宮古島で、皆が集える場所を作る―神森 勉|WD ONLINE

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Era Web Architects プロジェクト

宮古島で、皆が集える場所を作る―神森 勉

Era Web Architects 今回のゲストは、ずっと独学でWebと関わり続けていた、神森 勉氏。現在は沖縄の宮古島で滞在しながら、主に会社のWebサイトの管理と運営をしています。Webに魅了されてからの様子や、インターネットに関わっていった経緯を語っていただきました。
(聞き手:坂本 貴史、郷 康宏 以下、敬称略)

神森 勉 プロフィール

インターネットの存在に衝撃を受たことで、5年勤めた商社の営業マンを辞め、静岡の印刷会社に転職。Dreamweaverを使いながらコーディングに携わり、ディレクターや一時マネジメントにも励んでいた。本の執筆・雑誌の連載・講師などでも活躍し、2021年の冬から沖縄にある宮古島に滞在しながら、自社Webサイトの管理と運営をしている。


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当時はWebとかけ離れた、商社の営業マン

 郷:当初インターネットができたとき、どこでどういう風な活動をされていましたか。

神森:90年代後半、Windows 95がちょうど出た頃、僕は新卒入社の商社で営業マンをしていました。最初の勤務先は東京の日本橋の本社でしたが、入社後3年目で静岡に転勤を命ぜられ、そこでずっと営業をしていました。Windows 95が世に出た時には、大ニュースになっていました。たまたま当時東京にいた同僚とパソコンの話をして、インターネットをやりたくてWindows 3.1の入った一体型のパソコン(コンパック「PRESARIO」)を買い、Windows 95をインストールしてインターネットに参加しました。

それが最初に買ったパソコンで、それまでは、帳票出力用にオフコン(オフィス・コンピューター)を触ったり、タイに短期出張に行った際にPC98かなんかで一太郎や花子を触ったことがあるくらいでした。

当時のインターネットブラウザはNetscapeで、大学の後輩からインターネットというのがあることを教えてもらいました。その彼がHTMLを書いて「これでインターネットに表示させて、世界に向けて発信できるんだよ」と見せられ、頭に稲妻が走るような衝撃を受けました。「これは自分でやってみたい」と思い、それがある意味インターネットと関わっていくスタートだった気がします。

その彼からの紹介で、5年務めた商社を辞めることにし、Macが触れるということで静岡県の印刷会社で働くことにしました。
 

印刷会社でMacを触り、Web部門を立ち上げ

坂本:その印刷会社では何をされていましたか。

神森:僕はオペレーターの作業が多くて、自分でデザインするよりは、デザイナーが作ったデザインを割り付けていました。最終的にはMac(Power Mac)で、IllustratorやPhotoshop3.0も触れるようになり、QuarkXPress(DTPソフト)を扱っていました。

家ではWindowsを使い、購入したHTMLの本を見ながらちまちまホームページを作っていました。当時はまだHTML用のソフトを使わないで手書きでコーディングし、プロバイダーの貸し出しスペースで、自分のサイトを公開していました。
その経験を当時の社長が知ったことで、先輩とWeb部門を立ち上げることになりました。会社の年賀状の注文受付のサイトを同僚と作ったり、東京の代理店から「ジャケ写をたくさん並べてタイトル書いて」という仕事を受けて、ECページを量産したりもしていました。

コーディングは、最初はテキストエディタやJeditを使っていたのですが、Dreamweaverを使い始めてからはもう戻れなくなりました。ビジュアルで作っているのに、きちんと裏でコードをはいてくれるというのは良かったです。
 

Dreamweaver との繋がり

坂本:Macromedia(当時のDreamweaver発売元)とは、どういうカタチで繋がったのですか。

神森:Dreamweaverの情報は、『MACLIFE』(パソコン雑誌)で知りました。当時まわりにはパブリック・ベータ版を触っている人もいないどころか、Webを作る人もいませんでした。

初めてDreamweaverを触ったころ、インストールされているフォルダを見ると、アプリケーションの構成ファイルのほとんどがHTMLファイルでした。Dreamweaverの操作パネルの構成全てがHTML・JavaScriptで作られていたのです。それを知って自分でも作れると思い「メニューから省略」というのを選ぶと「ABBR」タグが追加されるパネルを最初に作りました。

それを当時Macromediaが運営していたニュースグループに投稿したことがキッカケでMacromediaの方と繋がって、Dreamweaverの話をしたりイベントに招待してくれるようになりました。東京に来る直前くらい(Dreamweaver MXが出るときに)、Adobe Contribute(コンテンツ管理システムアプリ)のリリース時のセミナーで、はじめて講師をやりました。

その後、静岡の制作会社を経て東京の会社にきてからは、Macromediaで多くの講演をしたり、『Web Creators』(Web制作の総合情報誌)でHTML・CSSの連載を始めていたりしていました。
 

コーダーからディレクションする立場への変化

坂本:東京に来られてからは、どういう変化がありましたか。

神森:東京では、とにかくディレクションがほとんどでした。ディレクションしつつ受注サイトと原稿の納期に追われて、連載の記事を毎月1本あげていくのが最初の数年でした。ディレクションとしては、営業の方たちと一緒に企画を考えていました。当時の会社といえば比較的縦割りされていて、営業の方にもざっくりとある程度プランを考えた上で提案してもらう形でした。

やっていたことは具体的には、Dreamweaverを活用しながら、内部的な検証でコード周りを見たり、ページを量産するための拡張機能を同僚に作ってもらったりしていました。ツールを使って、極力制作の工数を減らすようにしていましたね。

坂本:ディレクションする立場に変わった一方で、自分でWebを作ることをしなくなったわけですよね。抵抗などはありませんでしたか。

神森:自分自身が次のステップに行く時に、「ずっとコーディングにしがみついていて良いのかな」と考えたことがありました。やはり若い人たちやメンバーに頑張ってもらわないといけないなと思ったので、コーディングを手放すこと自体は、まったく抵抗はなかったです。

コーディングを始めてから10年ほど経っています。2007年、2008年、2009年と年ごとに、どんどん技術も変わってくるわけです。コーディングは自分の根底にあるものの、今後はこれから背負っていく人たちに任せてしまって良いのではないか、というところはありました。
 

Webサイトを動かすお客さまの存在

坂本:さらに事業会社に変わるタイミングがありますが、そのキッカケや経緯を教えてください。

神森:Webサイト構築の仕事をして、お客さまが(ビジネスを)成功していただくというのは、それはそれでとても嬉しいし楽しかった。けれどもやはり、自分自身が中の人としてWebサイトを運営してみたい、という気持ちもどこかにありました。単に発注側になりたいということではなく、Webサイトを運営して結果を出すところを実際に体験してみたいと思うようになりました。

そう思ったきっかけは、ある大きな会社のWebサイト構築の仕事をしていたときです。しょっちゅうその会社に行って話をするお客さまがいました。お客さま自身が決断できるポジションにいたというのもありましたが、その方が会社のWebサイトを動かしているところを見て、非常にカッコいいなと感じていました。そういうのに憧れていたというのはあったと思います。

そのお客様と出会っていなかったら、もしかしたらずっと制作の仕事をしていた可能性もあります。そのくらいWebに対する向き合い方がカッコよくて、「これが中の人の向き合い方なのだな」というのを改めて分かったような気がしました。自分もこういうような人になりたいと感じました。
 

「本当にそれでお客さまが幸せになる?」を実践

坂本:それから事業会社に移られるわけですが、事業会社ではどのようなことをされましたか。

神森:1回自分自身をリセットさせようと思いました。会社を辞めたら、次はもう働き続けていくしかない。何ヶ月も休むのはもう死ぬまでないのだろうなと思い、あえてそこで数カ月休んで、何もしないことを決めました。そしてたまたま以前から知り合いだった、今働いている会社の副社長と再会して「会社のデザイン部門を見てもらえないか」という話をもらい、「手を動かさないでマネジメントに専念させてもらえないか」という希望を聞いてもらい今の会社に入りました。

会社に入ってからは、とにかく自分たちの立場をさらに良くしていくこと(底辺からの脱出)に専念し、デザイン部門を宣伝部門から切り離すことに取り組んでいました。他者からの依頼がきたら「本当にそれでお客さまが幸せになる?」ということを念頭に考え実践していました。

僕は自分から積極的に誰かのところに行って話をするというのはしていなかったので、コミュニティに集っているすごい人たちと話をした中で得た考え方みたいなものが、自分の中のベースにできているのではないかと思います。また当時は色々な方と会う機会があって、そこからの学びは本当に多かったと自分の中で感じています。
 

きっとWebを全力で楽しんでいる

 郷:もし今20歳だったとしたら、どのようなことをされていると思いますか。

神森:当時の自分が今いたら、本当に心の底からWebサービスを楽しんで作っているような気がします。20代から僕はとにかくWebを作ることが大好きで、当時のインターネットは自己表現のひとつのツールだと思っていました。「Hello World!」と書くだけで、世界中の人と繋がれると思っていたくらいです。

今のこの時代は、当時と比べて何でもできるわけです。何を作るのかは分かりませんが、手を動かして楽しみながらWebサービスを作っているような気がします。
 

宮古島にオープンワークスペースを作りたい

坂本:今のインターネットやWeb業界で働いている方々に対して、メッセージをもらえますか。

神森:今は、若い人たちにデザインなどにさらに興味をもってもらって、たくさんの人たちがコミュニティに参加してもらえるように、自分で何かできないかとボンヤリ考えてはいます。2020年の冬から僕は、宮古島の方で仕事をすることになります。これは完全に個人的な思いにはなりますが、宮古島に移住して、そこにデザイナーがたくさん集まれるような場を作りたいという思いがあります。
日本全国のWebやデザインに関わっている人たちが、ふと気付くと誰かがいて仕事をしている。そういうオープンワークスペースを作っていきたいなと思っています。僕はいつでも東京や全国どこにでも足を運ぶつもりですので、興味のある方は遠慮なく声を掛けていただければと思います。
 

この記事は、オンラインインタビューを抜粋して書き起こしています。インタビュー全編をご覧になりたい方、ぜひYouTubeチャンネル「Era Web Architects」をご覧ください。
Era Web Architects オンライン #6(ゲスト: 神森 勉)
https://www.youtube.com/watch?v=WsIQ8uR-WNI

Era Web Architects プロジェクトとは

『Era Web Architects』プロジェクトは、発起人の坂本 貴史を中心に、インターネット黎明期からWebに携わり活躍した「ウェブアーキテクツ」たちにフォーカスし、次世代に残すアーカイブとしてポートレート写真展を企画しています。
公式YouTubeチャンネルでは、毎週ひとりずつ「ウェブアーキテクツ」へのインタビューをライブ配信しています。本記事はそれをまとめたものです。
STAFF:羽山 祥樹(編集・監修)


・公式ウェブサイト (https://erawebarchitects.com/)
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インタビュアー プロフィール
坂本 貴史(『Era Web Architects 』プロジェクト 発起人)
グラフィックデザイナー出身。2017年までネットイヤーグループ株式会社において、ウェブやアプリにおける戦略立案から制作・開発に携わる。主に、情報アーキテクチャ(IA)を専門領域として多数のデジタルプロダクトの設計に関わる。著書に『IAシンキング』『IA/UXプラクティス』『UX x Biz Book』などがある。2019年から株式会社ドッツにてスマートモビリティ事業推進室を開設。鉄道や公共交通機関におけるMaas事業を推進。

郷 康宏(『Era Web Architects』プロジェクト オンライン配信担当)
2010年以降、ビジネス・アーキテクツ(現BA)を経て本格的にWebの世界へ。2015年までネットイヤーグループ株式会社において、コンテンツの作成からリアルイベント実施、SNSやWebサイトの運用まで幅広く手掛ける。2016年よりKaizen Platformにてクライアント企業の事業成長を支援。肩書は総じてディレクター。