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昔の話に途中下車でも (上)

【第1回】一章 旅立ち前日(1)

2016.03.11 | 松井久尚

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一章 旅立ち前日

 旅立ち前日。六月の太陽もようやく明日を意識し始める午後の四時、俺は祖父母の家に到着した。岡山にある実家からさらに在来線で一時間半。未だに改札には駅員が立つ最寄駅から畦道を二十分ほど歩いた。
 心の色が世界の色を決める。
 子供の頃も年に一度ほどしか訪れていなかった祖父母の家。三年ぶりとなる今回は、街の景色はどこか落ちつきのない灰色で包まれていた。
「おじいちゃん、入院した時はお見舞いに行けなくてごめんよ。体調は大丈夫?」
 俺は到着早々バッグを玄関に残し、お座敷で寝ている祖父の隣にあぐらをかいて座った。 まず初めに謝る。そこから特別な今日を始めようと電車の中で考えてきた。
 今夜には岡山の実家に帰り、明日の夜に俺は旅立つ。
 一緒に来たのは弟の海斗(かいと)。海斗は俺たち二人を嬉しそうに出迎えた祖母に、俺が駅で買ったお土産をまるで自分からのように渡している。
「……おう、来たんか。大丈夫じゃけえ。わしの心配より、お前のとこの会社は大丈夫か?」
 ベッドに横たわりながら、補聴器をつけている左耳を俺に向けた祖父。相変わらずの祖父のなまりと観点の違う質問が、始まったばかりの今日を懐かしい色に変えた。
「大丈夫。新聞で言われているほどひどくはないよ。さすが、確認してくれているんだね」
 俺は微笑みながら、布団から顔だけ出して横たわる祖父に答えた。
「ほれ、りっくん。早くこっちへ来なされよ」
 祖母の変わらない高い声が、居間から俺を呼んだ。
 
 俺の名前は西山陸(にしやまりく)。二十五歳になった社会人二年目の俺だが、祖母にとっては、未だに俺は「りっくん」、高校生の海斗は「かっくん」、真ん中の妹である理奈は「なっちゃん」である。
 もう変わらないだろうし、変える必要もない。中学生の時のように無視することもなく、俺は「あいよ、おばあちゃん」と明るい声で返事を返した。
 
 祖父が心配するように、俺の会社は今期大幅な赤字を出し、新聞では競合に吸収合併されるとまで言われている。事実、社内でも経営層は隠すことなく「最大の危機」と社員を煽り続ける。年老いた社員たちは、倒産したらどこに転職するかという冗談で飽きもせず毎日盛り上がり続けている。
 そんな経営状態の中、俺は明後日からインドの子会社へ、おそらく五年ほどの出向へ旅立つ。
 この国の、この会社で、この仕事をしていてよいのか。そう悩んでいた矢先に、人生の舞台が突如一変した。
 
「おめえ、ようけ飯食べとるのか? 細いのう」
 二十五年間細い俺が、言葉を失ったほど細くなっていた祖父に心配された。
「ええか。ようけ食べて、運動せな、いくら優秀じゃとも使(つこ)うてもらえなくなるぞ」
 今年で九十歳になる祖父。二か月前に倒れ、先週まで入院していた自分自身はさておき、相変わらず俺の顔を見ると鋭く説いてくれる。
 入退院の間隔は三年前から徐々に短くなっていたらしい。「自分のこれから」で頭がいっぱいだった俺に、お袋は「出発前に今までの感謝をこめて、おじいちゃんにきちんと挨拶してきなさい」と、歯を食いしばってゆっくりと言葉を絞り出した。
 体の内側から焦りに突き飛ばされるように、俺は海斗を引き連れて飛んできた。私服はインドに送ってしまったため、実家に置いたままの服ではベストな、バーバリーのジーンズとアローズのシャツを着た。一瞬迷ったが、初めてのボーナスで買ったポール・スミスの腕時計も一応はめてきた。
 自分の頭と体だけでもう飯が食えていることを、祖父母なりに感じ取って欲しかった。
 
「ほれ、早くおいで。ほんならおじいさんも一緒にこっちへ来たらええが」
 俺に会いたくてしびれを切らした祖母が、祖父の杖を持ってお座敷まで来た。
「りっくんの大好きなカステラ、買(こ)うてるから。たくさんおあがりなさいよ」
 小学校の頃から、祖母は俺の大好物をカステラだと思い込んでいる。別に嫌いではないが、特別好きなわけでもない。俺の記憶にはないが、小学生の時にこの家へ来た際、夢中でカステラを食べていた俺の姿を見てから、祖母の中では俺はカステラが好きでたまらない男の子になった。
 学生時代は一か月に一回、「カステラあるからおいで」と俺の携帯に電話がかかってきた。頻度こそ下がったものの、社会人になった今でもお誘いの電話は常にカステラ付きだ。
「おい兄貴、これうまいぜ」
 祖父母の家に行くだけなのに、「友達に駅で会うかも」と髪型に三十分も時間をかけた弟の海斗は高校三年生だ。左手で携帯をいじりながら、右手で黙々とカステラを食べている。
 漫画さえも絵しか見ないほど勉強が大嫌いな海斗だが、小学校から続けてきた空手は、二年生ながら昨年のインターハイでベスト八に入った。この夏は空手部の主将として、個人戦と団体戦の両方で全国制覇を狙う。それと、受験はせずに推薦で大学に入ることが、今年の二大目標だとここへ来る途中に熱く語っていた。
 祖父母の居間には一年中、掘り炬燵がある。六月の蒸し暑い今は、布団のないこたつがテーブルとなり、海斗はのっしりとあぐらをかいて座っていた。身長は俺と変わらない百七十三センチほどだが、体の厚みは二倍あると言っても過言ではない。歳が少し離れているせいもあったが、性格も動作も自分とは全く異なるこいつを見るのも、帰省する際の密かな楽しみの一つだった。
 
「おめえは優秀じゃけえ、期待されよるじゃろ」
 生涯教師を貫いた極めて博学な祖父が、俺みたいな若造にいつも期待してくれた。この一年間、同期とは口を開けば仕事の愚痴をこぼし続けてきた。そのせいで祖父の質問には若干の違和感を覚えたが、すぐに違和感の正体はわかった。前回会ったのは、まだ就職活動すら始める前だったのだ。
 三年間。一か月という短い間隔でも、俺の生活や考え方は変化し続けてきた。それが三年間。それほど長い期間、おそらく考え方は変わっていなくても、少なくない変化が祖父母にも流れていたことを俺は痛感した。
 俺は祖父に「まあね」と胸を張るポーズをとった。嘘でもいいから仕事は問題ないと、安心させたい理由があった。
「ほれ、おじいさん。早くこっちへ来なされ」
 祖母が急かすように、ゆっくりと起き上がる祖父に杖を渡し、隣の居間へ来るように促す。
「え、おじいちゃん起き上がっても大丈夫なの?」
「大丈夫じゃが。お医者様がな、もう家で安静にしておれば、病院に戻ることもないと言うとったんや」
 嬉しそうに答えた祖母の隣で、祖父は顔をしかめながらなんとか布団から起き上がろうとしていた。俺はその姿を、焦る気持ちで必死に目に焼き付けた。
 
 祖父母には、明日からインドに行く話はしていないし、するつもりもない。当然これは仕事であり、俺の人生だ。両親でさえ事後報告だったし、たとえ反対なり説得をされたところで、あっさり「海外には行きたくない」などと会社に言ってしまうようなら、俺でさえ今の若者を嘆きたくなる。
 それでも今回は、出発前の「行ってきます」ではなく、あくまで「ただいま」を伝えに戻って来た。三年ぶりに「おばあちゃんの家」の香りが漂ってきた在来線からの変わらぬ風景を眺めながら、俺は必死にそう自分自身に言い聞かせてきた。
 そうでもしないと、体中に渦巻く「別れ」という言葉によって、胸が懐かしさよりも焦りで溺れてしまいそうだった。

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