【第2回】一章 旅立ち前日(2) | マイナビブックス

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昔の話に途中下車でも (上)

【第2回】一章 旅立ち前日(2)

2016.03.18 | 松井久尚

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「りっくんは、何歳になったのかしら?」
足を擦るように半歩ずつゆっくりと居間へ向かう祖父を支えながら、祖母が満面の笑みで下から見上げてきた。
「二十五だよ。この前ついになったと喜んだ二十歳より、別の人間だと思っていた三十歳の方が近いなんて、なんか悲しくなるよ」
俺も祖父の背中にそっと手を置き、三人で半歩ずつ、すり足を重ねながら小さな居間に向かう。
「ええことじゃが。歳を重ねるゆうのは、それだけ多くの人の気持ちがわかってくる、ゆうことじゃ。多くの人は、結局それを忘れて、今の自分のことだけしか考えおらんようになるんじゃけどな。りっくんはええ子やから、それを忘れたらいかんよ。歳を取ることは、心が分かる人が増える、ゆうことよ。……まあ、おばあちゃんはあと五年は、八十歳で通そう思っとるけどな」
祖母の優しいしわが、ほんわかとした笑顔を生み出した。祖母は、居間に到着すると祖父お気に入りの大きな椅子を小走りでセットした。小さな時から俺たち三兄弟が「じいちゃん椅子」と呼んでいた緑のリクライニングチェア。勝手に座ると怒られたからだ。
「ほいで、りっくんはお嫁さんはまだかいの?」
祖父がゆっくり座るのを待ちながら、祖母は少し垂れた目をまっすぐ向けてつぶやいた。弟の海斗もニヤリと顔を上げたのが横目に映る。祖母と弟でも、いたずらな笑顔がどこか似ていたことに少し驚いた。
どう答えるのが一番喜んでもらえるのか。俺の頭はここぞとばかりに動きだした。
「おい、おめえの会社は、あれは作っとらんのか」
すると突然、祖父がテレビを指差しながら会話に入ってきた。耳が遠くなったせいか、自分のペースでのみ会話をすると、ここへ来る前の実家でお袋が少し寂しそうに話していたのを思い出した。
「え? ああ、テレビはもう作ってないよ」
俺は祖母に目配せをした。「祖父の話を優先させるよ」という俺の合図。にっこりと笑い返す祖母と、あっさりと携帯へ視線を戻した海斗。
「そうか。もうやっとらんのか……。そうじゃ、おめえとこの株。ありゃ、いけんわ」
博学な祖父は長年株もやっている。会う度に政治か株の話しかしないと、祖父の息子である親父は少し嬉しそうに困ったふりをしていた。

「今日はいくらまで下がるか」という話題が必ず職場の老兵たちの間で起こるほど、うちの株価は暴落し続けていた。さすが祖父。九十歳になっても、新聞は二種類を読んでいると親父から聞いていた。
「本当だよね。入ったばかりなのにまいっちゃうよ」
「首切りもやるんじゃろ?」
新聞では早期退職者を八千人ほど募集すると書いてあった。会社としての正式発表ではなく、あくまで新聞の計算である。しかし、最下層の社員である俺には、抽象的な価値観を語るだけの上より、新聞の情報の方にはるかな信頼があった。
「あるかもしれないけど、まだ俺は大丈夫だよ。新聞には四十歳以上って書いてあったし」
俺の返事に、「そりゃひとまず安心じゃな」と祖父は淡々と続ける。
「六十年前はな、おめえの会社はあれで一番じゃったんじゃ」
祖父が再び指を指した先を見て、俺は思わず首をかしげた。「まあ、ええから座りなされ」と祖母に促され、祖父母と海斗と俺の四人が、居間の小さなテーブルを囲んで座った。
「テレビ? うちがテレビで一番だったの?」
自分が勤める会社とはいっても、連結で従業員は十万人を超える典型的な日本の大手家電メーカーだ。隣の事業部どころか、隣の島が何をやっているのかすら何も分からない。自分たちの仕事以外は「本当に必要なのかよ?」と非難し合う文化に、一年もいれば好奇心もなくなっていた。
一時期は就職人気ランキングで一位を取っていたらしいが、俺が就職活動をした時は、同業他社の中でも三番か四番手が正直な順位だった。今ではテレビは作らず、集中と選択という経営戦略の下、事業の数を絞り続けている。
「そうじゃ。あの頃おめえとこの株は、三千円台じゃった」
祖父の少し怒ったような顔に、俺は思わず「嘘でしょ?」と反応した。
今のうちの株では、ペットボトルどころか缶ジュースすら買えるかどうか、一日ごとにわからなくなる。
「えらい大損じゃが……」
祖父はげっそりした体を椅子にもたれさせ、本当に怒っているかのように窓の外に視線を移してぼやいた。
「あれ? おじいちゃん、うちの株なんて持っていたの?」
俺の食いつきとは真逆に、海斗は退屈そうにそのテレビをつけた。テレビのブランドは、俺の会社の物ではなく、俺の実家と同じ韓国産だった。
「そうじゃ。りっくんが入社した日に、おじいさん、更に買い増したんよ。初めてじゃった。おじいさんが何も計算せず、ただ電話一本で二千株も買ったんじゃ」
祖母が愉快そうに俺と祖父の顔を交互に確認する。祖母は株のことは何も知らないが、祖父が証券会社から送られてくる資料を読んでいる姿を、いつも隣でただ眺めるのが好きらしい。
「そいでな、りっくんが入社してから、大変なことになったじゃろ」
祖母は声を小さくして、笑顔で俺に話しかける。
事実、俺の会社は俺が入社してから一気に業績が悪くなった。資産がたんまりある大企業のためしばらく倒産はないと思われるが、それでも真水の利益は減り続ける。時間の問題だと、どこかの経済学者の理論には当てはめられていた。
二十年前なら、自分の会社での生き方を考えるのが一番の近道だった。しかし、今から二十年後にはどこの会社に買収されるかで、あと数年で引退する老兵は毎日盛り上がっている。職場で二十代も独身も俺だけ。周りは四十代と五十代しかいなく、年齢も役職も人数すらも、全て上が勝ち、上だけが「正しい」。日本の大企業はまさに日本社会の縮図だった。
祖母は雰囲気を持たせるためか、声のボリュームをあえて下げた。昔から変わらない祖母の話し方や笑い方は俺の頭に刻み込まれている。声を少し小さくするだけで、祖父には本当に聞こえなくなったようだ。
「りっくんが入社した後にな、証券マンさんが電話で何度も説得しよるんよ。りっくんの会社の株は紙切れになるから早く売れって」
祖母の楽しそうな顔とは真逆に、祖父はぼんやりと椅子に座って遠くを見つめている。話は本当に聞こえていなさそうで、別に話に入るのもきまぐれでよさそうに映った。
祖父は本当に変わってしまったようだ。中高の頃は遊びに来るたび、これからの日本について延々と語った。息子である親父さえも「もういい」と怒ったほど説教好きの祖父。そんな祖父が、もう興味がある物は残りわずかのように、ただどこにも力を入れずに外を眺めている。
「そいだらな、おじいさん、その証券マンさんを叱り飛ばしたのじゃ。『わしの孫がおるのじゃ、回復するに決まっとるじゃろ』とな。おじいさんがあんなに怒ったのは、先生をやっていた頃じゃから四十年ぶりじゃが」
俺は思わず祖父の方を振り向いた。祖父は俺たちの会話にも注意を払わず、「大損じゃ」とつぶやき続けていた。
「……ありがとう」
「ごめんね」と言おうとしたが、俺の口からは感謝の気持ちが勝手に言葉となった。話の流れを気にしていない祖父は、突然の感謝にも深くは反応しなかった。その変わりとして、俺は祖母を振り返った。九十年積み重ねてきた祖母の笑顔に少しでも近づけるように、二十五年を詰め込んで全力でほほ笑んだ。

この人生でやりたいことは何か。
最も多くの時間を費やしてきたがそれでも最も困難だったこの問いに、ようやく答えをつかみかけた気がしていた。
二十五歳で見つけた人生の目的。
スポーツ選手になるには遅すぎるが、満足できる人生にはまだ間に合うはずだ。
俺はゴールへとつながる一歩へ、明日、旅立つことになる。

「ほれ、カステラをおあがりなさい」
祖母に勧められ俺はカステラを手に取り、ふと居間を囲む本棚に目をやった。
二千冊を超える本があり、書斎ではスペースが足らず居間にまで並べてある。小さな時から祖父母の家の記憶はとにかく「本」だった。なんとか二百冊は読んだだろう俺が知る中で、どの偉人にも負けない、先生一筋で真っ直ぐ生きてきた自慢の祖父だった。

「……わしは、腹切りをしたのじゃ」
再びポツリと祖父が話を始めた。
首切りに腹切り。人の時とは、ある日突然切られるように流れを変えるのかもしれない。
今回の手術はいつもの入院とはわけが違う。二か月前に親父からそう電話で説得されたが、それでも俺は帰ってこなかった。二年目で海外現地法人に行けるチャンスをもらい、俺はこの道で生きていくと決めた。ここで勝てなかったら、俺の人生はない。突然の人生の岐路に、甲子園に行くことに命をかけていた感覚が蘇えるほど興奮をしていた。
「ほれ、ここを切ったのじゃ」
祖父が細い指で寝間着をごそごそと動かし始めた。手術の痕を見せたいのだろう。
俺は二か月前に帰らなかった罪悪感と、何より明日から旅立ってしまうという一種の覚悟を合わせながら、祖父の手術跡と正面から対峙した。
予想していたよりも綺麗な肌に、予想よりも大きな痕が、痛々しく刻み込まれていた。この手術跡は祖父の歴史の一つとして、肉体のなくなる最後までそこにあり続けるのだろう。
真っ直ぐ人のために生きてきた祖父に、斜めに長々と刻まれた一本の手術跡。
面影がそっくりだと言われる祖父の歴史から、俺は目を離さなかった。

一時間ほど、ゆっくりと時間が流れる祖父母の家で、祖父は何度も手術の話を繰り返した。その手術跡の横で、祖母は何度もカステラを勧め続けた。弟の海斗はカステラに飽きると、俺が祖父母へお土産に買ってきたクッキーに手をつけ始めた。

人と人とが同じ時を共にする。それは、異なる人生が一時的に重なり合い、また異なる人生へと分かれていく中での儚い一部分でしかない。
重なり方が、クラスメートなのか、恋人なのか、家族なのかによって、共に歩む時間は、三か月にも、三年にも、三十年にもなりうる。
しかし、あらゆる機会には寿命がある。こうして血のつながりに導かれ同じ時を重ねている俺たちも、決して遠くない将来、それぞれの道へと分かれ、それぞれの終点へと行き着く。
俺は明日、自らの足で新しい道へと歩んでいく。はるか前を切り開いていった祖父母。常に前を守り続けてくれた両親。数歩だけ後をついてきた兄弟。その誰とも異なる道に、一歩踏み出すのだ。
海斗には俺の出発は口止めしてある。祖父母へは、「ただいま」を残しに帰ってきたのだから。

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