【第06回】5 | マイナビブックス

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星の流れに 風のなかに 宇宙の掌に

【第06回】5

2016.06.22 | 澤慎一

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朝早くに目が覚めた。今日なリノアの誕生日だった。しばらくは窓の薄明るい光を見つめ、雀のさえずりを聞いていた。やがてベッドから起き出した。長い時間をかけてシャワーを浴び、身体を清めた。何を着ようかと思い、綺麗な刺繍が入った白いシャツを選んだ。そして、黒い革靴を履いて外に出た。東中野の駅前にあるタイムズに止めたクルマに乗り込み、エンジンをかけた。クルマは昨日、新宿のレンタカーで借りたクーペのスポーツカーだった。ハンドルもシートも革張りだった。僕はエンジンをかけてクルマを発進させた。山の手通りを南下し、都庁前の大通りの路肩にクルマを止めた。空はどんより曇っていた。新宿中央公園の緑がくすんで見えた。これから死にに行くのだ、と思った。
公園の噴水広場で待っていると、都庁を背にゆっくりと歩いてくる白い姿のリノアを見つけた。彼女は、ミッシェルクランのような、白い清楚なワンピースを着ていた。ノースリーブで、身体のラインをやさしく見せるデザインだった。腰のあたりに白いリボンがあった。その優美なワンピース姿は、リノアの雰囲気にとても似合っていた。白いバッグもパンプスも可愛らしかった。
リノアは僕を見つけ、手を振り、微笑んで近づいてきた。僕たちはどう見ても、普通のカップルだった。待ち合わせして、相手を見つけて笑顔で手を振り、これからデートに出かける……。そんな、どこにでもいるような、ごく普通のカップルだった。
ふわふわとした幸福な気持ちで、永遠を見にゆく。清らかな気持ちでいた。

僕はリノアを助手席に乗せ、新宿中央公園前の大通りをUターンして、首都高の入り口に向かった。高速に乗ると、道は空いていた。首都高は路肩の幅が少なく、遮音壁に囲まれて息苦しさを感じた。だが、中央道へと出ると、急に視界が広がった。
「クルマは大丈夫? 酔ったりしない?」
僕は横を向き、リノアの顔を見ながら言った。
「大丈夫よ」
リノアは僕の顔を見た。穏やかな顔だった。中央道で僕は右側の車線に進路を変更し、徐々にスピードを上げた。
中央道は右に左へとゆるくカーブしながら市街地の果てにまで伸びていた。リノアは黙って、まっすぐに伸びてゆく道の果てを見つめ続けていた。僕たちはほとんど言葉を交わさなかった。バックミラーをのぞくと、リノアの愁いのある透き通った瞳が映っていた。
リノアとは二ヶ月ぶりに会った。だが、久しぶりという気がしなかった。リノアとは距離の感覚がなかった。久しぶりに会っても、浅い水底に差し込む光のように、すっとお互いの心に入ってゆくことができた。西新宿のホテルで泊まったあの日の時間に、僕たちの心は戻っていた。あの日のリノアと、どこも変わっていなかった。
けれど、僕は見た。バックミラーにちらりと映ったリノアの瞳の奥に、死の迷いと恐怖が宿っているのを。
その目を見た時、ハンドルを握りながら僕らは、東京に戻ることはないのだろう、と思った。身軽だった。処分しなければならないような荷物はない。遺書を残すような家族も友人もいない。東京は、からっぽで、何もないところだった。
スピードメーターの針は一二〇キロを超えている。このままシートベルトを外し、遮音壁に激突してゆけば簡単に死んでゆける。ちょっとハンドルを動かすだけでいい。静かな別の世界へと、すっと移ってゆける気がする。

ひたすら西へと走った。八王子を過ぎると、山道になった。木々の緑が目に沁みた。ここはもう、僕が知っている東京ではなかった。東京に戻らなくてもいいのだ。そう思うと、気持ちが安らいだ。
雲は相変わらず低く垂れ込めていた。談合坂の手前あたりから細かい雨が降り、フロントグラスを湿らせた。
僕はリノアに「疲れない? 大丈夫? 少しサービスエリアで休もうか」と尋ねた。リノアは顔をこわばらせていた。視線を前に向けたまま、うなずいた。顔が青白かった。
談合坂サービスエリアで少し休憩を取り、僕は再びクルマを走らせた。大月で本道から分岐し、河口湖へと向かった。クルマはほとんど走っていなかった。のどかな田舎の風景が道の両脇に広がっていた。
低い山に囲まれた高速道路を走り続けた。低い山並みの谷間を道路は緩やかにカーブしながら伸びていた。しばらくすると、急に前方の視界が開けた。遠くに富士急ハイランドのジェットコースターが見えた。噴水が吹き出しているように赤くうねっている。正面には雄大な富士の裾が見えた。山頂は厚い雲がかかっていて見えなかった。
「ごめんね」と、リノアが言った。彼女の顔はこわばっていた。
「リュウジさん、ごめんね。あなたまで巻き込んでしまって」
リノアの肩が小刻みに震えているのがわかった。僕は、できることならリノアの肩を抱きたかった。リノアを抱けたなら、いろんな悪い水流が逆転して、いい方向に向ってゆくような気がした。
僕は、黙ったままでいた。
リノアは、きゅっと身体を萎縮させた。青ざめた顔をしている。
今日は、リノアと初めてのデートだった。そして、それは最初で、最後のデートだった。僕たちは出会ってまだ二回目だった。そして、ふたりで永遠を見に行くのだ。

必要なものは、ほとんど残っていなかった。
わずかばかりの空気と水と光と、きょう一日に必要なカネだけあればよかった。生きるための、ぎりぎりぶん。ほんの少しで、満ち足りていた。
僕は河口湖ICで高速を降りた。河口湖の標識を見た時、なんとなく湖を見たくなった。魂が、ふらふらとさまよっていた。
市街地を抜け、河口湖大橋を渡り、湖畔沿いの道を走った。間もなく、〝オルゴールの森〟という看板を見つけた。
オルゴールという響きが、心の琴線を妙になぞった。どんな美術館なのか知らないが、音楽好きなリノアなら、きっと喜ぶのに違いない。
「オルゴールの森か。なんだか、綺麗な場所みたい。少し行ってみようか?」
ごく自然な感じで、僕がそう言った。リノアは黙ってうなずいた。
リノアの目には、何も映っていないように見えた。からっぽだった。リノアが消えて、風だけになったみたいだ。
オルゴールの森の前にまで行くと、誘導員の指示に従って、クルマを駐車場に入れた。
入場券を買って館内に入ると、そこはまるでおとぎの国のようだった。曇り空でくすんではいるが、赤や黄色、紫色の季節の花々がなだらかな芝生の斜面を帯びのように伸びていて、なんとも言えず美しかった。西洋風の庭園が綺麗に整えられ、その周りを中世ヨーロッパの貴族の館をイメージさせるような街並みが取り囲んでいた。池には白鳥が優雅に泳いでいた。
リノアは、素直な目でそれらの美しい風景を見つめていたが、どこか物悲し気だった。そして、僕も、リノアの気持ちが移り、悲しい気持ちになった。

僕たちは何をするわけでもなく、池の畔をまわった。ちょうどお昼時だったので、階段をあがり、レストランに入った。ボーイがにこにことした笑顔で現れて室内に案内しようとしたが、リノアは「テラス席がいい」と言った。僕はボーイにテラス席に案内してもらうように頼んだ。
芝生の上に白いテーブルとイスがあり、涼しげなパラソルがさされていた。僕たちは案内された席に着いた。そこからは中庭をぐるりと見渡すことができた。
しばらくすると、女子学生風の若い店員がメニューをもって現れた。パスタを頼んだ。
注文を終えると、リノアは、
「ここから富士山は見えるの?」と、透明な視線で言った。愛しくて、抱きしめたくなるような素直な視線だった。
「たぶん、この正面に見えると思う。けれど、曇っているから見えないね」と、僕は言った。
富士の山頂あたりには薄い雲がかかっていて、その雄大な姿を見ることはできなかった。
料理がテーブルに運ばれてきた。だが、食欲はなかった。それでもフォークにパスタを巻きつけて食べた。悲しい味がした。リノアは、食事に手をつけなかった。
レストランは、休日を楽しむカップルや家族連れで賑わっていた。僕たちは料理には手をつけずに、目の前に置かれた銀色のフォークの先を見つめていた。気まずい雰囲気が流れた。僕たちの上にだけに薄青い雨が降っていた。まわりの目が気になった。
「ごめんなさい。ごちそうさまでした」
リノアはそう言った。僕も、「ごちそうさま」と言った。
レストランを出てから僕は思った。
死ぬのだったら、近くの店で練炭を買って、クルマの中で燃やせばいい。二酸化炭素と一酸化炭素の中毒症状で死んでゆける。クスリはリノアが大量に持っている。酒とクスリを飲んで眠ってしまえば、何もわからないまま、静かに逝ける。
ぼんやりと死を考えた。けれど、もうひとつの声が聞こえてきた。
……どうして、なぜ、死ぬことばかりを考えているのだろう。なぜ、生きることを考えないのだろう。何があったら、生きていたいと思えるのだろう。何があったら、生きられるのだろう?
カネ? 愛? 生きる希望? 未来?
ニンゲンが怖かった。いろんな感情が入り組んでくることが、怖かったのだ。臆病だから、夢想の世界で浮遊している方が楽だった。ニンゲンは、いつも僕を都合のいいように利用し、怒鳴り、傷つけてばかりいた。ニンゲンといるのなら、一人でいる方がいい。心がどんなに淋しくても、傷ついていても、ニンゲンといるよりは、一人でいる方がよかった。
ニンゲンたちといることが苦痛でならなかった。みんなの輪の中に入って話すことができなかった。自分の考えていること、感じていることが、どれもつまらないように思えてきて、僕は誰とも話さなかった。そうして、せっかく苦労して作りあげたものを、最後はすべてを叩き潰して、消滅させてきた。この世界では、生きられないのだ。

僕たちはあてもなくオルゴールの森の中をさ迷った。どこか見たいものがあるわけではなかった。目的もなく歩いた。館内には、さまざまな自動演奏器があった。世界最大規模という煌びやかな自動ダンスオルガンがあった。リノアは黙って、その演奏を聴いていた。耳をつんざくような迫力のある音楽も、僕らの中をただ素通りしていった。
館内放送で四重奏があります、という案内が流れた。それを聞いて、リノアは「行ってみましょうよ」と言った。どんな時でもリノアの心は、音楽に敏感に反応していた。細やかなリノアの波動を感じた。
僕たちはメインホールに向った。ホールには大きな珍しい、世界の自動演奏楽器が展示されていた。タイタニック号にのせるはずだったという大きな自動演奏器もあった。それら年代ものの楽器は世紀を隔てて、ちゃんとメロディーを奏でることができた。
ホールは、客席が階段状に並べられ、演奏者と観客の息がふれあうことができるように配慮されていた。やがて舞台の隅から演奏者が現れた。チェコの交響楽団という演奏者たちはバイオリンやチェロを手に持ちながら客席に向かってにこやかに微笑み、丁寧におじぎをして、席に座った。
厳粛な雰囲気がした。やがて演奏者は呼吸を合わせて、楽器を弾き出した。美しい音色が流れ始めた。
パッヘルベルのカノンのメロディーが奏でられた。そのメロディーは、次から次へと、まるであふれる泉のように途切れることなく流れ、ホールを美しいメロディーの花でいっぱいに満たした。
音楽は心の中に入りこみ、そして涙を流させた。目には見えない。けれど、それはちゃんと、確かに、そこにあった。
音楽は、目には見えなかった。見えないけれども、そこにはあった。見えぬものでも、あることを教えてくれる……。
ふと、隣を見ると、リノアの頬が濡れていた。
リノアは、ちゃんと生きている、と僕は思った。ちゃんと、心が働いている。生きている。リノアの涙が、生きていることを証明していた。そうして、僕は、そんなリノアの命を奪おうとしていた。自分の人生に未来がないからと、リノアを引きずり込もうとしていた。淋しいからといって、他者を引きずり込んではいけない……。
言葉や姿、形で伝えられないものを、音楽は伝えていた。形あるもの、意味のあるものだけを追求するこの世にあって、音楽はとても儚く、脆いものだった。けれども、だからこそ強い光りを放つのだ。絶望がある限り、希望があるように―――。

演奏会が終わって、観客が外に出て行った。僕たちは最後にホールを出た。外に出ると、僕たちは薄い光を浴びた。空は相変わらず曇っていた。僕たちは小さな橋を渡り、季節の花々が咲き乱れる小道を歩いた。沿道に、小さな教会があった。リノアは、ふらふらとした足取りで教会の入り口に近づいた。僕はリノアの後ろに続いて教会の中に入った。
明るい教会だった。祭壇があり、その背後は大きなガラスとなっていて、河口湖の水面が広がっていた。祭壇には透明なガラスの十字架が飾られていた。それは何枚ものガラスの板を重ね合わせたクリスタルの十字架だった。垂直の重なりが美しかった。
僕たちは長い間、祭壇に立ち尽くし、水晶のような透明な水をたたえた湖を眺め続けた。
リノアはしばらくガラスの外に広がる湖を眺めていたが、「もう行こう」と言った。充分に見たからもう満足した、といような言い方だった。僕はリノアの後を追うように教会を出た。
小高い丘に登り、薔薇園を抜けてオルゴールの森から外に出た。薔薇園を抜ける時、リノアはピンク色の薔薇をちらりと見つめ、何か言いたげな目をした。それから、リノアは黙って目を伏せた。やわらかな淡いピンク色が白っぽく滲んでいるような、優しい色をしていた。リノアにとって、何か思い出のある薔薇なのかもしれなかった。
オルゴールの森の外ではクルマが走り、電柱があり、住宅が建ち並んでいた。おとぎの国から急に現実世界へと戻った気分がした。

僕はリノアを助手席に乗せ、再びクルマを走らせた。リノアは黙ったままフロントグラスの前方を見つめていた。河口大橋を渡り、河口湖インターチェンジへの方へと走った。国道138号に突き当たると、左へと曲がった。山中湖へと続く道だった。
リノアは漠然と目を開き、前を見ていた。素直な横顔だった。何かから吹っ切れたような、さっぱりとした表情だった。リノアの瞳は透き通っていた。無垢な優しさに満ちていた。
〝もし、どうしてもその方法しかないというのなら、富士浅間神社の森に行ってみたい〟
〝最後に、その音楽ホールで、僕は君の歌を聴きたい〟
そこは、もうすぐそこにあった――。
幅広い国道が、いつの間にか細い道に変わっていた。道路は田舎道となり、車道に沿って低い住宅が並ぶようになった。
道路は真っ直ぐ伸びていた。突然に、鬱蒼とした森が右手に見えた。濃い葉並を茂らせた枝が、道路の上を覆いかぶさるような勢いで伸びていた。森の一部が道路まで飛び出したような感じだった。
「懐かしぃ……」と、リノアが言った。
雲の切れ間から、神様が顔を出したような、朗らかで、明るい顔になった。リノアの顔に静かな精気が満ちてゆく。
「そこよ。すぐそこを曲がると、富士浅間神社があるの」
リノアの顔が、ぱっと明るくなった。

僕はリノアに言われた通り、森に飲み込まれるように右折した。国道から一歩踏み込んだだけなのに、静かな別世界が広がっていた。天界の入り口にでも紛れ込んでしまったかのようだ。厳かな空気をひしひしと感じる。深い意識の層が重なりあっている。
杉木立が整然と並び、辺りは薄暗かった。樹々の合間から、崩れかけた石の灯篭が並んでいるのが見えた。参道の両脇をずらりと並ぶ灯篭には、強い霊気が張りつめていた。傷ついた兵士たちが毅然とした姿で直立していた。
本殿前の空き地にクルマを止めた。エンジンを止めると、あたりがしんと静かになった。ドアを開ける。ひんやりとした空気が、僕の頬や首筋をくすぐった。冷たくて、気持ちがいい。澄んだ空気が、胸いっぱいに入りこんでくる。水気を含んだ心地よい空気だ。それが、肺の奥深くにまで染みこんでくる。瑞々しい気持ちになった。
リノアはクルマから出ると、杉木立を見上げた。僕も上を向いた。濃い葉並が、僕らをすっぽりと包むように、勢いよく生い茂っていた。まるで緑の階段のようだ。幾つもの葉並が、音階のように重なりあう。リノアは目を閉じ、大きく手を広げ、新鮮な空気を抱きとめるかのように深呼吸をした。僕も大きく息を吸い込んだ。生命力のあふれる濃密な空気を肌に感じる。雨上がりの澄んだ空気が、とても瑞々しい。息を吸い込むたびに、身体の芯までも潤ってゆく。微かに霧の香りもする。ここが、富士の森の香りがするところ。僕が来たかった場所。本当の森の香りが、ここにあった。
樹の上の方には、白い靄がぼんやりと漂っていた。空に向って螺旋状に伸びてゆく杉の葉に、無数の露がころころと連なっていた。
「空が高い」とリノアが言った。「時空が高い」

リノアと並んで、僕も空を見上げた。まっすぐ、垂直に伸びている杉木立の上空に、薄い霧がたちこめていた。突然に、霧がさっと晴れた。薄く灰色に濁った霧の合間から、澄み切った水色の空が顔を出し、青く綺麗な空がどんどん高く広がってゆく。まるで青い炎が燃えあがるような、幻想的な光景だった。濁った灰色の霧が晴れて、見る見るうちに青い空が広がってゆく。空の歓びを感じた。
杉の葉並にころころと連なっていた露の玉が、いっせいに光り出す。光の輪が玉にゆっくりと広がり、それらが微妙に共鳴しあう。軽やかな鈴の音が、微かに聞こえてくる。まるで、天然のクリスマスツリーだ。僕がこれまで見たどんなクリスマスツリーよりも、最も美しいツリーだった。
さっきまで重々しかった心が、透明な水色の空の広がりとともに、軽やかに開いてゆくのを感じる。ほんの、すぐそこには住宅が建ち並び、クルマの往来が激しい国道と接しているというのに、ここはまったく別の世界だった。深い森の神を感じる。神など信じていなかったのに。
耳には聴こえない、しじまの木霊が、美しいメロディーを奏でている。この森は静かな調和の響きに満ちている。
「……素敵な場所だね。ここなんだね」と、僕は空を仰ぎ見た。
「ここよ。私が言っていた場所は」
リノアは僕に微笑みを返した。幸せそうな笑みだった。
僕は再び大きく深呼吸をした。そして、深く目を閉じた。静謐な森の奥から、瑞々しい生命の香りがする。
僕のまわりを大きな杉が取り囲んでいた。樹の一本一本に、神々が宿っていた。森の中を、小さな妖精のようなものが浮遊している。
深く傷ついたもの、癒されないものたちの魂が集まっていた。そうした魂を大きく抱え込んでいる崇高なものを感じた。精神の白い絡まりが幾層にも重なりあっている。そして、僕たちはその白い絡まりの一部だった。

僕たちは境内に足を踏み入れた。木でつくられた立て札があった。
〝木花開耶姫神〟という文字が書かれてあった。
「この神社は、〝このはなさくやひめのみこと〟を祀っているの」と、リノアは言った。
リノアは、立札を見ながら、素直な横顔で言った。
「富士山には浅間と呼ばれる女性の神が宿っているの。徳が高く、病気や危険から守り、安産と子育ての神として崇められている。名前が、このはなさくやひめのみこと」
僕には、初めて耳にする姫神の名前だった。
そして、富士に宿る女神を想像してみた。
気高い富士の頂から、目に見えない神秘の水流が放出されている。神秘の水流は、複雑な山肌に沿って、富士のまわりの樹海や湖に舞い降りている。そんな静謐で透明感をたたえた優しい女神が、この富士の森に静かに息づいている……。
「きっと、美しい神様なんだね。桜の花の似合う……」
立て札を見ながら、僕は言った。
立て札のすぐ後ろを小川が流れていた。新鮮な水の匂いがした。深い山から湧き出る水の匂い。その匂いをかいでいると、やさしい気持ちになった。
リノアは境内へと入ってゆく。僕はリノアの長い後ろ髪を見ながら後に続く。小川を越え、鳥居に近づいた。鳥居の前には、二対の狛犬が鎮座している。どこか愛嬌のある目だった。可愛らしい目をしている。
「ただ今、帰りました」
リノアは狛犬を見上げ、そう言って軽く頭を下げた。
「はじめまして」と、僕は言った。
初めて場所なのに、懐かしい感じがした。ここには意地の悪い視線も、心を傷つけるような悪い言葉もなかった。崇高な磁場が重なりあっていた。
鳥居をくぐって、境内に入る。厳かな空気が、神社を守るように張りつめている。リノアは本殿の前で、ふと立ち止まった。僕も立ち止まり、本殿を見つめた。木花開耶姫神がここに祀られていた。本殿は時代の古さを感じさせた。ずっしりと重そうな屋根瓦。深い味わいを見せる朱色の柱。そして、見事な龍や象の彫り物。職人の魂を感じた。多くの人びとの魂が、日本古来の神々を守っていた。ここは結界だった。邪悪なものから身を守るための結界だった。何かの大きな力が働いていた。
リノアは本殿をしばらく見つめていたが、ふと何かを思いついたように本殿から離れ、左手にある手水舎に向った。僕もリノアに続いた。
リノアの動きは自然な感じだった。まるで自分の庭のように慣れた様子で境内を横切った。
手水舎には、大きな石をくり抜いてつくられた水がめがあった。目付きが鋭い青龍があり、その口から霊水が湧き出ていた。水には不思議な霊気がこもっていた。リノアは、水がめに溜まった水を見つめていた。水面が冷たさにふるえていた。
「ここよ。富士に染み込んだ雪解け水が、最初に地上に出てくる場所は」

リノアはそうつぶやいて、静かな水のたまりを見つめた。それから、水がめの淵に伏せて並べられたひしゃくのひとつを手に取り、水鏡のように透き通った水をすくった。まず左手を清め、ひしゃくを持ち替えて今度は右手を清めた。そして、ひしゃくの底にあった水を左手の掌で受け取り、それを口に含んで喉を潤した。
「――おいしい」。リノアが顔をあげて言った。「何年ぶりかに飲むけれど、味は変わっていない。懐かしい……」
リノアは安堵の表情を浮かべ、ふうっと大きく息を吐いた。やすらかな表情だった。ぼんやり開いた目に、美しい富士の空気が映っていた。
「ここなの、わたしが言っていた場所は」
リノアは振り向き、僕に微笑みかけた。
「君と本当にここに来れるなんて、思いもしなかった」
僕もリノアに微笑みかけた。
リノアは、優しい目をしていた。黒い瞳に、可愛い微笑が浮かんでいた。
「私も、リュウジさんと本当に来れるなんて思わなかった」
僕はリノアからひしゃくを受け取り、両手を清め、霊水を口に含んだ。本当に冷たくておいしい水だった。生まれたばかりの富士の水だった。雪解けの水だ。
「思ったより、冷たい水だね。君からの手紙で想像していたよりも素敵な場所だよ」
僕はそう言って、リノアの顔を見た。生気に満ちたリノアの表情があった。こんな生き生きとしたリノアを見るのは初めてだ。
「ここが、私の好きな場所なの」
リノアはそう言った。
ここが彼女にとって、一番落ち着ける場所なのだろう。いつ来ても、拒絶されることなく、受け入れてくれる場所。いつ帰って来てもいい場所。この世の、どこにも行く場所がなくなったら、いつでも戻ってきてもいい場所。天に近い場所。
……ここだったんだ。リノアが手紙で書いていた場所。本当に、リノアと一緒に、ここに来れるなんて……
僕は新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
実感がなかった。もう、このまま死んでしまってもいいように思えた――――。

リノアも、深く息を吸い込んだ。そして、本殿の左側にある杉の大木を見上げた。本殿の両脇には、それぞれ二本の大木がそびえていた。右に檜(ひのき)が、左に杉があった。それぞれに、強い気を感じた。僕が最も強い気を感じたのは左側の杉の大木だった。この木は何百年もの長い間、いろんな人を見てきたのだ。透明で、きらきらと輝くエネルギーの雫の塊を感じた。この樹には神々が宿っていた。身体の芯が震えるような霊気がこもっている。
杉の太い幹は、大地にしっかりと根を張っていた。表皮は、風雪に耐え続けた年輪がしっかり刻みこまれてきた。
人間よりも長い時を生き、人間よりも多くのものを学び取り、人間よりも強く、優しい。この樹は、多くの人間が生き、死んでゆくのを見てきた。僕が死んだ後も、この樹は生き続ける。
この杉の大木を見上げていると、悲しみが薄れていった。いろんな悲しみを吸い込んでくれた。
僕はこの杉に祈りを捧げた。
――僕のことを憶えていて欲しい。ここに訪れ、生きていたということを。
僕が死んでも、この樹は香り続けるだろう。
素直な気持ちでいた。素直で透明な気持ちだった。
僕は、神に命を捧げて、散っていった人たちのことがわかる気がした。偉大な音楽家や作家、画家たちは、神や自然への愛のために、命と引きかえにして美しい作品をこの世に残し、死んでいった。他のすべてを失ってもいいと思えるものを生み出し、散っていった。

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