【第03回】2 | マイナビブックス

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星の流れに 風のなかに 宇宙の掌に

【第03回】2

2016.05.18 | 澤慎一

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拘置所を出て、僕はどこにも寄る気になれず、逮捕前に住んでいた東中野のマンションに戻った。自分の意思で電車に乗り、自分の好きな駅で降り、自分の進みたい方向に歩いてゆく。そんなあたりまえのことが、とても新鮮に思えた。これまで、どこへ行く時も腰に縄をかけられ、手錠をかけられ、大男に囲まれ、身体をぎゅうぎゅうに押さえつけられ、いつも行動を監視されていた。
僕は自ら警察に出頭した。逃げる気などまったくない。むしろ、なぜ逮捕されなければならないのか、僕は今でも理解できなかった。
警察は、わざわざ自分から出頭してきた僕に対し、「もう逃げられないのかと思ったのか」と言いがかりをつけてきた。
逮捕されなければならない理由など、どこにもない。逃げなければならない理由もない。
――わたしは建設業界の談合事件を暴いただけだ。組織ぐるみで巨大な犯罪を隠ぺい工作している者たち、大企業の者たちが逮捕されないで、それを告発したわたしがなぜ逮捕されなければならないのか、まるでわからない、談合事件を解明することが先決ではないのか――
僕はそう主張し続けたが、警察はまったく受け入れなかった。
執行猶予で外に出ても、自由になった、という喜びはなかった。ひとりで巨大な組織に立ち向かっていっても、つぶされてゆく、この社会の怖ろしい、目に見えないシステムのあり方をひしひしと感じた。
東中野の駅を降り、山の手通りの横断歩道を渡り、学習塾と金融会社のビルの間にある商店街を歩く。〝ギンザ通り〟とかかれたアーケードをくぐる。多くの人びとが、サラリーマンが、主婦が、学生が、OLが歩いている。
いつも見慣れたこの商店街。ここが、僕が住んでいた世界だったのだ。
拘置所を出て、住み慣れた街に帰ってきても、僕の帰りを待ちわびる人はいなかった。
住んでいる部屋から近くのところに神田川が流れていた。神田川の遊歩道には、桜の樹が川面を覆い尽くすかのような勢いで枝を伸ばしている。春になれば、桜の花びらが薄い雲の広がりのように川面に広がる。まわりの空気までが桜色に染まる。いつも神田川に散りかかる桜の花びらを眺めていた。今も満開に咲いていることだろう。だが、その桜を見に行くだけの気力が、今の僕にはなかった。
商店街から脇道に入る。戸建住宅やマンションを過ぎ、自分が住んでいたマンションに着く。階段で三階まで上がり、ようやく五ヶ月ぶりに自分の部屋に戻った。部屋は、あの時から時間が止まったままだ。開きっぱなしのパソコン、敷きっぱなしの布団、さっと水を流しただけで綺麗に洗われていない食器の重なり。刑事があの時、この家宅捜査にやってきた時から部屋の時間が止まっていた。部屋は死んでいた。失われた時が、これから正常に刻み続けることがあり得るのだろうか。今は、ひどく疲れていた。自分の部屋に戻ると、僕は衣服を着たまま敷きっぱなしの布団に潜った。自分の部屋で、僕は久しぶりにゆっくり眠ることができた。
翌朝、近くの銭湯でゆっくり風呂に入った。体中が悲鳴をあげていた。長く寝転んだ生活をしていたせいか、背中に脂肪の塊ができ、膿んでいた。僕は湯船に浸かり、目を閉じた。

二日間、何もしなかった。部屋で寝転んでいるか、銭湯で湯船につかっているのか、近くのスーパーに買い物に行っているか。だが、いつまでも、こうしてはいられなかった。就職先を見つけなければならなかった。
拘置所から外に出て僕を待っていたのは、目に見えない偏見と差別との戦いだった。

履歴書を送っても、返事はなかった。
僕は正社員を諦め、比較的に採用されやすいアルバイトを探すことにした。新宿のハローワークで広告代理店の営業アシスタントの仕事を見つけた。
仕事の初日だった。昼休みの時間に職場の人が集まり、前は何をしていたのかと聞かれ、逮捕されていた、と答えると、それまで好意的だった女の子たちの顔がこわばってゆくのがわかった。
その日のうちに、その仕事を辞めた。そうして、僕は次の職場を探した。
逮捕されたことを告げると、普通の人は押し黙る。良心的な心を持つ人たちだ。しかし、たいていの人は何をやったんだなどと聞いてくる。同情の目をしながらその奥には好奇の目がひそんでいる。せっかく知り合い、仲が良くなった女の子がいても、僕が本当のことを告げると、黙って立ち去って行った。メールを送ってもエラーで戻ってきた。アドレスを変更されていた。僕は職を転々と変えていった。
僕は誰とも口をきかないことに決めた。余計なことをしゃべらないことにした。また、無口で通せば自分の正体を明かさなくても済む。それでも、世の中には孤立した男に手を差し伸べる親切な女の子がいた。にこやかな笑みをたたえながら僕に接してくれる。僕に前科があることも知らないで。女の子からやさしくされるたびに、僕はとても悲しい気持ちになった。
「どうしてひとりでいるの? なぜ自分のことを話さないの?」
新しい職場で知り合った女の子だった。頬がふっくらとした、愛嬌のある顔の女の子だった。昔、学級委員とかしていた世話好きな女の子なのだろう。社員食堂でひとり昼ごはんを食べている僕に、よどみなく話しかけてくる。僕は彼女を無視し、相手にしないようにした。しかし、彼女は、にこやかな顔で話しかけてきた。
「わたし、小さいころ、ひとりぼっちだったの。うまく人の中に溶け込めなくて。母子家庭だった。いじめられたりもした。でも自分のことを話さなければ、誰も近づいてこないわ」
初対面の僕に、いきなり彼女は心を開いて話しかけてきた。やさしい女の子なのだろう。彼女は信仰を持っていた。彼女は僕に信仰を勧めた。彼女に勧められ、祈りに行った。四谷三丁目で祈りを捧げた帰り、近くの喫茶店で彼女とお茶をしていた。彼女は自分からメールアドレスを教えてくれた。僕はそこで、自分のことを話した。前科があることを告げた。
彼女は変わらない笑顔で微笑んでいた。翌日、職場で会っても彼女は親切そうな笑みを見せてくれた。
その夜、僕は彼女に〈もう一度、祈りに行きたい〉というメールを送った。だが、すぐに返事が来なかった。翌日の朝、彼女からメールが届いた。〈ごめんなさい〉とだけ書かれていた。
〈ありがとう〉というメールを僕は送った。そして、その新しい職場も辞めた。
僕は部屋の窓から外を見た。電線の向こうに、春の夜にひと際輝く星、スピカが見えた。女神アストライアの星。子どものころから、スピカを見ていた。スピカだけは変わらない、美しい輝きを、僕に与えてくれた。どんな絶望した時でも、この星だけは僕に希望を与えてくれた。

まともな収入は得られなかった。カネは、あと二ヵ月分くらいの生活費をまかなえるくらいしかない。それまでに仕事が見つからなければ、静かにひっそり死んでゆけばいい。
あてもなく電車に乗り、歩いていると、そこは新宿だった。夜はまだ浅く、人々の流れは渦のように無造作に入り乱れていた。原色の光と電子音が溶けあい混じりあい、この街独自の匂いが漂っていた。これほど多くの人の流れに巻き込まれながら、誰ひとり知っている顔はなかった。雑踏の中にいると、孤独が僕の両肩を掴んだ。

〈どこにも行く場所がなくなったら、ここにアクセスすればいい〉

拘置所を出ることが決まった時に、源さんがそう言っていたことを、僕は思い出した。
靖国通りを歩いていたらネットカフェの看板がちょうど目に入った。僕は、その店に立ち寄った。
受付で個室を選び、部屋に入ってパソコンを立ち上げる。ブラウザを起動させ、源さんに教えてもらったURLを入力する。すると、いきなりIDとパスワードを要求してきた。教わったIDとパスワードを入力すると、画面が切り替わり、白っぽい靄のようなものがたち込めてきた。それがゆっくり晴れると、黒いバックに赤文字の〝CLUB MISTY〟というロゴがあらわれた。扉の画像に、ENTERと書かれた部分をクリックすると、パーティの開催日時と場所を記した案内のページへと変わった。
ページを下へスクロールしてゆくと、そこには参加申し込みのフォームがあった。僕はそこに〝ヒカル〟と名前を書き込み、プロフィールの欄に簡単な自己紹介文を書いて、《参加》と書かれたボタンを押した。ページが替わって、〝お待ちしております〟と一言だけ、黒い画面にピンク色の文字が浮いていた。

次の週末に、そのパーティを訪れた。そこは赤坂の有名なホテルだった。会場は、最上階に近いスイートルームだった。いったい、ここがどんな集まりなのか、まるで見当もつかなかった。
ドアのチャイムを鳴らす。「はあい」という甲高い女の声が聞こえて、「こんばんは。お名前は」と聞かれた。
ヒカルと申します、
ドアホンに向って言うと、ドアが開けられた。
女と目があった。驚くほどに目が綺麗な女だった。薄っすらとブルーがかっている。清らかな水底をのぞいているみたいに、透き通った目をしている。静かで大きな瞳だった。吸い込まれそうになった。そして、瞳の奥に一瞬、強い視線を感じた。
高価な黒いロングドレスを着ていて、背が高かった。細っそりとした身体つきなのに、とてもグラマラスだった。やわらかそうな黒いドレスが彼女の細い腰にフィットしていて、胸のふくらみが釣鐘のように形よく突き出ている。
黒いドレスは、彼女の色白の肌と似合っていた。ワンピースから、まっすぐな脚がすんなりと伸びていてた。まるで精巧な人形のようだ。
女は長い髪を夜会巻きにしていた。頭の高いところで綺麗にまとめあげられていた。大人びた容姿をしているが、髪を結いあげたせいで、顔が少し幼く見えた。年齢は二十代後半くらいだろう。
こんなに綺麗な女を、今まで見たことがなかった。
女は「いらっしゃいませ」と言って、柔らかな微笑を浮かべながら、僕を奥の部屋にまで案内した。客商売になれているような感じだった。だが、やわらかな雰囲気の中にも殺気立つものが含まれていた。
女に案内された奥の部屋には十二畳くらいの広い和室になっていて、大きなテーブルを囲んで、十数人の男女が和やかに談笑していた。制服を着た可愛い女子高生やアジア系外国人の男、モデル事務所に所属していそうなスタイルのいい女や、業界人っぽい個性的な服装をした男もいる。また、ごく普通のサラリーマンタイプの男もいる。年齢も外見も統一性はない。一見、普通に見える人たちだった。だが、普通の人とは何かがちがった。人を心から信用していない、疎外感を受け続けた者が見せる暗い光が、目の奥に宿っていた。
僕は上座に座らされた。隣にいたレースクイーン風の女が「はじめまして」と、微笑みかけてきた。軽くウエーブのかかった髪が、肩のあたりにまで流れ落ちていて、上品な雰囲気が漂っていた。
「はじめまして。よろしくお願いします」と、僕も返事を返した。
間もなく、先ほどの黒いロングドレスの女がやってきて、レースクイーン風の女と入れ替わりに僕の隣に座った。柔らかな腰の動きが印象に残った。
女は好奇に満ちた眼で僕を見た。口もとに微笑をたたえている。落ち着いたブラウン系の口紅で塗られた唇がゆっくり静かに横に広がった。人を引き込むような強い視線を感じる。目だけではなく、顔立ちも綺麗な女だった。
女は柔らかな口調で、「何を飲まれますか。ウイスキー、ワイン、それともブランデーがいいかしら」と、僕の耳もとで怪しげにささやいた。
「ワインをお願いします」
僕がそう言うと、女は白い腕を伸ばしてテーブルの隅に並べられた大きなワイングラスを細い指でつまんだ。それを僕に手渡し、年代物の赤ワインを注いだ。色っぽい仕草だった。

僕はワインを注ぐ女の横顔を見つめている。僕の視線を感じ、女がふっと微笑む。女はちらりと僕の顔に視線を投げかけ、「あたしもワインをいただこうかしら」と言った。甘いトーンの話し方だった。
僕は彼女のグラスにワインを注ぐ。女はグラスに満たされてゆくワインを、ゆっくり静かな面持ちで見つめている。色っぽい目つきだった。
「優しそうで綺麗な顔立ちね」
女は僕の耳にささやきかけるようにして言った。
僕はほんの少し笑った。
「何をされている方なのですか」と、女が話しかけてきた。
「何もしていません」と、僕は答えた。
女は少し考え込み、
「何もしないでいることもひとつの才能だわ」と言った。
僕はワイングラスをぼんやり見ていた。
「本当にそう思う?」と、僕は言った。
「どこにも属さないでいることは、ひとつの才能よ。どこの会社にいるだとか、どこの学校を出たとか、その中でどんな地位にあって、何番目にいるだとか、この世はそんなことを自慢している男だらけ」
女はワインを一口飲んだ。僕は彼女に興味を持った。僕は彼女の目を見つめながら、
「あなたは誰? 何をしている人?」と訊ねた。
「あたしはミユキ。この〝CLUB MISTY〟のパーティを主催している人」
ミユキは口の端に、美しい笑みをたたえた。
「これは何の会?」
「ここは、疎外されている人たちの集まり」
「疎外されているって……」
僕はミユキの顔を興味深くのぞきこむ。ミユキは、額にかかった長い髪をかきあげた。
「霊視できる人や、優れた芸術的な才能を持つ人、タレントの卵とか、人気の高い風俗嬢やモデル、AV女優もいる。それに元政治家やテロ組織にも通じている人も。前科を持つ人たちも多い。つまり、普通じゃない人たちのことよ」
ミユキは、うっとりとした流し目で微笑んだ。そうして、僕は改めてまわりを見回した。タレントのような綺麗な女の子が、業界人っぽい男と仲よさそうにしゃべりこんでいる。誰を見回しても、確かに普通じゃない独特な雰囲気が漂っていた。
「こうして、みんな楽しそうに笑っているけれど、心の中では闇を抱えている。この間、メンバーの女の子が飛び降り自殺したの。悲しかった。お通夜でみんな泣いた。けれど、死にたくて死んだのだから、よかったねって、あたしたちはそう言って慰めあったの」
それからミユキは恐ろしいほど冷たい目をした。
「あたしたちは必要以上にお互いに入り込まない。その場を、その瞬間、瞬間を精一杯に楽しんでいるだけ」
仲間の死を、さらりとした口調で語るミユキに、乾いた悲しみのようなものを感じた。
僕はミユキに言った。
「僕には前科があります」
ミユキは表情をひとつも変えずに、「そうなの」と言った。
「怖くないのですか?」
「何が」
「僕のことが」
「あなたが? ……怖くないわ」
「どうして?」
「どんな人だって、ふつうの人間よ。どんなに有名なタレントだって、どんなに綺麗なモデルだって、普通に悲しんだり、喜んだりする。誠実なところもあれば、淫らな部分だってある。やさしい部分も、怖いところも。テレビや映画、写真集に映っている『自分ではない自分』を演じている。それはまわりの人たちが期待しているイメージ。誠実で、やさしいイメージ。でも、人間はそんな面だけじゃない。醜い部分があるから、美しい部分が光り輝く。醜い自分を誰にもさらけ出さずに生きてゆくのはとても孤独で、つらいものだわ」
ミユキの瞳に、暗いものが宿っていた。ミユキの翳りのある瞳に、僕は強く引き寄せられた。
ミユキが言った。
「あなたがどんな罪を犯したのかは知らないけれど、それは、あなたと、あたしとの間のことじゃない。だから、あたしには関係のないことよ」
「本当に、そう思う?」
「ええ。素直に生きられたら、どんなに楽かしらね」

ミユキは淡々としていた。
「……誰も、いつまでもおぼえていないわ……いいことも、悪いことも、すぐに忘れ去られてしまう」
ミユキは再びワイングラスに口をつけた。やわらかそうな唇だった。
僕はミユキに特別な親しみを感じ始めていた。
「〝CLUB MISTY〟のことを、もっと教えてくれる?」と、僕は言った。
ミユキは「いいわよ」と言って、タバコに火をつけた。タバコはミントの香りがした。
「ここの会は、有力な宗教法人や組関係、政治組織にもつながっている。上部組織には街の掃除屋もいる。その筋ではプロの人たち。会員は誰も干渉しあわない。こんなふうにホテルのスイートを貸し切ってパーティを開いたりするけれど、裏ではあまり人に言えない仕事もしている。ある時は、外務省や領事館の人たちと接触して外交機密や防衛情報を入手することもある。だから、ここには普段は付き合えないようなS級のモデルや高級店の女の子も多い。女と関係させて、あとで工作員が出てきてその関係をばらすからといって内部情報を仕入れることもある。いろんな企業や団体と協力していて、そこから報酬をもらっている。珍しい薬だって手に入るし、いい女だって抱けるわ」
ミユキはワインを飲み干した。僕は空になったミユキのグラスにワインを注いだ。ミユキが長い髪を崩して、「ありがとう」と言った。薄っすらとブルーに透き通る、うるんだ目が僕に甘えてくる。
ミユキは静かにワインを飲んでいたが、しばらくすると真顔になり、「あなたがアクセスしてきたIDは、VIP待遇なのよ。どうしてそのIDを知っているの?」と、訊ねてきた。
僕は黙っていた。僕は彼女に源さんのことを話していいものかどうか迷っていた。ミユキがやさしい声で、もう一度繰り返した。
「どうして、あのIDを知っているの?」
ミユキは、僕の顔をじっとのぞき込んだ。その瞳に切なさと愁いが含まれていた。その目を見て僕は確信した。
「誰から、あのIDを教えてもらったの?」
再びミユキが聞いてきた。
僕は、源さんの名前を出した。ミユキの表情が一瞬、止まった。
「彼は元気にしているの?」
ミユキは驚いた顔で僕を見つめた。
「今は拘置所に。一緒の部屋にいました。けれど、彼はもうすぐ刑務所に行ってしまう。あなたが源さんの彼女なのですね」
ミユキは大きくうなずき、「あたしに何か伝言を預かっていない?」と言った。
「僕も同じことを聞きました。何もない、と源さんはそう言っていました。泣かれたら困る、と」
源さんは、家族はいらないと言っていた。しかし、そのことは心の奥に押し込めた。
ミユキは少し複雑な表情をした。愛しい人を想う表情だった。ミユキはぼんやり何かを考えていたが、昔を懐かしむような顔で、ぽつり、ぽつりと言った。
「……十八のころだった。家族を嫌って、あたしは家出して、渋谷や新宿をうろついていた。東京に来た時、あたしは四千円しかもっていなかった」
ミユキは遠くを見つめるような目をした。タバコをもみ消し、ワインに口をつけた。
「そのころテレクラが流行っていて、テレクラで知り合った男の部屋を転々としていたわ。ホストの男と知り合って、彼の店に連れて行かれた。いろんな男を紹介してもらって、楽しかった。何回もお店に遊びに行った。そのうち、だんだん高いお金を払わせられるようになった。お金を持っていない、と言うと、風俗で働け、と言われたわ。身体を売ることにはあまり抵抗はなかった。ホストの男に歌舞伎町のヘルスの店に連れて行かれた。そこで店長をしていたのが源さんだったの。彼はあたしを見るなり、君はホステスになった方がいい、と言ってくれて、別のクラブを紹介してくれた。未成年だったこともあって、いろいろ気づかってくれたの。店の人もいい人たちだった。彼はあたしを立派なホステスにしてくれたわ。彼はそれまで一切、あたしに手を出さなかった。彼と付き合い出したのは、あたしが歌舞伎町のナンバーワンと言われるようになってからだった」

ミユキは目を細めた。少し酔いがまわっている。ミユキは僕の腕を掴み、「いらっしゃい」と誘った。ミユキは顔をあげ、晴れやかな表情で「みなさん、そろそろ、こちらへどうぞ」と言いながら、全員を奥の広間へと促した。ふすまを開いた向こうは暗くなっていて、わずかばかりの明かりが部屋の四隅にぼんやりと灯っているだけだった。月明かりの雫がこぼれ落ちたみたいに、白いシーツの海が広がっていた。
そこで僕は初めて理解した。僕の隣にいた男がOL風の女の肩を抱いた。あちらこちらでも、さっきまで仲良く話をしていただけの男女が激しい抱擁を繰り返し、濃厚なキスをしていた。僕はあっけにとられて立ちすくんでいた。その時、不意に腕を掴まれた。さっき隣にいたレースクイーン風の髪の長い女だった。女は目を閉じ、僕の首に抱きついてキスをしてきた。
そのまま深い快楽に誘い込まれた。僕は何も考えずに女を抱いた。女の首筋に唇を這わすと、女は目を閉じ、恍惚の表情をしながら白い吐息を漏らし始めた。そのうち、何人かの女に取り囲まれ、僕は横に寝かされた。気がついたら衣服をすべて脱がされていた。
どこを見渡しても、女のやわらかな白い肌の起伏が視界いっぱいに広がっていた。どこに手を伸ばしても、女のやわらかな肌に触れた。ここにいる女の子たちはみんな気さくだった。僕の目を手で隠し、「誰のキスだかわかる?」と言って、代わる代わるにキスをしてきた。キスを繰り返してゆくうちに、不思議な気持ちになった。
心が開いていた。
ふしだら、という気がしなかった。
人形遊びみたいに、無邪気でやさしかった。
楽園だった。
ただ、癒された。
「初めての人にはこうするの」
入れ替わり立ち代り女たちが、僕にキスをしてきた。彼女たちの洗礼のキスを受けつづけた。いろんな美しい女と唇をかさねた。
「キスの時、目を閉じなければ、うそつきよ」
デビュー当時の浜崎あゆみに似た若い女の子が、びっくりするくらい綺麗な瞳で僕に微笑みかける。
僕は目を閉じた。
「誰のキスか、あててね」
いろんな唇にふれてゆくうち、僕の心は感じとった。彼女たちの、ざらざらの心の刺を。ガラスの荒地のように、彼女たちは傷ついていた。傷ついた誰かを癒すことで、彼女たちは自分たちの傷や苦しみを解放しようとしていた。
そうしたことが、頭ではなく、心で感じられた。
誰もが非日常の空間を求めていた。そこで、自分のバランスを保っていた。
「地獄を見たものでないと、この楽園の味はわからない」
誰かの女が、僕の耳もとでささやいた。
前科があることは、ここでは何の関係がなかった。富も地位も権力も、それらは何の意味をなさなかった。人と人、肌と肌、感性と感性。ただ、それだけだった。
何にもいらない。身体だけあったら、こんなにも楽しい。
僕は、深く目を閉じた。なぜか、涙が出てきた。熱い涙だった。その涙を、誰かの唇が吸い、また違う誰かが吸った。
涙は熱く、こめかみを伝い、耳に入った。
「目を開けてね」
やさしい女の声が耳にふれた。静かに目を開くと、ミユキが僕の目の前に立っていた。ミユキはしやなかな手つきで黒いドレスを脱いだ。白く艶やかな肌が露わになった。ミユキは首を振りながら夜会巻きにした髪をほどいた。美しく長い髪が、ミユキの白い裸体にさらさらと流れ落ちた。形のいい、瑞々しく艶やかな豊満な胸と腰、そしてまっすぐでしなやかな脚。髪をおろしたミユキは、息を呑むほど美しかった。
クリムトが描いたリーベの絵が僕の目の前に広がった。
死と隣りあわせの生の瞬間。恍惚。愛と生と死。その輪廻。
女性の裸体を見て、こんなにも魂を深くえぐられたのは初めてだった――。

かげろうのような薄明かりの中で、ミユキの身体がぼんやり白く浮かび上がり、ミユキの身体の動きにあわせて部屋の淡い光が彼女の柔肌をゆっくり移ろった。つんと上を向いた豊かな胸や縦長の美しいへそや繊細なウエストや下腹部のやさしい曲線や薄く茂った茂みや、すんなりと伸びた脚が月夜の川原の小石のように不思議に光っていた。陰影に富む身体つきをしたミユキの身体が、静かに僕を見下ろしていた。この上もなく、神々しく、そして綺麗だった。
美しい切れ長の眼。筋の通った鼻りょうも美しい。ミユキの表情は繊細で優しさを含んでいた。ミユキは僕の唇に軽く触れ、やがて濃厚で濃密なキスへと移り変わっていった。僕たちはまったく無防備な心で抱きあった。
僕はミユキの形のいい豊かな胸に埋もれ、ピンク色の薔薇のつぼみをやさしく舌でころがして含んだ。
ミユキの肌はきめ細かくて、僕の身体にぴったりと吸いついた。豹のような、しなやかな身体つき。僕はミユキの白い肌の隅々まで、優しく丁寧に愛撫した。唇で軽くふれただけで、ミユキは艶やかな髪を乱してのけぞり、快楽のうねりがミユキをのみこんだ。
ねっとりとした植物のように絡みあった。視界いっぱいに、ミユキの白い身体が広がる。官能的な表情。その美しさ。
ミユキの白い肌が、ぎりぎりのところで、僕の生をささえた。

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