門はルーズで開きっぱなし。
壁も敷地を区切る程度の何でもないもの。
サイロはともかく、低い三角屋根の正体は、ちょっとした工場だった。
中ではいくつもの巨大な鉄釜が火に焚かれ、何かが調理されている。
もうもうと釜から噴き出す蒸気が、短い煙突から外に排出されている。煙に見えたのは、その蒸気だった。
匂いは……嗚咽したくなるほどのジャンクな脂(あぶら)臭さ。おそらくあの鉄釜の中では、ことごとく食用油脂が煮えたぎっているに違いない。
工場の門の前に、趣味の悪い看板。
看板にはこうあった。
『ジャガー男爵印のポテトチップス工場 見学随時』
なるほど、周り一面のジャガイモ畑は、材料の供給源なわけだ。
門のルーズさ、壁の低さから言っても、あまりセキュリティが厳しいようには見えない工場だが、まさにその通り。月ノ輪は入場チェックされるでもなく工場の敷地内に入り、それをこっそり追った俺も、正面から門をくぐっただけで潜入が完了してしまった。
拍子抜けに周りを必要以上に観察していると、月ノ輪が建物の角を曲がって消えた。
慌てて俺はそれを追ったが、角から月ノ輪の行方を確認しようと首を出した時だ。
――サイレンの音が工場内に鳴り響いた!
ウ~~ウ~~ウ~~!
俺か? 俺の侵入がバレたのか?
――いや、そうではなかった。なぜならば、場内にすぐ、アナウンスが流れたからだ。
『逃亡者発生、逃亡者発生』
けたたましいサイレンの割には、正直余り緊張感の感じられないアナウンス。
そもそもあの門にしても、カンタンに乗り越えられそうな壁も、監禁・逃亡といった言葉から程遠いようにも思える。
それなのに、逃亡者?
俺はもう一度角から首を出した。
ほんのちょっと先に月ノ輪がいた。
月ノ輪はその場に立ち尽くしていた。いや、単に動けないでいたのかもしれない。
俺が見たのは、月ノ輪の正面に若者がドン、とぶつかった瞬間だった。
なかなか人間は正面衝突しないものだ。この場合、月ノ輪が避けられたろうに避けなかったか、若者が前方不注意だったのか、それともその両方だったか。
もしかしたらあの若者はアナウンスされていた逃亡者かもしれない。事実、若者は自分が月ノ輪にぶつかったのだとわかると、すがる表情でこう言った。
「た、助けてくれ、ば、番長……!」
俺は耳に入ったそのセリフが、余りにすんなり脳みそに届いたので、驚いて、しっかりともう一度反芻させた。
――助けてくれ、番長。
よし、確かに。
聞いたか? あの若者は、月ノ輪のことを、確かに番長と呼んだ!
しかし、月ノ輪は無言。すがる若者に返事をせず、ただ、視線を避けるようにうつむいた。
「わかっておいでですね、月ノ輪クン」
いつの間にやら月ノ輪の正面に、若者の背後に、シルクハットに黒マントの男が立っていた。もうちょっと油断していたら、俺が見つかっていたかもしれない。そんな距離だ。
若者がたじろぐのが見えた。
怪人、だった。紳士的な服装がまったく似合わない顔をしていた。下ぶくれでアバタ面。貧相なヒゲが2本、鼻の下からちょろりと伸びている。
――そして、そのヒタイには琥珀色をした小さな珠が埋まっている。
あれこそ俺が捜し求めているもの。
あれこそ俺が必要としている至宝(たから)。
日本国に存在(い)ると言う、煩悩の守護者――〝一〇八番長〟が、一人ひとつずつ持つ……〝煩悩珠(ぼんのうだま)〟!
あのシルクハットの怪人は、そんな一〇八分の一、に相違あるまい!
くそ、しまった。無理をしてでもネコを連れてくるんだった…!
俺は歯噛みした。ネコのいない俺には、今、この事態を見守ることしか出来ない。
くそ、焦りは禁物だ。ジャガーと呼ばれた男が番長であるのは確実だが、月ノ輪が番長かどうかは、まだ判別がつかない。
それに、どっちにしろたったひとりの俺には何も出来ないのだ。
くそっ。くそっ!!
煩悩珠を少なくとも一個、こんな目の前にして、何も出来ないとはッ!
くそッ、もう俺は二度とネコを手放さない。首輪のほうだけ外れる仕様の鎖なんか、意味なんか無い。
手に巻いたこの重くて邪魔なだけの鎖を、俺は今、憎々しげに見つめることしか出来ない。
くそ。俺は再び角からこっそり顔を出した。
若者がジャガーと、月ノ輪を背にしたまま対峙していた。
「ジャ…ジャガー……」
「番長はワタクシです。ま、番長なんて単語、汗臭くて好みじゃないですから、男爵と呼ばせていますがね」
若者は再び月ノ輪に向き直り、
「番長!」とすがりついた。
月ノ輪は一層、視線を逸らしている。
ジャガーと呼ばれた男はあからさまに人を蔑んだ笑みを浮かべた。
「どっちにしろ、月ノ輪クンが、番長でないことは確かです」
月ノ輪は無言のままだ。肯定も否定もない。
とうとう月ノ輪が頼りにならないと判断した若者は、そこへ立ち尽くして何もしない月ノ輪を避けるようにして、出口――つまり俺のほうへ駆けた。
やっべ。逃げないと。そう思ったけど、なぜか、目線が離せなかった。
「芽が出ますよ」
ジャガー男爵が呟いた。若者を指差しながら。
それを合図に、走った若者が一瞬うずくまり、
「うっ」と小さくうめくと、今度は逆にばね人形のように跳ねた。
芽? 芽って??
その答えはすぐわかった。答えは若者自らが提示した。
こちらへ向けた若者の顔から、具体的に言えば鼻や口、目、耳。顔の穴という穴から急速に、植物の芽――もはや蔓(つる)と葉と言っていいかもしれないものが伸びて出て来たのだ。
「番長奇術! 〝聖餐生産(グリン・グリーン)〟!」
そう叫び、高笑いするジャガーの目の前で、若者から、まるで植物の成長の早回し映像を見ているようなスピードで、芽が、蔓が、葉が、伸びていく。
――やがて、若者の首や手や足、目に見える肌からぽろりぽろりと球形のこぶが出来、膨らんで、落ちていく。
服に隠れた場所からも同じ現象が起きているのだろう、球形のこぶが衣服の布を押し上げ、裾からこぼれていく。
そのこぶに見えるものは、ジャガイモだった。
ジャガイモが成長し、こぼれる度に、若者の顔や身体は、みるみるうちに痩せ細って行く。
これも人がミイラになる過程の早回しを見ているようだった。
――ジャガイモに養分を吸われたということか。
顔から出た芽も茶色く萎れ、若者は完全な老人に成り果て、力無く地面につっぷした。
彼の足元には、バケツ三杯ほどのジャガイモが転がっている。
月ノ輪はただ、その様子を見ていただけだった。
ジャガー男爵は得意げにヒゲを撫で付け、月ノ輪にねめつけるような目線を浴びせた。
「やりなさい」
その一言で、工場の扉から巨大な鍋が出てきた。三人の男が、苦悶に耐える顔で鍋を持っている。その大きさは直径二メートルほど。工場に潜入した時確認した、あの油鍋だった。
当然鍋の中身は油だった。ぐつぐつと煮えたぎる、巨大な揚げ油鍋。
「やりなさい」もう一度ジャガーは言った。
月ノ輪がやっと身を動かした。
何も持たない手を構えた。
握った拳にぐっと力を込めたかに見えた瞬間、月ノ輪の拳から四本の鉤状の鉄兵器が生えた。
――ベアークロー。
何で見たか覚えてないが、あの武器の名は、そんな名前のような気がする。
ジャガー男爵は若者から生まれたジャガイモの一個を手に取り、作物の出来を確認するかのように吟味した。
そして山積みのジャガイモをおもむろに胸に抱え、空へ放った。
月ノ輪のベア―クローが空中に一閃きらめいた。
空中のジャガイモは全てきれいにスライスされ、油鍋に落ちた。
パリパリと、高温の油に揚がるスライス・ジャガイモの音がする。
俺は一体何をしているのか。
そりゃあ〝煩悩〟は欲しい。
しかし、今、俺一人では何も出来ない。ただの子どもだ。
――でも。
でも何か。この心に去来するものは何か。
月ノ輪への非難?
ジャガー男爵への罵り?
若者への同情?
その全てかもしれないし、どれも違うかもしれない。
少なくとも、それらを理性的に考えているような時間でなく、ある一瞬間に、急に俺の足は、自然と前へ出た――のだが。
「!?」
俺の小さな身体は誰かに掴まれ、元の位置に戻された。
焦った。それはつまり俺の背後に、俺に気取られずに立っていた奴がいたということだ。
振り向いた。
そこにいたのは――俺と同じ、無表情で無口の男、シャケだった。
「なっ?」と叫びかけた俺の口を、シャケはそのぬらりとした手で塞ぐと、ゆっくりと首を振った。気持ち悪く。
これは確かに「何の意思表示だべや」と尋ねたくもなる。まぁ、おそらくは黙れ、動くな、で間違いないとは思うのだけれど。
そして俺はそのままシャケに連れられて、工場の外へと出た。
今の俺は、ネコ無しでは何も出来ないに等しい。
シャケも俺を何も出来ない子どもと判断して、外に連れ出したのだろう。
……くそ。
俺は今はまず、ネコの所へ行こう。
そして再びここへ戻らねばならない。
シャケと共に月ノ輪の小屋へと戻る。
俺はふと工場を振り返った。
門が開きっぱなしのルーズな門。このセキュリティの甘さには、理由があったのだ。
逃げる者は、ジャガーのあの能力でジャガイモの養分にしてしまえばいい。
潜入する者は、その能力(ちから)――〝聖餐生産(グリン・グリーン)〟を目の当たりにして、戦慄するもよし、喧伝するもよし、どちらにしろジャガーの名を高めることになるだろう。
くそ。くそったれ。