三
「パパもっとつよくおしてー!」
「言ったな? ようし、これでどうだ!」
「調子に乗ってハルちゃんに怪我なんてさせたら怒るからね眞人?」
家から歩いて二十分とかからない、河川横の人気のない小さな公園に俺たち家族はピクニックにきていた。四月も中頃になり桜も散りつつあったが、ひんやりとしたこの公園の空気、木漏れ陽は穏やかな春をいまだに残してある。アスレチックのような凝った遊び場はなく昔ながらのブランコと滑り台、ジャングルジムの三点拍子しか揃っていないけれど、ハル――俺と芳奈が名付けた心臓の鼓動がしない少女は、十分に満足しているようだった。
ハルを家族に迎えるにあたって、その翌日から用事が山のようにできてしまった。家庭裁判所に行き養子縁組の登録をするだけでも一苦労してしまった。当たり前だ、まさか養子縁組という名前は聞いたことはあったが、よもや自分がその制度を活用するなんて思いもしていなかったのだから。まず制度を勉強するところから俺たちの試練は始まった。仕事の合間を縫っては必要な書類を確認したり、顔色が悪くなって同僚から心配されたりもしたが、ハルのことを思い出しては顔色が急激に良くなったりして、同僚や上司から「ついに壊れたか」と心配される羽目になっていたのだ。
それもこれも、ハルの無邪気にちょうちょを追いかけまわっている様子や、写真を撮るたびにとびっきりの笑顔を見せてくれる可愛らしさのためだと思えば、さほど苦にはならなかった。もっとも、記憶喪失の件や心臓の件は全くもって解決していない(特に心臓の件については医療機関に調べまくられるのを忌避して避けているだけなのだが)。
俺は遊び疲れてシートを敷いてある木陰に腰を下ろした。
「お疲れさまだね、眞人お父さんは」
昼ごはんの準備を広げていた芳奈が微笑みながらいった。
「子供ってどうしてあんなに無尽蔵のエネルギーを持ってるんだろうな。ヤベ、俺ももうそんな歳かな」
ふふっ、と芳奈が微笑む。
「ハルちゃんが大人になって子供ができたら、今度は眞人おじいちゃんだね」
「俺が、おじいちゃん……だめだ、想像できないし、したくねえよ。あとハルは誰にも渡さないつもりだ」
「その台詞、お父さんも昔そっくりそのままいってたわ。懐かしいなあ。でも、そんなこというお父さんなんて嫌い! っていったら、急に謝り倒されたの」
「娘に嫌いっていわれて平気な父親なんてこの世には居ないからな」
芳奈の父親に同情し頷いていると、声を出して笑われてしまった。女性にはこの気持ちはわからないのだろうか。
「パパー、ママー、これパパとママのためにつくったの!」
大声で叫びながらハルは両手でなにかを携えてトテトテと駆け寄ってきた。川に誤って落ちたりしないか視界には入れていたが、花畑でしゃがんでいたのでアリでも見ていたのかなと思っていたが、どうやら違ったようだ。ハルが持ってきたのは二つの、花でできた輪っかだった。
「これをママとパパにくれるの?」
「うん!」
早速輪っかを頭に乗せてみる。テレビでもみて作り方を覚えたのだろうか。しかし、子供の力ではきちんと結べなかったようで、壊れないように慎重に持ち上げた。それにしても娘からのプレゼントがこんなに嬉しいものだとは思ってもみなかった。自然に口が綻ぶのがわかる。芳奈も「えへへ、もらっちゃった」と、口が綻ぶどころではない、とてもニヤついていた。
「そして、最後にこう!」
ハルは後ろ手に隠し持っていた三つ目の花の輪っかを取り出すと、自分の頭にかぶせた。
「えへへー、これでみんないっしょだね」
晴れやかな笑顔が俺にはとても眩しく見えた。途端に俺はハルを強く抱き寄せる。ハルは疑問符を頭の上に並べているようだった。心のなかで嫌な想像でもしてしまったのだろうか、ハルをどこにも連れていかせやしない、離したくないと瞬間的に強く思ってしまったのだ。胸のなかでちょこんと細く小さな腕が頬に伸びる。
「パパ、だいじょうぶ?」
見上げた上目遣いのハルの目はつぶらで、とても大きい。初めてハルと出会った日も、こんな風にハルは頬に手を伸ばした。あのとき出会えてなかったら今の生活はありえない、そう考えるだけで一種の恐怖すら感じた。ハルはもう家族なんだ、離れることなんてない。心配そうな表情を浮かべるハルの頭に手を置き、そっと撫でる。心配そうだった顔は撫でられるたびに目を細め、五分も経たぬうちに眠りについたようだ。
「ハルちゃん疲れちゃったのかな、いっぱい遊んだもんね」
「ああ、ご飯もまだ食べてないのにな」
「でもさ、心臓が動いてないってことは疲れもあんまり感じてないってわけじゃないのか」
「よくはわかんない。そこはハルにしかわかんないからな」
「それとも、安心して寝ちゃったのかな」
「それならパパはとっても嬉しいよ。今度ショッピングモールにでも連れていって、なにか買ってあげようかな」
「甘やかし過ぎはだめだからね、娘のことになると親バカなんだから眞人は」
「き、肝に銘じておきます」
苦笑いをして頭を掻く。芳奈がジッと見てくるが、こればかりは自他共に認めよう。
一時間ほどのんびりと会話をしたりして過ごし、ハルが目覚めるのを待って昼食をとった。寝起きでおぼつかない手つきに思わず笑みが溢れた。
「ねえねえパパ」
ミートボールを慣れない箸でつついていたハルが嬉々とした声色で尋ねる。
「どうかしたのかハル」
「あのね、あのね。らいしゅうね、ゆうえんちにいきたい!」
そうか、遊園地か。確かに遊園地や動物園は子供は大好きだもんな。いまのところ予定も特に詰まっていない。
「うん、そしたら来週は遊園地に行こー!」
「いこー!」
手を上に突き上げると、ハルも揃って手を元気よく突き上げた。だが箸を持っていることを忘れていたのか、その拍子に箸の先に刺さっていたミートボールが落下し、ちょうどハルのお茶の入ったコップのなかに着水した。これには芳奈も笑いを堪えきれず、家族団欒の時間を平和に過ごした。
このとき、家に一通の留守番電話が着信していたことなど知る由もない。