【第08回】7 | マイナビブックス

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星の流れに 風のなかに 宇宙の掌に

【第08回】7

2016.06.28 | 澤慎一

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翌朝、僕たちは無事に東京に戻った。リノアは病院に戻り、僕は仕事を探し始めた。
ひとり暗い部屋に戻っても、ひとり街の中にいても、リノアの歌声が僕の中でいつまでも響いていた。生命の琴線に触れるような甘美なリノアの歌声が、いつも僕の中で流れていた。どこにいてもリノアの心を感じた。僕は迷いながらも「未来」を求め始めていた。リノアの歌声に宿った暖かな光は、僕の中の「希望」を呼び起こした。音楽を聴いて、こんな気持ちになったのは、初めてのことだ。
河口湖畔の旅館で触れたリノアの指先の感覚が、僕の指先に残っていた。それを思い出すと、甘美な気持ちになった。心が暖かくなるのを感じた。

僕は職を探し続けた。幸いにも、ハローワークで見つけた出版社で僕は働くことになった。その会社は新宿のはずれにあった。自費出版を請け負ったり、企業のパンフレットや官公庁の調査資料を作成したりするのが主な仕事だった。
社長は五十代で、浅黒い顔をしていた。パラグライダーやダイビングが趣味で、がっしりとした体つきをした男だった。
彼は僕に前科があることを知ると、低い沈痛な表情をしながら、「学生時代の親友が、暴力団とのトラブルに巻き込まれて人を殺めてしまったんだ」と話し始めた。
「細やかな感性を持つ奴だった。学校を卒業して、久しぶりに会ってみたら彼はゲイの道へと進んでいた。俺はさすがに驚いた。だが、それも一つの生き方だろう、と思った。別に嫌な感じはしなかった。それから、お互いに忙しくて、たまに会って飲んだりしていた。俺が四十二になって、今の会社を立ち上げ始めた頃だった。滅多に電話をかけてこない彼が、突然に会いたい、という電話を寄こしてきた。俺は仕事が忙しくて今は会えない、と断ってしまった。彼はその後間もなく、人を殺めてしまった。今でも俺は後悔しているんだ。あの時、相談に乗っていたら彼はこんなことにならずに済んだのかもしれないってな。彼はひとりで苦しんでいたのにちがいない。彼は今、刑務所にいる。いつ出てくるのかわからない。けれど、俺は彼が出てくるまで待つつもりだ。出てきたら一緒に仕事をやろうと思っている」
社長はそう言って、目頭を熱くさせた。僕はそんな社長に親しみを感じた。
「刑務所だって、そんなに不幸なところだとは思えません。毎日が、生きたいという気持ちでいっぱいだと思います。罪の気持ちと、生きたい、という気持ちを持ちながら、同じ境遇の人たちと励ましあいながら精一杯に生きていらっしゃると思います」
僕はそう言った。
不思議な面接だった。僕は採用となり、翌日から仕事を始めた。
よろめきながらも、未来へと歩いてゆきたい。僕はリノアと二人で、未来を探していきたい。そのために一生懸命にいい仕事をして、幸せに暮らしていきたい。
この先、どんなことが待ち受けているのか、見てみたい。明るい森の奥へと続く小道を歩いてゆきたい。リノアとふたり並んで――。

浅間神社から無事に東京に戻ってきた後も、僕たちは時々、新宿や四ツ谷で会った。僕たちは不器用ながらも互いに近づき、理解しようと努めた。しかし、数回会った後、リノアから僕を拒絶するメールが送られてきた。新しい会社に通うようになってから、二週間が過ぎたころのことだった。

〈今、会うことはできません。ごめんなさい〉
リノアはメールにそう書いていた。

調子が良くないのか、僕と会うのが嫌になったのか、何もわからない。僕にできることは、リノアをそっとしておいてあげることだけだった。
〈わかりました。君が会いたくなったら、その時、僕を呼んで欲しい〉
僕はリノアに、そう返事を送った。
しかし、いつになればリノアが僕に会いたいと思ってくれるのか、また本当に会えるのかどうか、僕にはまるでわからなかった。
リノアから会うことを拒絶されて、さらに二週間が過ぎた時だった。僕はリノアからメールを受け取った。彼女からは分刻みに短いメールがたくさん送られてきた。

〈世界が見えない〉
〈自分がわからない〉
〈どこへ行けばいいのかわからない〉
〈関係が結べない〉
〈関係が〉
〈人との距離が保てない〉
〈ごめんね〉
〈どうしていいのか〉
〈ごめんね。あなたを巻き込みたくない〉

リノアは次から次へと、僕に助けを求めるメールを送ってきた。僕はそれに対して、誠実に答えようとした。だが、リノアへの言葉は僕の胸の奥に沈んでゆき、リノアにかけるべき言葉が見つからなかった。

〈私と関わらないで。あなたに甘えてしまう〉
〈近づかないで。あなたの命まで奪ってしまう〉

「会いたい」という言葉を、僕は使えなかった。僕が「会いたい」と言えば、きっと彼女は僕を拒絶してしまうことだろう。僕は、できるだけ冷静にリノアを受け止めるしかなかった。
〈メールだと、正確に分かりあえることはできない。君と会って話がしたい。待っている〉
僕はそのメールを空に向かって投げ上げた。だが、リノアからの返事はなかった。透き通った薄紫色の風が、僕の前を通り過ぎた。僕はその風の輪郭に触れることさえもできなかった。風は形もなく、重さもなかった。僕はひとり部屋にいた。窓を見つめた。暗闇ガラスの向こうに、悲しそうな僕の顔があった。

季節は確実に夏へと向っていた。鬱陶しい梅雨空の合間に、澄んだ青空が広がった。街路樹の葉並は強い日差しを受けて、青々と濃く生い茂っていた。僕は新しい白いシャツを買った。袖を通すと、爽やかなブルーの香りがした。
僕は久しぶりに〝CLUB MISTY〟に出かけた。お台場のホテルのスイートルームを貸し切ってパーティが開かれた。ミユキはスリットが大きく入った紫色のチャイナドレスを着ていた。色っぽかった。パーティが終わりに近づいたころ、ミユキは僕の耳もとで「地下駐車場で待っていて」とささやいた。
部屋を出た僕はミユキに言われた通り、ホテルの地下駐車場で彼女が来るのを待った。三十分ほど待っていると、ミユキが現れた。ミユキはまとめていたウェーブヘアをおろし、純白のサテン地のシンプルなロングドレスに着替えていた。ピンヒールの赤いサンダルが、ミユキの細く綺麗な脚に似合っていた。
ミユキの後に続いて歩いてゆくと、ミユキは真っ赤なイタリアのスポーツカーの前で立ち止った。グッチのバックからキーを取り出し、助手席を開けて僕をクルマに乗せた。ミユキは運転席に乗り込み、エンジンをかけるとクルマを急発進させた。
地下駐車場を出て、ミユキはフジテレビの前の幹線道路をエンジン音いっぱいに響かせて走り抜けた。交差点を左に曲がり、高速の入り口を目指して突進してゆく。料金所のゲートを越え、白くライトアップされたレインボーブリッジまで一気に加速してゆく。窓から光の帯を連ねたお台場の明かり見えた。それが、あっという間に後ろの方に遠ざかってゆく。レインボーブリッジを抜け、ミユキは首都高の急なカーブを慣れた手つきで右へ左へとハンドルを切る。銀色に涼しく光る東京タワーが間近に瞬時に見えた。それは、暗い闇の彼方から、地上に突き刺した氷の刃のようなシャープな輝きを持ち、水晶の雫のように光っていた。

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