「ちょっと、聞いてるの!?」
ヒステリックな声が耳に届いた。私は驚いて、手に持っていたお盆を落としそうになってしまう。
「須々木先輩、私に何か……?」
私は恐る恐る先輩に聞いた。須々木さんが目を吊り上げながら再び怒鳴る。
「だから、そのメニュー四番テーブルだってば! もう、これだから聞こえないのは嫌なのよっ!」
胸の奥がズキンと痛んだ。私の耳は生まれつき悪く、小さな声や音が聞こえない。その為に、こうした罵りを良く受けてしまう。何度も味わった経験。だが、慣れることは無かった。ただただ、悲しいだけだ。目の奥が熱くなってくる。
だけど、須々木さんの前で泣くのだけは嫌だった。
「申し訳ありません」
私は震える唇で、須々木さんに頭を下げる。須々木さんは、鼻をふんと鳴らして「早く行きなさいよ、愚図」と言った。
「分かりました」
私はもう一度頭を下げて、四番テーブルへと向う。お客さんの前に料理を置いて、いつものように笑おうとした。
だが、顔が引き攣ってしまう。こんな時にも笑わなきゃいけない自分が惨めだった。作り笑いをして、テーブルを離れる。
「(大丈夫)」
店内には嬉しそうな笑顔の人が沢山いる。笑顔でいる人間が憎らしかった。
「(大丈夫、笑えてる)」
白を基調としたファミリーレストランの中を、ドス黒い気持ちの私が歩く。
「(私はまだ大丈夫。まだ、笑えるんだから)」
何が大丈夫なのか、自分でも良く分からない。
だけど、自分自身が壊れそうになったとき、私は決まってこの言葉を繰り返してしまうのだ。
「店長、少し休憩行っていいですか」
「おう。良いぞ」
店長の言葉に、ほっと溜息をついた。私はすぐにトイレへと駆け込む。乱暴に個室のドアを閉めた。便器の前にしゃがみ込む。息が苦しくて心臓を掴んだ。支給されている白いエプロンが、きっと皺くちゃになっているだろう。
でも、そんなこと、気に掛けていられなかった。
「(悔しい、辛い、苦しい)」
心の中で何度も呟く。
「(何で私だけ、どうして)」
私だけが不幸なんだと錯覚してしまう。顔を歪めて、ゆっくりと息を吐いた。心臓は早鐘を鳴らしている。トイレの水を流しながら、私は何度も深呼吸をした。流水音で私の呼吸音が掻き消される。
勢い良く流れる、音。この音は、私の耳に伝わるから好きだ。あっという間に、流水音が終わる。私の心臓の音は、少しだけ緩やかになっていた。利き手で何度か心臓の辺りを撫でる。
「(もう平気。大丈夫)」
私は立ち上がって、トイレのドアを開けた。洗面所の鏡に病弱そうな真っ白い顔の女が映る。
「ひどい顔」
そう言って私は、自分の顔を笑った。鏡の中の女も口の端を上げる。私を嘲笑しているように見えて、腹が立った。
「あっ、上崎ちゃん!」
鏡の中に、バイト仲間の樋口さんの姿が映る。私とは対照的で、真っ黒な肌をして健康的な女の子だ。
「樋口さん、どうしたんですか?」
私は樋口さんの方に振り向いた。
「いやぁ、ちょっと気になってさぁ」
樋口さんはショートカットの頭を掻きながら言った。
「何か気になることありました?」
「い、いや。あぁ……」両手を私に向け、ぶんぶんと振る樋口さん。
「何でもない! 気にしないで!」
「あ、はい」
またか、とうんざりしてしまう。私に何かを言おうとするのに、何も言わない。言い掛けて止める、の繰り返しなのだ。耳が遠い私への嫌がらせなのだろうか。私は内心むっとしながらも、顔には出さずに笑顔で返事をした。
「それじゃ、私、先に厨房戻りますね」
樋口さんの脇を通って、トイレを出て行く。背中に樋口さんの視線を感じた。今、樋口さんがしている目は哀れみの瞳だろうか。それとも、嘲笑の瞳なのだろうか。
「(前者だったら、嫌だな)」
私はそんなことをぼんやりと考えながら、厨房へと戻ったのだった。
*
「ただいま」
私が玄関で言うと、奥の方ほうから「おかえりなさい」という声が聞こえた。
ハッキリとした聞き取りやすい声だ。私の耳にも聞こえるように、自然と大きな声になっているのだろう。居間の襖から、ひょこっと顔を覗かせたのは私の祖母だった。
「今、ご飯作っているからね」
「うん、分かった」
私は祖母に答えると、自分の部屋へと向う。自分の部屋の扉を開けると、ジャスミンの香りが私の鼻腔をくすぐった。
「ただいま」
観葉植物のシルクジャスミンに近づいて、葉っぱをそっと撫でた。ジャスミンの甘い香りが心地いい。
「今日は、また耳のことで怒られちゃった」
誰にも弱音を吐けない私は、こうして植物に向って愚痴を言っているのだ。ジャスミンは微動だせずに私の声を聞いてくれている。
「いつものことだけど、やっぱり」
目頭が熱くなってくる。
「辛いなぁ……」
ぽたり、とカーペットの床に涙が落ちた。赤いカーペットに黒いシミが広がる。
「何でなのかなぁ」
滴は止まらなかった。次々に黒いシミが出来ていく。
「何で私だけ、なのかなぁ」
その黒いシミはカーペットを侵食していく。
「ずるいよ。皆、耳が聞こえてずるい」
私の心を表しているようで、思わず目を瞑った。
「神様は不公平だ」
真っ暗な視界の中で、私は居るか分からない神様に小さく呟いた。それから両手で顔を覆って嗚咽を上げる。祖母に聞こえないように、声を押し殺して泣いた。
「(全部、真っ黒な世界に飲み込まれてしまえば良いのに。私も、須々木さんも、樋口さんも消えてなくなれば良い)」
真っ暗な世界で、ジャスミンの香りだけが、とても優しい匂いだった。