○子の心、親知らず
結衣はよく泣く赤ん坊だった。
今でも、赤ん坊の結衣が泣いている顔を思い出しては、私はうんざりしていたものだ。
そんな風に思っていた母の気持ちをわかっていて、泣いていたのだろうか…。
若かった私には赤ん坊を育てることが、ひどく自分の時間を犠牲にしている…と思われてならなかった。
留年について、詳しく聞こうとする私をよそに、
「放っといてよ。どうでもいいんだから」
結衣は、泣きながらそう言った。どうでもいい―と。
「どうでもいいって。留年したら、学校にいけないでしょ。それとも、また2年生やれるの?」
「もう、どうでもいい」
どうでもいい―。どうでもいい―。どうでもいい―。
それから私が何を言おうと、結衣は「どうでもいい」を連呼し続けたものだ…。
○子供はちゃんと見てほしい
留年しそうだというのに、「どうでもいい」と泣くだけの結衣の気持ちが、まったくわからない。
この子はいつから、こんな無気力な人間になってしまったのだろう…。
勉強はあまり得意ではなかったけれど、元気で明るくて、素直な子供だった。
今、目の前にいる結衣は、自分を投げ出している。
その時、ふと。数日前に感じた小さな違和感を思い出した。
お風呂に入ろうとした結衣が、ドアの出っ張りに、額をぶつけた。
「ママ、ぶつけちゃった。痛いよ」
結衣は少し赤くなった額を見せた。怪我というほどのものではないので、
「大丈夫、大丈夫」
夕飯の支度で忙しかった私は、フライパンの炒め物に戻った。
少しして…浴室から、悲鳴のような声が聞こえてきた。
私は驚き、浴室に駆けつけた。
結衣が膝を抱え、小さな子供みたいにワンワン泣いていたのだ…。
…あれは、結衣なりの何かのSOSだったのではないか。
私は、今まで何を見てきたのだろう…。
○ちょっと殺しかけました
人の心は硬くなる。
硬くなった心を柔らかくするのは、容易いものではない。
娘の結衣は、自分の事を「どうでもいい」と言い放っている。
まだ、17歳になったばかりで…自分の未来を投げていた。
「どうでもいい」
膝を抱えて泣きじゃくりながら、「どうでもいい」と叫び続ける結衣。
そんな悲しい言葉を聞いた瞬間、私は結衣の頭を思いきりブン殴ってた。
その瞬間、
「なにすんだよ!ババア!」
最後のババアを遠慮がちに言いながら、結衣は私を突き飛ばした。
ババアなんて、結衣が生まれてはじめて言ったな。
「出ていけ!」
押し出されそうになって、ここで負けてたまるか!私より体が大きい結衣を押し返しながら、
「どうでもいい人間を生かしておくわけにはいかない。アンタを殺してママも死ぬ」
結衣をベッドに倒し、馬乗りになった私は首を思いきり絞めていた。
ヒュッー! 泣き声すら出ない状態の結衣の喉から、苦しさのあまりの悲鳴ともつかない音が漏れた。顔も真っ赤になっていく。もはや抵抗する力も残っていなかった。
それでも力を緩めない。命がけだった。
一昔前のドラマの一場面だな。これは、と今になって思うが…
この子を助けたい。それしか考えていなかった。
首を締め上げているのに、なんとも矛盾している話だな、と自分でも突っ込みたくなるけど。
留年とか、大学受験とか…そんなものは関係ない。
みじめに泣いている結衣を助けたかった。
他人がその光景を見ていたら、気がふれた母親だと思われただろう。
―アンタは、どうでもいい人間なんかじゃない!―
私は泣きじゃくりながら、叫び続けた。
その時、
「ご…ごめんなさい…」
悲鳴ともつかない、微かな声で苦しさの中、結衣は言った。
私はその言葉で、我に返った。手から、力がスッと抜ける。
凶暴な母親から解放された結衣は、激しい咳を繰り返し泣きじゃくっていた。
あの時。結衣が「ごめんなさい」と言わなければ、どうなっていただろう…
今でも、答えは見つかっていない。