐのは楽しかった。仕事が終わって勝どきに着くのはだいたい午後七時ごろだった。僕たちは見切り品の食材を選んで買った。スーツ姿の僕は買い物袋を持ち、白いカジュアルなワンピースを着たリノアと肩を並べて部屋に帰った。
晴海通りの信号が変わるのを待って、長い横断歩道を渡った。横断歩道を渡り終えたところに、小さなフラワーショップがあった。看板や屋根が壊れかけた木造の店だった。それでも可憐な季節の花々が、木の枠のガラス戸から見えた。リノアと一緒にいると、そんなみすぼらしい花屋でさえ、とても美しく見えた。
「どんな花が好き?」と、僕はリノアに訊ねた。
リノアは少し恥じらいながら、
「私はブライダルピンクが好き。淡いピンクの薔薇を見ていると、気持ちが鎮まるの」と、言った。
それからリノアは何かを思い出すような遠い目をした。
「……前に、リュウジさんと河口湖のオルゴールの森に行ったでしょう。あの時、裏庭に薔薇園があって、ブライダルピンクの薔薇がたくさん咲いていた……」
河口湖畔のオルゴールの森に行った時、そういえばリノアの視線がピンク色の薔薇にそそがれていたことを思い出した。リノアは、その薔薇の花が好きなのか。
僕は店に入り、落ち着いた年齢の女性に「すみませんが、ブライダルピンクは置いてありますか」と尋ねた。
彼女は「あいにくここでは置いていません」と、恐縮しながら謝った。
店を出た僕は、リノアに向って、「かならず、その薔薇をプレゼントするよ」と言った。
「楽しみにしているわ」と、リノアはやわらかな笑みを見せた。笑ったリノアを見ているのが、とても幸福だった。

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