【第3回】二章 ―(2) | マイナビブックス

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穢れない白の音

【第3回】二章 ―(2)

2015.01.19 | 七瀬椋

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 厨房にある壁の時計は二十時を指していた。

「おーやっと終わったな」

 店長が手の甲で汗を拭う。コックさんは調理台に寄り掛かりながら、右手で顔を仰いでいた。

「あぁ、疲れたぁ!」樋口さんはそう言って伸びをした。「四人で回すのは、もう懲り懲りですよ~」

「そうだな。俺もごめんだ」店長は苦笑いをした。

「それにしても、上崎。お前良く頑張ったな」

 突然名前を呼ばれて、びくりと肩を震わせてしまう。

「あっ、は、はい」

 他に言葉が思いつかなくて、素っ気無い言葉で返してしまった。褒められることに慣れていないので、戸惑ってしまうのだ。

「てゆーか、何で今日はオーダー取れたの? いつも、取らないじゃない?」

 樋口さんは私の顔を覗き込んでくる。私は、補聴器のことを言いたくなくて黙り込んでしまった。

「こら樋口。俺は上崎を褒めているんだ。余計な詮索はしないでいい」

「……はぁい」

「じゃあ、二人とももう上がっていいぞ」

 コックさんと樋口さんの顔を交互に見ながら、店長は言った。

「上崎は、少し残ってくれるか?」

 店長の言葉に「はい」と頷く。二人の姿が厨房から出て行くのを見届けてから、店長は来賓用のアールグレイ茶を入れてくれた。誰も居ない空間にお茶の注ぐ音だけが鳴り響く。

「あっ、そうだ」店長は声を上げた。「二人には内緒な」

 そう言ってウィンクする店長の姿に、思わず笑ってしまった。

「じゃあ、椅子に座ろう。立ったままだと紅茶が不味くなる」

「はい」

 白いカップを来賓部屋のガラステーブルに二つ並べてから、店長は腰を下ろす。私は、店長の前の席に腰を下ろした。

 二つのカップから、湯気がゆらゆらと揺れている。アールグレイの匂いが部屋に充満していくようで、私は頬を緩めてしまった。

「もう、外していいぞ」

「えっ?」

 私は思わず聞き返してしまった。店長が何を言っているのか、分からなかったのだ。

「あ~その、それだ。それ」

 私の右耳を指差している。補聴器のことを言っているらしい。

「あ、はい。取ります」

 私は慌てて、補聴器を外そうとした。

「あ、でも箱が無いのか。いや、無理に取らなくても良いぞ」

「はぁ……」

 良く分からないことを言っている。私が戸惑っていると、店長はがしがしと頭を掻いた。

「あーあのな、俺、母親が難聴なんだよ」

 初耳だ。私が目を丸くしていると、店長は苦笑いしながら続けた。

「お前、今日オーダー取れてたから、補聴器してんじゃないかなって思ってさ」

 店長はそう言って、再度頭を掻く。

「その、な。うちの親も補聴器つけんの嫌がるんだよ。だから外していいって言った。言葉足らずだったな」

「後で外すので大丈夫です」

「そうか」

 私はアールグレイの紅茶に口をつける。店長もカップに口をつけた。

「それで、本題なんだが……」

「はい」

「日曜日の王子様とかいうやつとどんな話をしたんだ?」

 私は紅茶を噴き出しそうになってしまった。

「あ、あの大野さんのことですか?」

「そうそう。オープン前に入れただろ? あれは上崎と話がしたいと煩かったから入れたんだ」

 そういうことだったのか。だからあの時、店長はにやけ顔をしていたのだ。

「いえ、名前を聞かれただけです。他は何も」

「名前だけ? 本当に?」

「はい」

 店長はがっくりと肩を落とした。

「軟弱者め……全く、今時の若いもんは」

「店長、武士みたいです」

 私が突っ込みを入れると、店長は恥ずかしそうに笑った。

「いや、な。上崎にお似合いだと思ったんだ。だけどそんな情けない男じゃ、上崎はやれんな」

 私は店長の言葉に、自然と口の端を上げてしまう。

「(父親が居たら、こんな感じなのかな)」

 店長は私が笑っていることに気付いたのか、再び頭を掻いた。

「ったく、まだ花の二十代だと言うのに、言うことがおっさん臭くなってかなわんな」

「花……」

「ああ、花の二十代」

 私はぽかんと口を開けてしまう。店長は顔を茹蛸のように真っ赤にした。

「そこは突っ込んでくれよ」

「あ、すいません」

 私が謝ると、店長は優しく微笑んだ。

「ハハハ、上崎は素直だな。謝らなくてもいいのに」

 私は何と返せばいいか分からずに、カップに再び口をつけた。

「もしも――」店長は言葉を止める。「いや、何でも無い。困ったことがあったらすぐ俺に言えよ?」

 バイトに入ったときから、一番、私に気を遣ってくれている優しい店長。ここのバイトを続けているのは、この店長の存在が大きいからだ。

 私は、少しを間を置いてから「はい」と返事をした。須々木さんのことを相談しようかとも思ったが、言ったら店長への負担が大きくなるかもしれない。それに、あの人は店長がいない時を選んで文句を言うのだ。

「今は、大丈夫です。有難うございます」

 私は、そう言って紅茶を飲み込む。言いたかった言葉と一緒に、胃に流し込んだのだった。