【第2回】二
2016.05.25 | 鯛島慶太
二
帰宅して玄関のドアを開けてもらうと、俺の妻である芳奈は背中越しに寝てしまった少女の顔を見るなり、軽蔑の眼差しで俺を一瞥すると、まだ中に入っていないにも関わらず、静かにドアを閉めた。キーチェーンの音までする。ファースト・コンタクトは失敗したようだ。
すかさず少女をおぶりながら携帯を取り出し芳奈に電話をかける。着信拒否されていた。
予想はしていたがここまでされるとは思っていなかった。五分ほど玄関の前で途方に暮れているとキーチェーンが外される音が聞こえ、芳奈は「風邪ひかれても困るし、ご近所さんに誤解されても嫌だから」としぶしぶといった表情で俺たちを中に入れてくれた。
一LDKのアパートの二階に家はあり、芳奈はテキパキと布団を一つ敷いてくれた。
「芳奈、これには事情があるんだ」
「同窓会に行ったと思ったら、子供を連れて帰ってきた事情とやらはあとで聞きますから、先にその子を寝かしましょ。ごめんね、寒いのに放り出しちゃって。先にこの子だけでも入れてあげるべきだったわ」
芳奈は布団に寝かした少女の頭を撫でると、なんだか険しい顔をしてしまった。頭を撫でる手の動きが止まる。その手は頭から首筋に移り、脈を測っているようだった。この子の抱える秘密を、彼女にはまだ伝えていない。途端に芳奈は、青ざめたように驚嘆した。
「眞人、この子脈がないよ! 早く救急車を呼ばないと!」
「待つんだ、聞いてくれ。この子は」
「待ってられないわよ馬鹿!」
芳奈が携帯を取りだす手を俺は強く制止した。芳奈は、信じられないと言いたそうな目で訴えてくる。
「この子の顔を、もう一度よく見るんだ」
疑心暗鬼の眼差しで俺を数秒見つめたあと、芳奈は早足で少女のもとに駆け寄り、顔を凝視した。「そんな、でも」と芳奈が呟く。俺も芳奈も、少女には脈がないのに寝息を立てていることに気付いてしまったのだ。驚きのあまり芳奈は口を両手で隠した。おそるおそる座ったままこちらを振り返る芳奈に頷くと、彼女はもう一度少女の方を見返した。
「いまから話すことは嘘なんかじゃない。それをわかった上で聞いてほしい」
芳奈の左側に腰を下ろし、二人で少女の寝顔を覗いたまま、今日あったことをありのまま話した。話を聞き終わった芳奈は壁に掛けかけたカレンダーを見つめ、今日がまだエイプリルフールではないことを確認したようだ。
「心臓の鼓動がしなくて、記憶喪失で、この子はいったいなんなの」
状況を把握しきれていない様子の芳奈には悪かったが、俺自身もはっきりとはよくわかっていなかった。俺は首を横に振り、わからないことを伝えた。
会話が途絶え、無言の時間が続く。壁がけ時計の秒針の音だけが部屋に響いていた。芳奈が微かに震える口を開く。
「眞人は、この子のことどうしたい?」
不安げな目で横目に投げかける視線に、正直どうしたいのか、どうしていいのか悩んでいた。警察に連絡して親御さんを捜すのがもっともなのは理解していたが、心臓が動いていないけど生きている人間なんて、普通はこの世に存在するはずがない。門前払いされるか、変な研究者に連れていかれそうで、そんなことはできるはずがなかった。芳奈もそれがわかっているはずで、この子の対処に正しい道なんてあるのかわからないのだろう。わからないからこそ、俺に決断を委ねてきたんだ。
この子とこの家で一緒に暮らすのかどうかを。一緒に暮らすという選択肢しか、俺には思い浮かばなかった。
「この子を見ているとね」
芳奈を見ると、彼女は少女の艶やかな髪の毛を手に乗せ、重力で自然に手のひらから離れる様子を、なにか思い出している、あるいは想像しているような神妙な顔つきで見ていた。芳奈が言葉を続ける。
「なんだか想像しちゃうの。あの子が生まれていたらー、なんてね」
「俺も同じことを思ってた。この子はきっと、俺たちの前に舞い降りた天使だって」
「天使、ね……」
翼がこの子にはないこと以外当てはまっていたので、言い得て妙だと、自分で思った。
そう、この少女は天使そのものだ。巡り合えたことが奇跡、まるで赤ちゃんを授かったことのように嬉しく感じる。あの日消えてしまった、あの子の魂はきっと。
少女の寝顔はこんなにも今は愛おしく感じる。右手に芳奈の左手がそっと手を握ってきた。彼女もその結論に至ったのだろう。俺は強く握り返すと、寝ているこの少女にも聞こえていてほしいなと思いつつ宣言した。
「この子と一緒に暮らそう」