厨房にある壁の時計は二十時を指していた。
「おーやっと終わったな」
店長が手の甲で汗を拭う。コックさんは調理台に寄り掛かりながら、右手で顔を仰いでいた。
「あぁ、疲れたぁ!」樋口さんはそう言って伸びをした。「四人で回すのは、もう懲り懲りですよ~」
「そうだな。俺もごめんだ」店長は苦笑いをした。
「それにしても、上崎。お前良く頑張ったな」
突然名前を呼ばれて、びくりと肩を震わせてしまう。
「あっ、は、はい」
他に言葉が思いつかなくて、素っ気無い言葉で返してしまった。褒められることに慣れていないので、戸惑ってしまうのだ。
「てゆーか、何で今日はオーダー取れたの? いつも、取らないじゃない?」
樋口さんは私の顔を覗き込んでくる。私は、補聴器のことを言いたくなくて黙り込んでしまった。
「こら樋口。俺は上崎を褒めているんだ。余計な詮索はしないでいい」
「……はぁい」
「じゃあ、二人とももう上がっていいぞ」
コックさんと樋口さんの顔を交互に見ながら、店長は言った。
「上崎は、少し残ってくれるか?」
店長の言葉に「はい」と頷く。二人の姿が厨房から出て行くのを見届けてから、店長は来賓用のアールグレイ茶を入れてくれた。誰も居ない空間にお茶の注ぐ音だけが鳴り響く。
「あっ、そうだ」店長は声を上げた。「二人には内緒な」
そう言ってウィンクする店長の姿に、思わず笑ってしまった。
「じゃあ、椅子に座ろう。立ったままだと紅茶が不味くなる」
「はい」
白いカップを来賓部屋のガラステーブルに二つ並べてから、店長は腰を下ろす。私は、店長の前の席に腰を下ろした。
二つのカップから、湯気がゆらゆらと揺れている。アールグレイの匂いが部屋に充満していくようで、私は頬を緩めてしまった。
「もう、外していいぞ」
「えっ?」
私は思わず聞き返してしまった。店長が何を言っているのか、分からなかったのだ。
「あ~その、それだ。それ」
私の右耳を指差している。補聴器のことを言っているらしい。
「あ、はい。取ります」
私は慌てて、補聴器を外そうとした。
「あ、でも箱が無いのか。いや、無理に取らなくても良いぞ」
「はぁ……」
良く分からないことを言っている。私が戸惑っていると、店長はがしがしと頭を掻いた。
「あーあのな、俺、母親が難聴なんだよ」
初耳だ。私が目を丸くしていると、店長は苦笑いしながら続けた。
「お前、今日オーダー取れてたから、補聴器してんじゃないかなって思ってさ」
店長はそう言って、再度頭を掻く。
「その、な。うちの親も補聴器つけんの嫌がるんだよ。だから外していいって言った。言葉足らずだったな」
「後で外すので大丈夫です」
「そうか」
私はアールグレイの紅茶に口をつける。店長もカップに口をつけた。
「それで、本題なんだが……」
「はい」
「日曜日の王子様とかいうやつとどんな話をしたんだ?」
私は紅茶を噴き出しそうになってしまった。
「あ、あの大野さんのことですか?」
「そうそう。オープン前に入れただろ? あれは上崎と話がしたいと煩かったから入れたんだ」
そういうことだったのか。だからあの時、店長はにやけ顔をしていたのだ。
「いえ、名前を聞かれただけです。他は何も」
「名前だけ? 本当に?」
「はい」
店長はがっくりと肩を落とした。
「軟弱者め……全く、今時の若いもんは」
「店長、武士みたいです」
私が突っ込みを入れると、店長は恥ずかしそうに笑った。
「いや、な。上崎にお似合いだと思ったんだ。だけどそんな情けない男じゃ、上崎はやれんな」
私は店長の言葉に、自然と口の端を上げてしまう。
「(父親が居たら、こんな感じなのかな)」
店長は私が笑っていることに気付いたのか、再び頭を掻いた。
「ったく、まだ花の二十代だと言うのに、言うことがおっさん臭くなってかなわんな」
「花……」
「ああ、花の二十代」
私はぽかんと口を開けてしまう。店長は顔を茹蛸のように真っ赤にした。
「そこは突っ込んでくれよ」
「あ、すいません」
私が謝ると、店長は優しく微笑んだ。
「ハハハ、上崎は素直だな。謝らなくてもいいのに」
私は何と返せばいいか分からずに、カップに再び口をつけた。
「もしも――」店長は言葉を止める。「いや、何でも無い。困ったことがあったらすぐ俺に言えよ?」
バイトに入ったときから、一番、私に気を遣ってくれている優しい店長。ここのバイトを続けているのは、この店長の存在が大きいからだ。
私は、少しを間を置いてから「はい」と返事をした。須々木さんのことを相談しようかとも思ったが、言ったら店長への負担が大きくなるかもしれない。それに、あの人は店長がいない時を選んで文句を言うのだ。
「今は、大丈夫です。有難うございます」
私は、そう言って紅茶を飲み込む。言いたかった言葉と一緒に、胃に流し込んだのだった。