僕といっしょに仕事をしよう―森田 雄|WD ONLINE

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Era Web Architects プロジェクト

僕といっしょに仕事をしよう―森田 雄

Era Web Architectsの今回のゲストは、株式会社ツルカメの代表取締役でUXディレクターをされており、株式会社ネコメシの経営もされている森田 雄氏。IA(情報設計)やUXデザインの専門家で、企画やプロジェクトマネジメントの支援などをされている。今回は、自身の学生時代からエピソードを振り返りつつ、Webに対するおもいを熱く語っていただきました。
(聞き手:坂本 貴史、郷 康宏 以下、敬称略)

森田 雄 プロフィール

高校入学時にパソコンを買ってもらい、ひたすらキーボードを触る。高校のときのチーマー時代に雑誌の投稿職人として有名になり、自身でもパソコンサークルを開設する。パソコン通信仲間と会社を作り、警備士をしたり、父親の会社のサッシ組み職人になる。その後、人材斡旋会社で運命的な出会いがありマイクロソフトに入社。新規事業のモバイル端末向けソフト開発に参加し、同時期に趣味でしていたWebデザインに傾倒する。MLでの知人らによるWebデザイン会社の設立に参画し、現在はその後に自身で立ち上げた会社を経営している。


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高校受験に合格し、パソコンを買ってもらう

坂本:学生のころは何されていましたか。家にパソコンはあったんですか。

森田:中学までは勉強の成績が良く、高校受験時の偏差値が高かったんです。狙っていた高校に入学したときに、親にFM TOWNS(富士通のパソコン)を買ってもらいました。ソフトとかは買えなかったので、はじめからついてくる「TOWNS OS」にあるペイントソフトで絵を描いてたり「TOWNS GEAR」でプログラミングをしました。一番はまったのは、文章(小説とかコラムなど)を書いていたことです。キーボードを触っているのが嬉しかったんですね。MS-DOSの説明書を全ページ見てコマンドを打ってたりもしていましたからね。
 

自分でパソコンサークルを始め、専門学校へ

坂本:パソコン通信のようなものはやっていたんですか。

森田:雑誌『Oh!FM TOWNS』に仲間募集のコーナーがあり、パソコンサークルを自分ではじめようと思いました。
もともと『ファミ通』の投稿職人だったこともあり、『Oh!FM TOWNS』にもハガキを100枚くらい送って掲載されていたので、読者コーナーではちょっとした有名人だったんです。すぐに会員は集まりましたが、パソコンをほとんど使わない同人サークル的なことをしていて、会報誌は紙に書いて記事を切り貼りした冊子を作り、コピーして送っていましたね。それを高校三年間やってました。

坂本:そこから専門学校に行ったんですか。ネットの授業とかもありましたか。

森田:高校生活がパソコンサークル漬けだったこともあり、あんまり勉強をしなかったんです。高1のスキー旅行で骨折してから学校に行かない時期があり、高2に上がったときには少しグレていましたね。当時始まり出したチーマーみたいなことをしていました。高校卒業してもすぐに働きたくなかったので、当時できたばかりのゲームクリエイターの専門学校に行くことにしました。インターネットの授業はなかったです。教えてもらうことにメリットのあるコースを選ぼうと思い、プログラミングコースを選択しました。CとC++とアセンブラのコードをノートに書くような授業もありました。入学したときに、Mac(LC475)を購入するように仕向けられるんですが、授業ではまったく使っていなかったです。
 

東芝EMIでゲーム制作に関わる

坂本:バイトとかはしてたんですか。

森田:当時、CCDVPというCD-ROMドライバを販売しているノバックという会社にバイトに行きました。ホームページの担当で、取り扱っている商品のパッケージをスキャンしてサイトに掲載するとかをしていましたね。Netscape2.0が出たばかりの頃で、コーディングとかグラフィック処理も自分でやっていました。その会社が東芝EMIと取り引きがあったため、東芝EMIならゲームも出しているなと思い、社長に無理やり紹介してもらい移籍を果たし、マルチメディア制作部に配属されることになりました。パッケージデザインをしたり、説明書を作ったりしていました。Macromedia Directorでオーサリングする経験もあったので、ゲームとは言い切れませんが「Nゲージワールド」というタイトル作品の開発には関わらせてもらいました。

坂本:そこからどこに行くんですか。

森田:東芝EMIにいた時期ですが、NIFTY-Serveで猫好きな仲間が集まっているフォーラムがあり、そこによく出入りしていました。そこで知り合ったパソコン通信廃人みたいな人たちと一緒にネットワークエンジニアリングコーポレーション、愛称が猫会社というのを設立しました。が、それだけだと収入的に生きていけなくなってきたので、警備士のバイトを始めています。警備士の仕事はめちゃくちゃおもしろかったのですが、その後、父親がやっている会社でサッシ組み職人をすることになります。業務的に車が運転できるといいとわかり、合宿免許で運転免許をとるのですが辞めてしまいます。

というのも免許をとった直後くらいに、専門学校時代の同窓会があり、そこで有給休暇やボーナスとか社会保険について自慢されたんですよね。それで、やはりコンピューターを使う会社で正社員にならないとだめだなと思い、同窓会の帰りに求人誌「Tech Being」を買ってきて、片っ端から面接し、システムセンターという会社に受かり行くことになります。
 

マイクロソフトでの出会い

坂本:どういう仕事だったんですか。

森田:客先常駐の開発会社で、COBOLエンジニアの案件ばかりだったのですが、COBOLはやりたくなかったので、ずっと断って待機所にいました。2カ月後、CSKからテストエンジニアの仕事で出向する案件があり、マイクロソフトの面談に行くことになります。面談してくれたのが現アユダンテ社長の安川氏だったのですが、幸い受かることができました。

そこでは新規事業に参加することになります。モバイル戦略統括部の第一号社員として参画するわけですが、当時富士通から初のi-mode端末が出ることが決まっていて、その端末上で動くグループウェア(Microsoft Exchangeクライアント)のASP開発を予定していました。

坂本:具体的には、どういうことをされていたんですか。

森田:当時はまだi-modeの技術資料とかは入手しづらかったので、まずはWindows CE向けに小さい画面におけるUIの研究をはじめました。僕は安川氏のアシスタントPMでありプログラマーでありUIデザイナーでした。結果、開発できたのでリリースはするんですが、当時、ドコモとマイクロソフトがモビマジックという合弁会社を作っていて、そこで事業を継続する話になったため、モビマジックに移籍する話が出てきます。ただ、僕はWebデザインの仕事に興味があったので、モビマジックの話はお断りしたんですよね。今思えばもったいなかった気もしますが(笑)。
 

ビジネス・アーキテクツとその後

坂本:ビジネス・アーキテクツについては、立ち上げからどういう関わりだったんですか。

森田:Webデザインの界隈で有名人だった福井信蔵氏のところ弟子入りしたのですが、同時期にビジネス・アーキテクツ(bA)設立の話があり、丁稚的に勉強させてもらうというよりはふつうに最初の社員としての参画でした。前職がマイクロソフトだったこともあり、社内サーバー管理やExchangeを導入してネットワークの管理などインフラ面のほうまで僕がやっていましたね。

当時、bAはスター集団だったので知名度と実力は日本一だったと思うんです。自分が参加していることに誇りもありました。僕は1000人くらいの会社にすることを考えていたので、そのために組織デザインの勉強とかもしていた感じです。

坂本:結果、どれくらい規模は拡大したんでしたっけ。

森田:初期は20人くらいかな。その年末には40人くらいになっていて、上場を目指していたこともあり100名近くにはなっていきましたね。その後、上場に失敗して解体の危機に見舞われるんですが、そのタイミングで取締役になり、会社が瓦解するのを防ぎました。そしてもう一度上場を目指すんですが、諸般の事情でまた失敗し、再び立て直しをしないといけないことになりまして、今度は社長代行を務めました。このように幾度となくbAの立て直しをしていたのですが、これまた諸般の事情で退職することになります。正直、僕が辞めることになった時点で、最初のbAは終わったと言っていいと思います。実際その後bAはBAにリブランディングしていますし。僕自身はbAにいたことでものすごく成長しました。新規事業もたくさんやったし、大規模サイトの構築も多くやったしプロジェクトマネジメントもIAもできた。コンペに勝ちまくる経験などもあり、今思うと学びしかなかったですね。

それから1年くらい無職をして就職活動をしてました。そのときに現在の専務であるトザキ氏と話をする機会があり、現在経営しているツルカメを設立することになります。またその後、bA時代のつながりでもある春日井氏と二人代表でネコメシを設立しました。
 

IAやアクセシビリティへの傾倒

坂本:IAとかアクセシビリティにフォーカスしていったキッカケはあったんですか。

森田:bAは、ビジュアルデザインやインタラクションデザインができる優秀なデザイナーはいたのですが、情報設計が苦手なところがありました。とくに、大規模サイトになると情報が膨大で綿密に設計しないと溢れてしまいます。それを誰が整理するのかといった問題もあったので、(そういう)大変なところは全部オレがやると抱え込んでIAのほうに傾倒していくことになります。

アクセシビリティについては、この先もずっとWebデザインをするんだろうと僕自身思っているので、年をとってもやりたいし、ずっとやれるための仕事として見ていました。bAは、当時一番社会に影響をもたらすWebを作る会社だと思っていたので、そのbAがアクセシブルなものを作れば、社会にいい影響を与えられると考えていましたね。

僕のアクセシビリティに対する気持ちの源泉は、bAで培われたし、そういう世界観の視点を持っていれば(今はbAではないですが)今後もそのおもいは変わらないと思います。
 

プロダクト寄りのことを目論見ながら無職をしている

 郷:もし今2021年に20歳だとしたら、何をしていると思いますか。

森田:多分無職だと思います。僕のベースは社会不適合者だから、社会のレールに乗れていないと思いますね。乗れていないけど、なんか面白そうなことには興味を持っていて、当時だとパソコンの仕事が珍しかったというのがあるので、今の時代で珍しそうなものを狙っている可能性はあると思います。

現職に近い界隈であれば、VRとかAR系な気もしますね。それらと医療系とをどう結びつけるのかあたりとかは新しい感じがしますね。サイバー系のプロダクトとか、なんらかプロダクト寄りのことかな。そのへんのことを目論見ながら無職をしていると思います。
 

僕をぜひ利用してほしい、僕は利用されたい

坂本:Webやインターネット業界に対してメッセージをいただけますか。

森田:僕もなんだかんだ25年くらいこの仕事をしているので、今さら他のことはできないと思います。だから、この先も何らかのカタチでWeb屋をしていると思うんです。しかしひとりでできることは限られてますから、僕といっしょに仕事しよう、という感じです。

つまり僕をぜひ利用してほしいし、僕は利用されたいと思っているということです。

受託業者として今後も生きていきたいと思っているので、いろんな仕事をしたいし、いろんな人たちと関わりたい。いろんな分野においてWebの専門家というカタチでコミットしていけたらいいなと思っているので、僕をいっぱい利用してほしいなと思います。
 

この記事は、オンラインインタビューを抜粋して書き起こしています。インタビュー全編をご覧になりたい方、ぜひYouTubeチャンネル「Era Web Architects」をご覧ください。
Era Web Architects オンライン #21(ゲスト: 森田 雄)
https://www.youtube.com/watch?v=MP6k3p2GiI8

Era Web Architects プロジェクトとは

『Era Web Architects』プロジェクトは、発起人の坂本 貴史を中心に、インターネット黎明期からWebに携わり活躍した「ウェブアーキテクツ」たちにフォーカスし、次世代に残すアーカイブとしてポートレート写真展を企画しています。
公式YouTubeチャンネルでは、毎週ひとりずつ「ウェブアーキテクツ」へのインタビューをライブ配信しています。本記事はそれをまとめたものです。


・公式ウェブサイト (https://erawebarchitects.com/)
・公式Youtubeチャンネル (https://www.youtube.com/channel/UClJ4OvlhOzkWwFhK-7NJ0CA)
・Facebookページ (https://www.facebook.com/Era-Web-Architects-100739284870438)

インタビュアー プロフィール
坂本 貴史(『Era Web Architects 』プロジェクト 発起人)
グラフィックデザイナー出身。2017年までネットイヤーグループ株式会社において、ウェブやアプリにおける戦略立案から制作・開発に携わる。主に、情報アーキテクチャ(IA)を専門領域として多数のデジタルプロダクトの設計に関わる。著書に『IAシンキング』『IA/UXプラクティス』『UX x Biz Book』などがある。2019年から株式会社ドッツにてスマートモビリティ事業推進室を開設。鉄道や公共交通機関におけるMaas事業を推進。

郷 康宏(『Era Web Architects』プロジェクト オンライン配信担当)
2010年以降、ビジネス・アーキテクツ(現BA)を経て本格的にWebの世界へ。2015年までネットイヤーグループ株式会社において、コンテンツの作成からリアルイベント実施、SNSやWebサイトの運用まで幅広く手掛ける。2016年よりKaizen Platformにてクライアント企業の事業成長を支援。肩書は総じてディレクター。