【第2回】二章 ―(1) | マイナビブックス

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穢れない白の音

【第2回】二章 ―(1)

2015.01.19 | 七瀬椋

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 今日は日曜日だ。休日ということも有り、レストランには沢山のお客が来るだろう。

「(憂鬱……)」

 いつも、土日祝日はシフトを外して貰っているのだが、今日は人手が足りないとのことで店長に頼み込まれたのだ。

 私は従業員専用のロッカーの前で、大きな溜息をついた。手の中には小さな青い箱がある。耳かけ型の補聴器(補聴器は難聴のために作られた音の増幅器のこと)の箱だ。

「(今日はつけないと)」

 補聴器は余りつけたく無いのだが、我侭も言っていられない。私は渋々、右耳に補聴器をつけた。そして、長い髪の毛で補聴器を覆い隠す。

「おはようございまぁす」

 扉の開く音と樋口さんの声がした。

「おはようございます」

 私は振り向いて挨拶をした。樋口さんは白い歯を見せて笑う。この、何も悩みが無さそうな顔が大嫌いだ。

「あ、上崎ちゃん! 早いねえ」

「はい。今日は日曜日なので」

 私がそう言うと、樋口さんはニヤリと口の端を上げた。

「あっ、もしかして〝日曜日の王子様〟が目当て?」

「日曜日の王子様?」

 私は首を傾げる。樋口さんは目を大きく見開いた。

「あっ、そっか。上崎ちゃんはいつも平日だもんね」

 私が「はい」と頷くと、樋口さんは嬉しそうに言葉を続けた。

「あのね、日曜日の十二時に凄いかっこいい人がお茶とケーキを頼むの。王子様みたいな凄い綺麗な顔で、皆狙ってるんだよ!」

 全く興味の無い話だったが、私は耳を押さえながら笑顔で頷いた。

 補聴器がどんな音でも大きくしてしまうので、耳が痛い。樋口さんの甲高い声は特に最悪だ。頭がガンガンする。

「私も、見てみたいです。あ、先に厨房に出てますね」

 早く話を切り上げたかった私は、そう言って樋口さんの横を通った。

「うん、じゃあ後で~」

「はい」

 私は早足で厨房へと向う。厨房では店長と、コックさんが二人で何かを話していた。

「おはようございます」

 私が声を掛けると、二人は大きな声で挨拶を返してくれた。店長はコックに片手を上げてから、私の方へ近づいてくる。

「今日は助かった。樋口しか空いてないって言うからさ」

「いえ、大丈夫です」

 私はふるふると首を横に振った。

「何か問題があったら、すぐに俺に言ってくれよ。無理させる気は無いからな」

「はい」

「……じゃあ俺は看板を出してくる。オープン準備を頼むぞ」

 店長はそう言って、外へと出て行った。私は濡れ雑巾でテーブルを拭き始める。窓に囲まれた店内は、ぽかぽかとしていて暖かい。私は幸せな気分でテーブルを拭いていた。

「あの」

 補聴器をつけていなかったら聞こえていなかったであろう、小さな声が聞こえた。私は雑巾を持ったまま振り向く。綺麗な顔をした青年が、私を見ていた。

「そこ、座って良いですか?」

 窓際の、暖かい席を指差して青年は言った。私は慌てて壁時計を見上げる。まだ、オープンまで二十分はあった。

「あの、まだオープンしておりませんので……」

「上崎!」

 店長の声が聞こえて、その方向へと振り向く。レストランの入り口から店長が顔を出している。何故か、その顔はにやけていた。

「オープンしてないが、そいつを座らせてやってくれ!」

 私は目をきょとんとさせながらも、店長に「分かりました」と返事をした。

「我侭を言って、入らせて貰ったんです。良い店長さんですね」

 青年はそう言って、にこっと微笑む。私はその人懐っこい笑顔に不信感しか持てなかった。

「すぐにお水をお持ちします」

 そう言って、雑巾を持ったまま厨房へ帰ろうとした。

「待ってください」

 青年の声に思わず立ち止まってしまう。「何でしょう?」

「名前、教えてください」

 ナンパだろうかと、私は眉を顰めてしまう。そんな私の反応を見て焦ったのか、青年は早口で自己紹介を始めた。

「あ、名乗らなくてすいません。俺の名前は大野忠(おおのただし)です」

「……上崎玲菜(うえさきれな)です」

 名前を聞いておいて、自分の名前を名乗らないのも不自然かと思い、私は小さな声で答えた。

「俺、あの――」

「あーっ!」絶叫に近い声が、大野さんの声を掻き消す。「お、王子がいる!」

 振り向くと、樋口さんが目を丸くしていた。

「まだオープン時間じゃ無いのに、何で居るんですか!?

「店長さんに我侭言って、入れてもらったんです」

 大野さんはそう言って、苦笑いをする。

「そうなんですかぁ。あーびっくりしたぁ」

 樋口さんは大口を開けて笑った。

「アタシ、バイトの時間を間違ったのかと思って慌てちゃいましたよ!」

「大丈夫ですよ、あってます。それより、王子って何のことですか?」

「あ、あ~アハハハハ。聞き間違いですよ~」

 笑い声が、補聴器にビリビリと響く。私は楽しそうに話す二人からそっと離れた。

「(あの人が日曜日の王子様、ねえ)」

 樋口さんが黄色い声を上げるのも分かる気がする。薄茶色の髪の毛に、中性的な小さな顔。芸能界に居てもおかしくない人間だろう。私はああいう人間が一番嫌いだ。不幸を知らずに、ちやほやされるだけの人生なのだろう。

 ちらりと、横目で二人の様子を窺った。偶然、大野さんと目線がぶつかる。その瞳の中には眩しいくらいの光が宿っていて、私は反射的に目を逸らしてしまった。私とは住む世界が違うであろう、真っ直ぐな瞳。少しだけ、大野さんの存在に恐れを感じてしまう。

「(これからは、日曜日にシフトを入れないようにしよう)」

 私はテーブルを拭きながら、一人頷いたのだった。