【第07回】6 | マイナビブックス

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星の流れに 風のなかに 宇宙の掌に

【第07回】6

2016.06.23 | 澤慎一

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河口湖畔のこぢんまりとした旅館に入った。リノアも僕も疲れていた。僕たちは一階の食堂で夕食を食べ、部屋に入った。質素な畳の八畳間の部屋だった。畳を見ると心が落ち着いた。
僕たちは浴衣とタオルを持って館内の温泉に入ることにした。温泉の入り口でリノアと別れ、僕はひとり岩風呂に浸かりながら今日一日のことをぼんやり考えていた。新宿中央公園で、僕に手を振りながら近づいてきたリノアの白い姿。リノアは富士浅間神社で、ひしゃくを手にとって、おいしそうに水を飲んでいた。ホールで、目を閉じて深く息を吸い込み、ピアノを弾いていたリノア姿。それらはすでに過去の記憶となった。だが、これからも、そうした記憶を積み重ねていくことができるのではないか。ふたりで未来をつくってゆくことができるのではないのか。そんなことを、僕は思った。
先に部屋に戻ってきたのは僕だった。部屋で待っていると、浴衣姿のリノアが戻って来た。浴衣を着て湯上りで顔が上気したリノアは日本人形のように可愛らしかった。リノアは部屋の奥のソファーに座り、冷たい水をコップに注ぎ、それから両手でコップをそっと握って飲んだ。濡れた長い髪が艶っぽかった。僕も向かいに座って、黙って冷たい水を飲んでいた。
少しして、仲居さんがやってきて、布団を敷いてくれた。ふかふかの二組の布団が並んで敷かれ、その間は十センチほど離れていた。
「疲れた?」と僕が尋ねると、リノアは「少しだけ」と言った。僕たちはそのまま黙って椅子に座っていたが、リノアの顔に疲労の表情が浮かんできたので、「布団の中に入ろうか」と僕が言った。リノアは小さくうなずいた。
「明かりも消してもいい?」と僕が尋ねると、リノアは「うん」と言った。
部屋の電気を消し、僕たちはそれぞれの布団の中にもぐりこんだ。僕が右側の布団に、リノアは左側の布団に入った。ぼんやりとした行灯が床の間に灯っていた。僕は顔だけ左に向けて、リノアの様子を見た。布団の中のリノアの横顔がおぼろげに、そして儚げに浮かんだ。
リノアは天井を、ずっと見上げていた。何かを考え込んでいるようだった。
僕も黙ったまま上を向き、リノアと同じように天井を見上げていた。西新宿の高層ホテルで泊まった時と同じ沈黙が、ふたりの間を流れていた。
どれくらい時間が流れたことだろう。リノアのつぶやくような小さな声が聞こえてきた。
「小学校五年生の時に……」と言って、リノアは声をつまらせた。
「……担任の先生から……されたって言ったでしょう」と、リノアは言った。僕は黙って、うなずいた。
「……個人的なことで話があるからと、外に呼び出されて……車の中だった……首を絞められて……」
そこまで言うとリノアは再び、声をつまらせた。
「……目が飛び出すほど苦しかった……怖かった……怖くて何もできなかった……」
僕は黙って聞いているだけだった。
「その頃の私は、男の人がどういうものかも何も知らなかったし……何が何だかわからなくて……ただひたすら怖くて……苦しくて……」
リノアは苦しそうだった。
「何だか自分が何か悪いことをしたみたいで……ずっとそう思っていて……母にも誰にも言えなかった……」
そこまで言うと、リノアは黙った。僕は左を向いてリノアを見た。表情がこわばっていた。涙を流さずに泣いているようにも見えた。リノアは十三年間も、深い傷を誰にも言えずにひとり抱え込んでいたのだ。リノアの苦しみがどんなものだったのか、僕は想像してみた。その傷をひとりかかえ、リノアはどれほど長い間、深く苦しんでいたことだろう。

リノアは軽く唇をかんだ。
「……できれば、あのまま殺して欲しかった……先生はその後も度々私を呼び出しては……」
リノアは声を震わせた。
「……私はある日から突然学校に行けなくなった……父は私を弱いからだと決め付けた」
リノアは何かに必死に耐えている様子だった。リノアが父親のことについて僕に話したのは、これが初めてのことだった。リノアのお母さんの話は手紙ではある程度書かれていたが、お父さんのことについては何も触れられていなかった。
「お父さんは、どんな人なの?」と、僕は尋ねた。
「父は検事なの……自分が正義の塊のような、法律のような人……でも、人の気持ちなんてぜんぜん何もわかっていない。法律と照らし合わせて、これが法律にひっかかるかどうかだけしか考えていない……その人の背景なんてまったく見えていない……その人がどうしてそんなことをしなければなかったのか、どういった状況にあったのか……そんなこと父には何も関係がない。やったかどうかの事実だけ。同じ罪でも、上からの圧力や強い権力がかかれば、釈放される。正義なんかじゃない。仕事でしているだけ……」
僕は拘置所に入れられたときのことを思い出した。僕を担当した検事もそんな正義の塊のような人物だった。自分の思いのままにならないと激しく怒鳴った。検事と言えばエリートという感じがしていた。検事と言ってもいろいろいるだろうが、少なくとも僕が出会った検事は柄が悪かった。起訴するぞ、と言って脅し、僕が言ってもしないことを調書に書き連ねて、拇印を押すことを強要した。僕が拘置所で出会ったヤクザの方がよっぽど紳士的だった。
そんなことを思い出していると、リノアは再び、ぽつりぽつりと告白を始めた。
「……父はいつも私に母親の代わりをさせようとする……なぜお前は言うことを聞かないんだって怒る……何でも自分の思い通りにしようとしたがる。母はいつも父の顔色をうかがって生きていた…… 父の命令を聞くだけだった。父の気まぐれな感情に従うしかなかった。そして、私の居場所は家になかった……歌を歌っている時だけ、自分を取り戻すことができた……」
そこまで言うとリノアは小刻みに肩を震わせ、苦しみを吐き出すかのように嗚咽し始めた。リノアの苦しみに満ちた嗚咽は、僕の心を痛めつけた。心をナイフで切られる感じだ。僕は、言った。

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