夢を見ている。
夢だとわかるのは、そこに博士(ドクター)と坂本龍子(さかもとりゅうこ)がいるからだ。
博士は俺がこの旅を始める直前に、無有(ムゥ)大陸で、
龍子は高知での旅の途中に行きずり、戦いの最中(さなか)、
……死んだ。
――日本国は四国アイランド、桂浜。
イカダに乗り込む俺とネコを、博士と龍子が見送る。
ここに、別の場所で死んだ博士と龍子が同時にいるということは、これは俺が今、見ている夢ということだ。だけれど俺は、夢だとわかったまま、正しく過去をなぞっている。
ネコはイカダのマストを握って、浜を、彼らを見る俺に声をかける。
「行こう。ボンノ」
そういえばネコも、無有(ムゥ)大陸から出たばかりの時と同じ、メイド服を着ている。
ネコの自前のメイド服は、俺達の四国アイランドでの修羅の日々を語るように、すっかりボロ布状態だ。これも夢だという証拠のひとつ。
なぜなら龍子が死んだ時、ネコは龍子のセーラー服を譲り受けたからだ。
「どうしても行くの?」
坂本龍子が俺に言う。
ああ、どうしてもだ。俺の旅は始まったばかりなのだ。そうだろ? 博士。
博士は龍子の肩に手をのせる。ありえない、夢ゆえのシチュエーション。
「あぁ、ボンノ。残る〝煩悩〟は、一〇四ツ。まだお前は一〇八分の四しか手に入れておらん」
俺は首にかけた紐を見る。珠が四つ下げられている。俺はポケットから鍵を出し、珠と一緒に紐へくくり付けた。
大きな銅製のこの鍵は、珠と同様、無有(ムゥ)大陸に戻るまで、絶対失くすわけにはいかない代物だ。
「いくぞ、ネコ」
俺は浜の砂を蹴り、イカダの帆を張った。太平洋からの海風を受けて、イカダはあっという間に桂浜から離れて行く。
浜では龍子がいつまでも手を振っていた。
こんな切ない別れは無い。
こんな罪な旅は無い。
俺は無有(ムゥ)の民を救うために、日本国の民を蹂躙しているに等しい。
煩悩を得るために、結果的には、関係ない龍子のような者の命まで奪っているようなものだ。
人は罪を嘆き、死に悲しみ、別れに涙を流す。
だが俺は、病気のせいで、そんな思いが表情(おもて)に出ない。
俺はただ、首にかけた鍵と珠を握り締め ……、
「!?」
――無い。
俺は胸許を見る。数多の血を吸い、傷だらけになった学ランの、鈍く光る金ボタン。
そこにカチャリと音を立ててぶつかるはずの、鍵と、珠が無い!
俺はゆっくり周りを見渡す。
もう浜は見えない。
「おい」
ネコ、鍵……と言いかけて、俺は絶句する。
イカダの上には俺しかいない。
ネコがいない。
手錠から伸びる鎖の先は、イカダのマストに括られた首輪。
無い。
いない。
最悪だ。
「ネコ」
俺は抑揚の無い声でネコをもう一度呼んだ。
「ごめんね」
ネコの声が遠くで聞こえる。
「あたし、そーいうの飲まないの」
……?
飲ま……?
――むっくり、しかし勢いよく、俺は身体を起こす。
ごちぃぃん! 俺の頭が何かにぶつかった。
だが俺は気にせず周りを見回す。どうやら家の中らしい。
しかし近代的なものではない。壁は石積みと木の板作りが半々で、所々の隙間から外の日差しが漏れ入ってきている。もしかしたら手作りの家かもしれない。
囲炉裏がある。自在鍵には鉄鍋が下がっていて、それを挟んでネコと、無精ヒゲを生やした男が座っていた。山男風の彼は、ネコから椀を受け取りながら、こちらを見ている。そして、
「起きたべ?」と俺に向かって言った。
だが、俺はまだ状況がつかめない。
「おはよう。ボンノ」
ネコが俺に挨拶をする。
「……ん」
俺はとりあえず挨拶を返し、改めて室内を見渡す。
俺は布団に寝かされていた。そして、半身を起こした俺の後ろで、また無精ヒゲの男とは別の男が、顎を押さえてもがいていた。
「ひどーい、ボンノ」ネコは妙に冷静な声で俺に言う。
「今アンタその人に、何かしたでしょ? その人、あたし達の命の恩人よ」
「頭突き食らう(何かされた)そいつが不注意なだけだべ」
ヒゲ男が笑う。
「すまん」
俺はそいつに謝ったが、男は声も立てずにめそめそ泣くばかりで、何だか俺は申し訳ない気持ちになった。
「安心しれ、そいつは無口なだけだべ」
ヒゲ男は、ネコから受け取った椀を足許に置き、新たな椀に鉄鍋から味噌汁を注ぎ、こちらへ差し出した。
「ワシの名前は月ノ輪。そいつはシャケ」
ちなみに、足許に置かれた椀は、おそらく同じように彼がネコに差し出した味噌汁だろう。
ボヤけていた頭が、やっと回転し始める。きっとネコはそれを「そーいうの飲まないの」と返したんだ。その声で、俺は目が覚めたわけだ。
俺は無言で彼の椀を受け取った。
旨そうな味噌汁だ。一口すすって俺は月ノ輪に、
「助かった」とだけ言った。
「礼はシャケに言うべサ。浜に打ち上げられていたアンタらば、ここまで連れて来たのはそいつサ」
シャケと呼ばれた男を返り見る。あいかわらずうずくまって泣いている。
シャケは妙にぬらりとした肌の、怪しい風貌をしていた。左目に眼帯をしている。開いているほうの目は、瞬き一つせず、死んだ魚のような瞳をしていて、感情を読み取れる気がしない。
……ま、俺も人のこと言えないけど。
月ノ輪もシャケも薄汚れた学生服を着ていた。シャケが眼帯をしている代わりに、月ノ輪は学生帽を被っている。
二人の学生服の汚れも、月ノ輪の帽子の汚れも、貧乏や田舎暮らしのせいではなく、たった今ケンカから帰って来たような ――そういうボロさだ。
「それとサ」月ノ輪はその学生服のポケットから、紐に繋がれた鍵を取りだし、
「この鍵(じょっぴん)もアンタのでないかい?」
じょっぴん? あぁ、訛ってるのか。そんな冷静な判断より、俺はあわてて胸許を見た。
……無い。
鍵が無い!
月ノ輪の取り出した鍵が、まさにその鍵だ。
俺は椀を置いて、鍵を受け取った。
――それは、長い紐に下げられた古めかしい鍵。
銅で出来た、緑青すらうっすら浮かぶ、年代物の鍵だ。しかし、これはれっきとした現役の鍵で――
ネコがこちらをじっとりと見ている。
「ボンノ、鍵だけでいいの? 珠(たま)の数は?」
くそ、言われなくてもわかってる。嫌味のつもりだろうか。ネコめ。
紐には、鍵の他に、四つの珠が連なっている。
鈍い黒色を発した、しかし金属製ではない――そうだな、琥珀が輝きを失うとこんな色かもしれない。
そう、そんな色をした珠が、確かに四つ。これは俺の旅の証明だ。一個でも無くなると困るのだ。
その珠を確認する俺を見て、月ノ輪が言った。
「アンタ、なまら慌てとるようなのに、言葉も少ねえし、全然顔に出ないべな。仮面でも被っとるんでないかい?」
いや、これはれっきとした俺の顔だ。俺の表情(かお)にはなかなか感情が現れない。まるで仮面のような、無表情な俺の顔。
それは、俺の抱える病気の症状なのだ。
そして、そういった説明をぺらぺらしゃべることも出来ない。
口を利けないわけじゃないが――
「その子はシャケさんと同じで、無口な子なの」
あっ、くそ。ネコめ。一言だけでも言おうとしたのに、先に言いやがって。
その上その子だと! 子ども扱いしやがって!
くそ、確かに見た目は相当子どもに見えるだろう。でも俺は、もうすぐ十七になるんだ。子どもじゃない。
屈辱感を感じながらも、屈辱感を顔に出さず――いや、出せず、俺は数を確認した珠と鍵を、紐ごと首にかけた。
くそ、いずれは百八個の珠が下がるとはいえ、今はただの緩い紐だ。
しかしまぁよく、あの嵐で海へ沈まなかったものだ。そう考えれば、今、こう首に下がっているだけでも良しとするべきなのか。
「なぁアンタ、その珠……」
「?」
「いや、なんもサ」
月ノ輪は言葉を濁して、帽子を目深に被りなおした。
ネコの目がキラリと光った。
おそらく俺の目も。
しかし月ノ輪は、その中途半端な質問は全く無かったことのように、不意に立ち上がると、土間に降りた。
「まぁ、ゆっくりして行くべサ。この辺は何もないけどサ」
そういえばここはどこだろう。俺は聞こうとして「あ」と声を上げた時、そのセリフに被せてネコが訊いた。
「あなた方は日本語が通じるからここは日本で間違いないと思うけど、ここはどこなのかしら」
味噌汁を受け取らない、そして助けてもらった身でありながら上から目線の言葉遣い、あんまりいい印象を与えるとは思えないな。あとで注意しておかないと。
「――ここは日本国最北の国、北海道は稚内、日本国最北端の地、宗谷岬……だべ」
そう答えると、月ノ輪は扉に手をかけた。おそらく、外への出口だ。扉はそこにしかない。
すると今さっきまで俺の傍らでうずくまっていたシャケが、なぜか、
びちびちっ。
という音を立てて、疾走(はし)った。
そして扉の前に立ちはだかり、月ノ輪を遮った。
依然涙目のシャケは黙ったまま、ぬらぬらとゆっくり首を振った。
「何の意思表示だべや」
ガン! と月ノ輪はシャケを裏拳で殴ると、悠々と扉をくぐり、外へ出て行った。
シャケは土間でうずくまって、さっきみたいに泣いている。
俺は閉まりきらない扉を開け、外を見た。まだ月ノ輪に訊きたいことがある。
ジャラッ。
俺の手錠とネコの首輪を繋ぐ鎖が、限界の長さだったけど、扉の向こうは一本道で、まだ全然月ノ輪の姿が見えた。
「月ノ輪の」
自分でも違和感ありありの無感情で抑揚のない俺の言葉に、月ノ輪は振り向いた。
「月ノ輪の、アンタ…この辺じゃあ名の通った番長じゃあ……ないのかい?」
月ノ輪の顔が曇った。そして俺に負けないくらい無感情に、抑揚のない言葉で言った。
「ワシは、がっさいフリーターだべよ」
そして再び向こうへ歩いて行った。
月ノ輪は畑の中の一本道を、向こうへ歩いて行く。
畑。一面の畑だ。何も無い? この畑の広さは何だ。
しかもおそらく作物はたった一種類――ジャガイモ畑。
見渡す限りジャガイモ畑だ。
ただ、月ノ輪の向かう方向にぽつんと、サイロのような高い建物が見える。
それにいくつか比較的低い三角屋根が連なっていて、さらにそれぞれの屋根は短い煙突が伸びていて、どれもから白い煙がぼんやりと立ち上っていた。
「気になるの?」
不意に俺の後ろから声がした。ネコの声だ。
相変わらず落書きの目で、ニコリとこっちを見ている。
月ノ輪は学生帽をまぶかに被っていて、奴のヒタイが見えなかったのだ。
だから俺はうなずいた。
それが見えるわけないのに、ネコは自ら首輪を緩めた。
「行って来なさい」緩めた首輪は完全に外され、ネコはそれを俺に投げて言った。
「お食事はきちんと吟味しないとね。あたしはここで一歩も動かず待ってるから、気の済むまで確かめていらっしゃいな」
言われるまでもない。こっそり後を尾(つ)けるとなると、目の不自由なネコははっきり言って足手まといだ。
ジャラリと音をたてる鎖は気になるけれど、それは注意をする。手錠が外れないのだから、ネコを置いておくには首輪を外す以外無いのだから。
まったく、ネコの奴は気が利くのかメンドくさがりなのか。それとも単に、名前どおりの気まぐれなのか。
とにかく俺は鎖と首輪を手早く巻いて握ると、月ノ輪の後をこっそり追った。