○予兆
子供の成績がわるいと、親はついつい腹立たしくなって声を荒げこう言うだろう。
「勉強しないから、成績が悪いんだ」
だから、勉強しなさい!と。
結衣の変化に気が付いたのは、黒髪をほんの少し茶髪に染めた日からだった。
なぜ、高校生なのに、茶髪にするのか?校則違反だから元の黒髪に戻させようと口をすっぱくして言い募ったけれど、結衣は「うるさい。みんな染めてるもん」と茶色の髪のまま通学し始めた。
気になってはいたけれど、学校も休まず行っていたし、夜遊びもしない。
ちょっと、おしゃれをしたい年頃なのだろう…。とのんきに考えていた。
それに…
大学受験が近づけば、おしゃれどころじゃなくなるはず。
…と、信じていた。
いや。信じ込もうとしていたのかもしれない。
なにせ、高校生の娘と髪の色で揉めるのは面倒だった。あの年頃は、言い出したら聞かない。
まして、ほんの少し明るくなった髪を取り立てることでもないような気がしていた。
○一本の電話ではじまった
結衣、高校2年生の冬―。
その日。突然、家の電話の呼び出し音が鳴った。相手は結衣の担任の先生。大学を卒業したばかりの若い男の先生だ。
担任の先生は型通りのあいさつを済ませると、唐突に話を切り出した。
「結衣さんはいくつか単位を落としていまして。試験の結果も非常にわるく、このままだと留年の可能性があります」
先生の声は冷静で、しかし、非難の感情が込められていた。
私はというと、「留年」という言葉が頭の中で反復しているだけ。何も答えられずに、受話器を握りしめていた。
確かに。結衣は優秀ではないことも、勉強がニガテだということも知ってはいたけど。
まさか。そこまで切羽詰まった状態だとは…聞いていなかったのだから。
結衣の通っている私立女子高校は目で見てとれる成績表がない。
かわりに、学期末ごとに担任が各学科の評価を個人面談で伝えてくれる。
昨年までは、評価は低かったが留年などという切羽詰まった話は無かったのである。
「前回の個人面談でも言いましたが…」
なかなか状況が理解できない私に、担任は咎めるように言った。
「結衣さんのお父様からお聞きになっていらっしゃいませんか」
担任の言葉で、すべての状況がわかったような気がした。
私は咄嗟に、
「はい…聞いております」
と、答えていた。上手く取り繕えただろうか。
咄嗟に出た真っ赤なウソ。先生は気づいていないだろか…。
その頃―。
私は、とあるアニメ番組でデビューしたばかりの新人シナリオライターだった。
締め切りに追われる中、せっかくのチャンスをものにしたくて、結衣に目を向ける暇も余裕も無く、家族とまともに話す時間すら持っていなかった。
だから、学校行事は私にとっては時間が無駄になるもの。邪魔なものだった。
一学期の三者面談は、離婚して別々に暮らしている結衣の父親に行かせた。
仕事が忙しい…と嫌がる結衣の父親を、半ば強引に説き伏せて。
三者面談を終え、電話でその内容を結衣の父親に尋ねた際は、
「特になにも言われなかったよ」
もうちょっと勉強は頑張った方がいいかも。と、付け加えて、元夫は電話を切ったものだ。
私は完全に安心しきっていた。
結衣は夜遊びもしたことがない真面目な女子高生。
成績がちょっとくらい振るわなくたって、いずれ、本人がやる気になれば、なんとかなる…と本気で考えていた馬鹿な母親。
担任と面談の日を約束して、私は受話器を下した。
○何を考えているのかわからない
「大学受験、どうするの?行きたい大学とか見学に行ったら?」
特に深い意味があったわけではなかった。高校2年生になった結衣にとっては、当然の話題だと思ったのに。
結衣は、何とも居心地が悪い顔をして、
「どーでもいい」「わからない」「知らない」
と、あいまいな言葉を繰り返すだけだった。
しまいには、不機嫌になって、布団をかぶって寝てしまうこともあったよな…。
担任との電話を切った後、私はぼんやりとそんなことを思い出していた。
進学も危うい状態で、大学なんて言われても、困るだけだったに違いない。
それにしてもだ。なぜ、父娘そろって、私に真実を隠したんだ!
担任に、2学期の成績いかんでは留年も免れない…と忠告されたというのに。
すぐに話してくれたら、こんな事態になる前になんとか手を打てたかもしれない。
隠したって、いずれ、こうしてバレるのだ。
意味がわからない。結衣はともかく、元夫は私に話すことは十分できたはず。
猛烈に腹が立つ。隠していたって、こうして後始末がやってくる。それをわかっていながら、二人で素知らぬ顔をして隠していたことが許せなかった。
怒りと混乱と困惑に打ちひしがれる私と結衣の対決は、すぐそこに迫っていた―。
○そう甘くない
学校から帰ってきた結衣は、引きつった顔で私を振り返った。
担任の先生から電話があった事を聞いた瞬間だ。
「留年しそうって…どうゆうこと?」
結衣は何も答えず、
「余計なことを…サイアク」
と呟き、鬼のような形相でダダダーッと階段を駆け上がり、自分の部屋に入ってしまった。
「待ちなさい!」
私は結衣の後を追った。この問題は、けしてあやふやには出来ないんだから。
ところが。結衣の部屋のドアを開けようとすると、ビクリとも動かない。
ドアの向こうで、結衣がドアを押さえ、一歩たりとも部屋には入れない!と無言で抵抗していた。
くそー!小娘め!親をナメやがって。許さんっ!
渾身の力で、何度もドアに体当たりする私に、さすがに観念したのか、突然、ドアノブが少し緩み、扉が開いた。
一発、ぶん殴ってやる。そんな勢いで突入した私が見たものは…。
真っ赤に泣きはらした顔の結衣だった。
この時、私は結衣が泣いている真意がまったくわからなかった。
留年になりそうなくらい勉強をサボっていた事、それを父親と二人で母親である私に隠していた事。
怒っていたはずだった。私は…。
もう、ぜったいに許さない…そう思っていた。
はずなのに…。
「アンタを留年させるわけにはいかない。泣いてないで、これからどうするか考えよう」
自分でも驚くほど冷静に言っていた。
この子を助けなければ。
そんな気持ちの方が、怒りより勝っていたのだと思う。
ところが…。