『有りやァ~~~アァ、無しやァ~~~アァ……』
……なんだ?
『有りやァ無しやァ~~~アァ、幻のォ~~~オォ。無有(ムゥ)大陸よりおン出(いで)てェ~~~エェ。波間にィい、揺れるはァ~~~アァ、男とォ~~女ァ~~~あ……』
唄声(うたごえ)が聴こえる。
『二つの影ェ~~エのォ~~~オォ、向かうる先はァ~~~ア、北か南か東か西かァ~~~ア……。さてェ~~エもォ語らン~~~ン、聖者のォ~~~旅ィ路ィ~~~………………………………』
あれはロックンロール琵琶法師の唄声だ。
いや、聴こえるはずもない。
こんな嵐の洋上に、遠く無有(ムゥ)大陸の乞食坊主の唄う声が聴こえるわけがない。
俺はネコを見た。
ネコは俺より不安だろう。洋上に舞う木の葉のような俺達のイカダは、暴風波浪に翻弄され、もはや方角どころか正しい天地の方向すらわからない。その上ネコは視覚を奪われているのだ。
ネコは太いハチマキをしている。目もヒタイも隠すくらい太く白いハチマキには、黒マジックで目の模様が描いてあり、その稚拙な瞳でこちらをのぞきこまれているような感じがして、時々俺は不思議な気分になる。以前の俺なら爆笑してしまうところなのだろうが、病気のせいだ、ふとそう思うだけで心の中身は表情に現れない。
ま、今は笑う場面ではないけれど。
もうロックンロール琵琶法師の唄は聴こえない。
今俺の耳に聴こえるのは、風と、波と、雨と、雷鳴と。
もちろん目に見えるのは、風に舞う水しぶき、十メートルを越える波山、横殴りの雨粒、時折光る稲褄。
はっきりいって生命の危険。
俺は、志半ばにして死ぬのだろうか。
俺が死んだら皆はどうなるのだろうか。
あのくそ坊主――ロックンロール琵琶法師の唄だけは、別に聴こえなくなってもいいけどさ。
俺の心を見透かしたように、ネコは口許にうっすら笑顔を浮かべてこちらを見た。
見えない目で。てきとーな落書きの瞳で。
「大丈夫よ、ボンノ。アタシらは助かる。きちんとつかまっていなさい。ほら、もっとこっちに」
俺はネコに身を寄せた。
くそ。こんな時に、こんな時だからこそか、俺はネコに対して身長のコンプレックスを感じている。
俺はネコの肩に手を回し、このおんぼろイカダのマストごと自分の身に抱き寄せた。
冷たく濡れたネコのセーラー服は、ごわごわとして掴みにくい。
俺は詰襟、ネコはロングスカートのセーラー服。服装は変わらないのに、どう見てもオトナと子ども。もちろん、オトナはネコで、俺が子ども。
くそ、くそくそ。
この落書き目のくそ女。
波しぶきに濡れた髪に、肌に、その笑顔。
今俺達は生死の境にいるんだぞ。
なんだってそんな顔で見る? 生意気だ。
俺は右手首の手錠から伸びた鎖を引っ張った。
ジャラッ。
鎖はネコの首輪に繋がっている。その鎖の音に動揺したネコは、
「放さないでね」と呟いた。
その声色に不安の色を帯びているのを感じ、少しだけ満足した俺は、ふと空を見た。
雲がうねっていた。黒く大きな蛇がとぐろを巻く姿にも見える。
その隙間から、白い光が見える。
稲褄は蛇の長い舌。チロチロッとこちらを伺っていたが、一瞬の静寂の後、稲褄は不意に俺たちのイカダへ襲いかかってきた。
耳をつんざく、なんてウソだ。
どん、と小さな音がして、気がつくと俺達は空中に投げ出されていた。
もう何の音もしなかった。
ゆっくり、ゆっくり俺達は空中を漂い、やがて海中へ沈んだ。
ただ一度、俺の右手が引っ張られた。手錠だ。もちろんその先にはネコの首輪があり、ネコがいる。
鎖を伝い、俺達は抱き合った。
抱き合いながらただ水の流れに身を任すしかなかった。
そして、俺は意識を失った。