【第2回】枯れた芝生の上で | マイナビブックス

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ゴルフプラネット 第32巻

【第2回】枯れた芝生の上で

2016.03.09 | 篠原嗣典

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枯れた芝生の上で

 

「あっ、お客さん、そっちじゃないですよ」

 

 キャディーの声に振り返って、大丈夫、分かっているから、と笑顔で言った。

 

 パターを手に練習グリーンに向かおうとしていた。スタートまでは、まだ1時間あった。それでも私のバッグはカートに積まれていたし、担当するキャディーも既にスタンバイしていた。

 

 相変わらず良いサービスをしているなぁ、と思った。

 

 昔からこのコースのキャディーマスターやキャディーたちは動きが素早く無駄がない。私を担当するらしいキャディーの前には、私のバッグだけが乗ったカートがあった。つまり、他の3人のバッグはまだ到着していない、本人たちもたぶん未着であろう。

 

 スタートはインコースだったが、私はアウトコースの練習グリーンに向かった。

 

 オーナーが何回か替わっても、従業員の心意気に変化がないというのはホッとする嬉しいことだ。オーナーが替わってしばらくしてコースに行くと喜怒哀楽を感じさせられることがたびたびある。純情可憐な少女のようなコースが娼婦のような軽薄なコースになってしまうのは哀しいし、年増のばあさんに厚化粧のままセーラー服を着せたようなコースになったのをみるのは悲しさを通り越して笑える。

 

 アウトコースの練習グリーンに着くとガッカリした。まず、グリーンにカップが切られていなかった。スタンドピンと言われるグリーンに刺されたピンへ向かって練習するのは気持ちが萎える。それだけではなかった。グリーンの奥にあるはずのものがなかったのだ……

 

 約20年振りに来たのだから当たり前かもしれない。そう思って諦めながら、グリーンの上にボールを一つ転がした。

 

 昔、グリーンの奥の高台には小さな小屋があった。その先は右ドッグの1番ホールがあった。右側は谷でOB。谷の上に大きなプラタナスが一列に並んでいた。

 

 その小屋は食堂だった。食堂といっても、クラブハウス内には立派なものがあったので売店に毛が生えた程度のささやかなものだった。噂では、コースの土地を貸している地主が趣味でやっているのだと言われていたが、定かではない。

 

 中にはいると、1番ホールを見下ろすように木枠の大きな窓があり、テーブルが2つとカウンターでそばやうどんを食べさせた。背の小さなおばあちゃんが一人でやっていて、現金で清算する仕組みだったが、特にそばが旨いということで、朝ご飯を我慢してスタート前にその小屋でそばを食べる通なゴルファーは少なくなかった。

 

 私は早朝から練習グリーンで練習していることが多かったので、見かけた人から誘われて、よくその小屋に行った。誘った人からそばをよく奢ってもらったが、いつの間にか小屋のおばあちゃんと顔馴染みになり、メニューにはない味噌汁をただで1杯飲ましてもらうようになった。

 

 私はお味噌汁があまり好きではないのだが、そのお味噌汁だけは特別だった。特に冬の寒い朝、練習グリーンで練習した冷え切った私に小屋の裏から、おいでおいでするおばあちゃんの笑顔はそれだけで温かい気持ちにさせた。

 

 そういうときの小屋には客はまだおらず、私一人だった。おばあちゃんは黙ってお味噌汁と割り箸を私の前に置く。味噌汁はたっぷりのわかめと豆腐が具で、一口飲むと煮干しのダシの香りがした。

 

 私の祖母が作る味噌汁も煮干しでダシを取ったもので、いつもそのままダシを取った煮干しが入っているものだった。煮干しはそういうものだと思っていた。煮干しでダシを取った後は煮干しは取り除くものだと知ったのは、かなり大きくなってからで恥ずかしかったことを覚えている。

 

 小屋での味噌汁も必ず煮干しのダシを取ったものだった。無意識に、煮干しが入っていないかを確認しながら飲んだものだ。

 

 カウンターから振り返ると、大きな窓から1番ホールがよく見えた。葉を落としたプラタナスが朝日を浴びて、フェアウェイに縞々の影を作っていた。

 

「教会みたいだ……」

 

 十字架に見えるものがあったわけではないが、葉がない大きなプラタナス並木と縞々の影のフェアウェイを見て、そう思った。

 

「あんた、隠れキリシタンかい?」とおばあちゃんは聞いた。私は味噌汁を吹き出しそうになった。隠れキリシタンって、何時代の話なのだろうか。キリシタンではないし、教会にも行ったこと無いけど、と私は答えた。おばあちゃんはそれ以上何も言わなかった。

 

 練習グリーンでボールを転がした。20年前よりかなり速くボールは転がった。煮干しのダシの香りがしたような気がして、周囲を見渡した。そして、誘われるように小屋があった高台に登ってみた。

 

 そこに小屋があったことが分かるのは、かろうじて入口までの階段の跡が残っているだけだった。更地になっただけでなく、きれいに芝生に覆われているので、知らない人にここに昔小屋があったと話しても信じないだろう。煮干しの香りは全くせずに、ただ枯れた葉っぱの匂いだけがした。

 

 見下ろした1番ホールは、記憶していたよりこぢんまりして見えた。太陽は朝日よりだいぶ高い位置まで登ってしまっていたので、プラタナスの影は短かった。

 

 もし、この場所にあの小屋があったら、おばあちゃんは味噌汁を出してくれただろうか?

 

 裏メニューの味噌汁を出してもらえる基準の詳細は分からなかった。来るたび、たった一人で早朝の練習グリーンでボールを転がしていた私に同情しただけかも知れないし、その姿を隠れキリシタンの修行だと勘違いしたのかも知れない。

 

 私は練習グリーンに向かって高台から降りた。あの味噌汁も、私のゴルフ歴の一部だと思ったら心も少し暖かくなった。

(2007年1月19日)

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