【第04回】3 | マイナビブックス

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星の流れに 風のなかに 宇宙の掌に

【第04回】3

2016.06.08 | 澤慎一

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こうして僕は時々、〝CLUB MISTY〟のパーティに出かけるようになった。たくさんの女の肌の海に溺れた。美しい女たちの肌に溺れていると、争いごとだとか憎しみだとか、恨みの気持ちが沸き起こらなかった。やさしい気持ちになることができた。
素性も知らない多くの女たちと絡みあうことが、どういうことなのかわからない。愛なのか、どうか、わからない。
世界は広く、どこにも自分の居場所がないわけでもない。もしかしたら世界は、自分が思った以上に広いのかもしれない。
五回目のパーティの時だった。いつものように延々と続く宴が終わり、着替えを済ませた男性会員がまず一人ずつ部屋を立ち去っていった。僕が最後に立ち去ろうとすると、ミユキが近づいてきて、僕の掌にカードを握らせた。角張った固い感触がした。僕はゆっくり掌を広げた。キャッシュカードだった。
「お願い。黙って、受け取って欲しいの」
ミユキが眉間に皺を寄せて言った。僕はカードとミユキの顔を交互に見比べる。僕は少し当惑した。こんなものをもらう筋合いはないからだ。
ミユキは白く微笑した。僕の心を推し量っているような微笑だ。
「へんなお金じゃない。これはあたしがホステスの時代に働いて貯めたお金なの。受け取って。あの人も、そう願っているから」
ミユキは真剣な目で言った。それから、ミユキは暗証番号を教えてくれた。ひたむきなミユキの眼差しが、僕にそそがれる。ミユキの気持ちが感じられた。
――いい女だ。情が厚くて――。
源さんの言葉を思い出した。無精ひげの源さんの、笑っている顔が、僕には見えた。それから僕は改めてミユキの目を見つめた。ミユキの目に暖かな光が宿っていた。その光が僕の心に深い影を落とした。

何回かミユキと会い、肌を重ねているうちに、僕は彼女に親しみを覚えるようになっていた。彼女とは肌があった。肌の相性が良かった。白い霧に浮かぶ小舟のように僕たちはやさしく抱きあった。聖なる世界へと、僕は引き込まれていった。やわらかくひとつに溶けあい、心の襞が幾重にも重なりあう。ろうそくの炎がすっと消えてゆくように、やすらかな充足感があった。心が開いていた。
だが、僕たちは〝CLUB MISTY〟以外では会おうとはしなかった。『互いに干渉しあわず、ひとときを楽しむこと』。それが、この会のルールだからだ。
ミユキは、僕を会員の一人だと認めてくれるようになっていた。拘置所にいた時、源さんは同じ境遇にいる者として、僕にやさしく接してくれたが、それと同じような感覚をミユキから感じた。
ミユキの好意は、源さんの気持ちだと、そう思った。
僕は掌を開き、ミユキが差し出したキャッシュカードを見つめた。そして、「ありがとう」と言った。
ミユキが微笑した。「今度、ふたりきりで、食事をしましょう」。ミユキの赤い唇がそう動いた。
僕も微笑を返した。このまま、ふたりきりになりたかった。ふたりきりになれるところに行きたかった。僕は確かに、ミユキに特別な感情を抱いていた。ミユキも僕を意識しているみたいだった。こんなパーティで出会ったというのに。
拘置所を出てから色眼鏡で見られ、人間不信になり、僕は孤独でいた。無口になり、誰に対しても、心を開くことはなかった。だが、僕が僕でいられるようになったのは、ミユキのおかげだった。傷ついた僕にやさしくしてくれるのは、ミユキのように同じように傷ついた女たちだった。ミユキたちに出会っていなかったら僕は、今ごろどうなっていたのかわからない。
ミユキがしていることは、人に誇れるようなことではないのかもしれない。けれど、人がなんと言おうと、僕はミユキを守りたかった。最後のひとりになっても、僕はミユキをかばい続けることだろう。ミユキたちの白い肌に抱かれると、やさしい気持ちになれた。水平線いっぱいに白い肌の海が広がり、僕はその海に溺れた。
生きてゆける、そんな気がしていた。僕の心が素直でまっすぐ立っていられるのは、ミユキの肌があるからだった。それが愛なのか、恋なのか、わからない。ただ、ミユキとふれあいたい。ミユキを抱くことが、生きることだった。

季節は春から初夏へと変わろうとしていた。
その日、渋谷で面接があった。広告代理店の仕事だった。簡単な筆記試験と面接を終えて事務所を出ると、街はたそがれ時だった。僕は暮れなずむ空を見上げた。そして、視線を地面に落とした。――たぶん、おそらくだめだろう。そんな諦めの気持ちを抱えながら、雑居ビルの谷間をあてもなく歩いていた。
すっかり自分に自信を失くしていた。ミユキとふれあって、生きていたいと思ったのは、つかの間のことで、自分など、もはやこの世に必要のない人間なのだと思う。
気づいた時にはビルの谷間から抜けていた。目の前に四車線の広い幹線道路があり、向かい側に教会があった。その隣に黒っぽいビルがそびえていた。白い直線の柱がビルの壁面に沿って、何本も垂直に伸びている。そういえば、ここは尾崎豊の聖地だった。ここは彼の歌が生まれた場所だった。
中学生のころ、尾崎豊をよく聴いていた。〝OH MY LITTLE GIRL〟の歌が、僕は一番好きだ。僕が今よりもっと若く、多感なころに聴いたこの歌が、カラオケで流れることも、テレビやラジオで流れることも、街に流れることも、もうない。人の記憶はあいまいだ。次から次へと新しい人や情報やモノが押し寄せ、古いものたちはすっかり消されてゆく。昔、愛した記憶なんて、忘れてしまって。
暮れかかる空の果て。空はビルに囲まれて、小さな悲鳴をあげている。空はひび割れている。
見ず知らずの人たちが僕を追い越し、流れてゆく。これほどの人がいながら、誰も知る顔はない。孤独な都市の谷間をひしひしと感じた。この大都会に親類も兄弟もいなければ友だちも恋人もいない。僕は、まったくのひとりだった。不意に、ゆったりとした哀切なメロディーが心に流れてきた。

街角にたたずむひとりぼっちの女の子……
街はこんなにも騒がしくて……
とても寒がりで泣いてばかりの女の子……

僕はビルから飛び降りた明日風のことを思い出した。そして、ビルの屋上から空へと羽ばたいてゆく自分の姿を想像した。僕も、そろそろ明日風のもとへと帰るころなのかもしれない。もう、僕はこの世には必要ない――。
ふと、心が透明な翼みたいに軽くなった。このまま空を飛んでゆける気がした。僕は何かに引き寄せられるように歩き続けた。歩道橋を渡り、白い直線の柱が垂直に並ぶ黒っぽいビルのテラスに出た。すぐ右脇に赤いレンガの手すりがあり、そこには尾崎を慕ってのメッセージがびっしりと書き込まれていた。ここに来るのは――本当に久しぶりだった。

〝ようやく尾崎の夕陽を見に来れました〟
〝尾崎さん、ありがとう。一度でいいから会いたかった〟
〝貴方が残したくれたモノを永遠にこの世界に受け継いでゆく〟
〝小五のとき自殺しようとしていた私を救ってくれてありがとう!!〟
〝従うとは負けることと強く信じた〟
〝色々つらいこともあるけれど、まだ死ねねぇ……〟
〝これからも、ずっとずっと大好きだよ。見守っていてね〟
〝十年ぶりにこれました〟
〝強く生きることを誓います〟
〝生きる意味を教えてくれて、本当にありがとう〟

日が落ち、翳りゆく世界のなかで、僕はメッセージを読み続けた。メッセージは手すりの果ての緑の植え込みにまで続いていた。下の赤れんがの床にも、メッセージがびっしり書き込まれている。純粋な人は、みんな早く死んでしまう。尾崎も――。

僕はぼんやりと手すり越しに街を眺めた。目の前を首都高がすっと横に伸びていた。何十、何百台ものクルマが絶えることなく走っていた。高速の下にもクルマは行列をなしていた。赤いテールランプが連なっている。街にはネオンが灯っていた。その向こうには柔らかなオレンジ色の光をまとった高層ビルが亡霊のように立ち尽くしていた。夕暮れの光は急速に色を失い、街は黒いシルエットとなって浮かんでいた。風が街の谷間に渦巻いている。都市の喧騒、ざわめきが、街の上を流れている。手すりから身を乗り出すと、足元を救われてその流れに巻き込まれそうになる。尾崎は、ここで何を想い、何を感じたのだろう。
赤レンガの手すりには、尾崎豊のメモリアルとなるプレートが据え付けられている。尾崎の似顔絵が彫られている。両手を組み、強い祈りの姿勢の尾崎がそこにいる。似顔絵の尾崎の頭の上には「1965―1992」と記されている。1992年から先はなかった。そこで尾崎の時間は止まっていた。死ななければならない運命を背負いながら尾崎は歌っていたのかもしれない。
――強く生きる。
赤レンガに刻まれたメッセージには、そんな言葉が多い。強く生きるとは、どういうことなのだろう。プレートには、尾崎が書いた詞が刻まれている。

尾崎の歌詞を読みながら、僕はもう一度、強く生きるとはどういうことなのだろう、と考えた。正義がまかり通らない。しがらみだらけのこの街。納得のできない、嫌なことを押し付けられ、我慢し、受け入れなければならない。現実に傷つき、妥協し、あきらめ、それを受け入れて、心を殺してゆくこと。ただ、一方的にやりたい放題にやられて耐え忍ぶこと。それが、強く生きることなのか。
利用され、都合のいいようにモノと同じように扱われ、理不尽なことで怒鳴られ、心をつぶされ、欺かれ、つまはじきにされ、夢も物語りもない、凍てついた現実があるだけだ。自分が自分らしく生きることができない、この世界。何も言えない街。将来の夢も希望もなく、自分を失い、心を失い続けることが、強く生きることなのか――。
それらを拒絶し、潔く散ってゆくことが、本当に強く生きることではないのか。

明日風よ。僕は生き残ってしまった。死にきれずに。
生きることは、とても孤独で、悲しく、つらいことだ。悲しみと苦しみを止めるために、死を選ばなければならないこともある。
ビルから飛び降りたら、どんなふうに落ちてゆくのだろう。どんなふうに地面に、たたきつけられるのだろう。
地上に落ちた時、目もつぶされるのだろうか。
明日風はクスリを飲んでいたのだろう。死ににゆく、という気持ちはなく、鳥になろうとしたのだろう。
明日風は下ではなく、上を見上げて、きっと空を見上げつづけて、落ちて行ったのだろう。命が終わる瞬間まで、夢を見つづけていたのだろう。純粋に生きている人は死んでゆく。僕は生き残ってしまった。
空には目に見えない階段がつづいている。都会の空に、まるで銀色に光る飛行機雲のように、まっすぐ青い空へとつづいている階段。透き通った青い空。
想像力だけが、弱い人間に残された自由な白い翼。
たとえ、死の瞬間でさえも、僕は空を見上げていたい。
夢を見つづけていたい。
好きだったひとのことを抱えながら、その瞬間まで。

尾崎へのメッセージへの続きを読んでみる。

〝尾崎は一生聴いていくことになると思う。人生に背を向けず真剣に生きようと思う〟

〝三十歳になりました。あなたの一生は私の今迄より短かったけれど、その誠実に一生懸命に生きた姿は私達に本当に多くのものを残してくれました〟
〝尾崎のような気持ち、サラリーマンになっても、絶対に忘れない!〟

夢やぶれ、現実に傷ついても、まったく無名の人々が、けれど確かに生きている。苦しみながら。死にきれずに、生き残ってしまった。生きていてしまった。
尾崎は歌っていた。愛すべきものすべてに。
心あふれるもののために。
心あふれるもの。それを見つけるために。
世界はとても淋しい。けれど、……かすかな風の流れ……潮の香り……
……海ぞいに散らばる街の明かり……
……夕暮れの空に浮かぶ茜雲……透き通る光……
……世界は美しいかもしれない……

その時、携帯電話がメールの着信で振動した。僕は驚いた。僕の携帯電話に連絡してくるような知り合いなど、誰もいないはずだ。急いでメールを開いた。件名に〈リノアです〉と書かれていた。嫌な予感が走った。

〈死にたい〉

本文には、ただ、一言、そう書かれていた。その文字を見て、僕は頭が真っ白になった。
死にたい、という言葉が、僕の心に突き刺さった。
背中を、ぽんと突き飛ばされた気がした。
無力だった。
美しいもの、価値のあるもの、何一つ、生み出すこともできない。
未来がない。
未来が感じられない。
すっかり、否定されてしまった。
風が細い光のように微笑する。
おまえはもう必要はないのだ、と笑う。
それが、現実だった。

〈君が死ぬなら、僕もそうする〉

そう書いて、リノアにメールを返信した。

しばらく返事が来なかった。僕は、もう一度、〈死にたい〉と書かれたリノアのメールを開いた。〈死にたい〉と書かれた文章を見つめた。携帯の小さな液晶画面に浮かんだ電子の文字。それはとても現実感がなかった。けれど、この瞬間、リノアはどこかで確かに存在し、生きていた。死んだ明日風から、メールが届くことはない。

僕がメールを返信してから二十分後に、リノアからの返事が来た。

〈今すぐ会えますか?〉と、書かれていた。

メールのやり取りで、新宿の西口で会うことを決めた。僕は携帯を折りたたみ、急いで尾崎のメモリアルが刻んであるテラスを駆け下りた。そして、渋谷駅まで駆け出し、山手線に乗り、新宿で降りた。
僕はリノアからのメールを受信しつづけた。
〈そこはお気に入りのレストランなのです〉
〈何か思い出でも?〉
〈十五歳の誕生日に、母親がお祝いをしてくれたのです〉
〈そうですか。とても大切な思い出ですね〉

そんなふうに僕はメールの返事を送りながら、僕はリノアのもとへと駆けつけた。メールの返信が途切れたら、リノアはどこかへ行ってしまうように思えた。だから、気持ちは焦りながらも、僕は冷静な文章をリノアに送りつづけた。
新宿西口の改札口を出て、副都心の高層ビルの一つへと走った。

エレベーターに乗って、最上階に近いレストランに向かった。
エレベーターを降りる。リノアが十五歳の誕生日の日に、母親がお祝いをしてくれたレストランを探す。店の名前を探す。
そこは、静かな雰囲気のレストランだった。やわらかな間接照明が淡雪のように降り積もっていた。ボーイが店内に案内しようと声をかけてきたが、待ち合わせをしているので、と僕は息を切らせた。僕は肩で大きく息をしていた。
僕は店の奥に入って行って、あたりを見回した。
どうか、リノアがいてくれることを祈った。
ふと視界に、たそがれてゆく薄い紫色の空が見えた。大きな窓からは、薄紫の空のキャンバスに光を砕いたような東京の街明かりが散らばっていた。
リノアを探した。
隅っこの窓際に、儚げな感じの女の子がひとり窓の外を向きながら座っていた。彼女のまわりだけ雰囲気が違った。風のように透き通る気配を感じた。黒く、艶やかな長い髪が背中に落ちかかっていた。
彼女だ、と思った。彼女が、リノアだ。
僕は肩で息をしながら彼女に近づき、「リノアさんですか」と声をかけた。
リノアは長い髪をくずして振り返った。怯えたような、助けを求めるような目が僕を小さく見上げた。僕の声に、彼女はこっくりとうなずいた。長い髪を垂らし、前髪からのぞいた彼女の瞳は秋の風のように透き通っていた。独自のさみしさが溶け込み、暗い翳りがあった。

「……はじめまして」と、僕が軽く頭を下げた。
「……わざわざ……すみません」と、彼女も返してくれた。
想像していたよりも神経質な声ではなかった。細くて澄んだ高い声だが、落ち着いていた。肌が白かった。どこか脆い感じがした。リノアは僕を静かに見つめていた。素直な視線だった。
「前に座ってもいい?」
「ええ」
そう言ってリノアは、肩をすぼめながら下を向いた。
テーブルを挟んで僕は、彼女と向かいあった。リノアは薄い水色のバーバリーのワンピースを着ていた。それは清楚で、リノアの雰囲気にとても似合っていた。
僕たちはしばらく向かい合ったまま、何も話せずにいた。
「……ごめんなさい……変なメールを送ってしまって……びっくりしたでしょう……」
リノアはそう言って笑おうとしたが、表情はこわばっていた。視線が落ち着かなかった。
リノアの心は萎縮していた。彼女の心は細い炎のように儚くゆれていた。すぐに消えてしまいそうな細い炎を感じた。リノアのまわりには鋭い空気が張りつめていて、安易に人を寄せ付けない壁があった。そして、僕は彼女の左手首に白い傷が幾つも走っているのを見つけた。僕はその傷を見なかったふりをした。目を伏せた。

僕は無理に微笑し、「少しは落ち着いた?」と言った。
リノアは、下を向きながら軽くうなずいた。
僕は、にこやかな笑みを浮かべた。その笑顔が、リノアに伝わっているかどうか、それはわからなかった。
「いつも手紙を、ありがとう」と僕が言った。「拘置所にいた時、君からの手紙が届くのをいつも楽しみにしていた。君の手紙に癒され、励まされた。君に直接会って言いたかった。ありがとう」
僕がそう言うと、リノアは顔をあげ、不器用そうに笑った。リノアが僕に気遣っていることが感じられた。ふたりで無理して笑おうとしていた。本当は死にたいのに。それなのに、死など考えていません、というような顔をして、僕たちは微笑し、無理に話をしていた。
リノアは、小柄でほっそりした女の子だった。頬がふっくらとしていて、まだどこか幼い少女の面持ちを残していた。冬の蕾のような凛とした硬いものを感じた。鼻筋がすっと通っていて、口元が引き締まっていた。潔癖で強い孤独の芯のようなものを感じさせた。
リノアは言った。
「私も、リュウジさんからの手紙を、いつも楽しみにしていました。リュウジさんに、素直な気持ちを聞いてもらって、私もうれしかった」
そう言ってリノアは顔を赤くした。リノアの長い髪から、白い耳が少し見えた。形のいい、綺麗な耳だった。
リノアは僕の目を、じっと見ていた。リノアに見つめられると不思議な気がした。心を貫くほどに透き通った視線。強い独自の寂しさが溶け込んでいる。暗い目をしていた。
リノアは薄い膜を通したようにぼんやり僕を見つめていた。僕たちは見つめあうだけで、言葉が出てこなかった。だが、言葉にしなくても、互いの気持ちが不思議に通じあった。リノアが今、感じている気持ちが、なんとなく僕にも伝わってくる。
「手紙のやりとりをしていて、なんとなく心が通じあうところがある思っていました」と、僕が言った。
「私も」と、リノアが素直な目で言った。
「手紙で想像した通りの人です。透き通る風みたいな人です」と、僕が言った。
リノアは、顔を赤くした。そして、透き通る目で僕を見つめ、
「何も特徴を言っていないのに、このレストランに入って来て、どうして私のことがわかったのですか?」と言った。
「ひとりで窓際の席にいたこともあるけれど。それより、なんとなく、僕と同じ匂いを感じた。人を寄せ付けないような壁みたいなもの。ざわめきの中で、君のまわりだけが妙に静かだった」
「そんなことがわかるの?」
リノアは、ちょっと驚いた顔で僕に尋ねた。
「なんとなく」
僕は、リノアの目を見つめた。リノアがうつむいた。しばらく沈黙が続いた。
心の底では深く通じあいながらも、僕たちは初対面のぎこちない会話を続けた。それが滑稽で、どこか哀しかった。
リノアは目の前のコップを見つめていたが、目を見上げて僕の顔をじっと見つめた。
「不思議な人ですね、リュウジさんは」と、リノアが言った。
「どんなふうに」と、僕が言った。
「男の人の壁のようなものを感じない」
「男の人をなかなか好きになれないって、手紙で書いていたけれど。僕の印象はどうですか?」
リノアは少し考え込み、それから僕の顔を静かに見つめ、そして言った。
「思った以上におだやかな人、不思議な水のようなものを感じます」
リノアは、やわらかな微笑をたたえて、そう言った。
「私には、その人を取り巻くオーラが感じられるのです。淡い紫色のようなものを、リュウジさんから感じる」
感覚が開いた。不思議な癒しがあった。彼女と話をしていると、おだやかなオレンジ色に包まれたようなあたたかな気持ちになった。僕はリノアの素直な目を見つめ、拘置所にいたころのことを思い出しながら言った。
「本当に僕は、君の手紙にどれだけ励まされ、慰められたことか。いつも冷たい拘置所で、君からの手紙を待っていた。君の手紙を読みながら、富士浅間神社の森を想像し、その近くの音楽ホールで君が歌う姿を思い浮かべた。それだけで、十分に楽しかった」
僕がそう言うと、リノアの表情がやわらかくなった。
「私も、うれしかった。手紙で私の歌を聴きたいと言ってくれて……本当にうれしかった。どうもありがとう」
リノアは、顔をほころばせた。そして、リノアは遠くの景色を見るような眼差しをした。

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