僕らがなんでもできるのは、長く続けているから - こもりまさあき|WD ONLINE

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Era Web Architects プロジェクト

僕らがなんでもできるのは、長く続けているから - こもりまさあき

Era Web Architectsの今回のゲストは、フリーランスで活動中の こもり まさあき氏。コンサルティング、本の執筆、サイト設計、実装と、数多くのプロジェクトを手掛けています。インターネットにかかわった道のりから、現在の仕事まで語っていただきました。
(聞き手:坂本 貴史、郷 康宏 以下、敬称略)

こもりまさあき プロフィール

1990年代にDTP系デザイン会社でアルバイトしながら、20数年前はアングラ界隈に生息していた。現在はフリーランスとして活躍中。自分がこなせる範囲の業務であれば、基本的に仕事は引き受ける。特定の肩書きはないものの、よく周りから頼られて業務にあたることが多い。



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「勉強はダメだ」と思っていたとき「Macならいけるかも」

  郷:こもりさんは、どこでどのようにインターネットと出会いましたか?

こもり:まずMacを買うためカラオケ屋のバイトで30万円稼ぎました。Macintosh Color Classicを購入して、独学で勉強していました。Macを買おうと思ったのは、コンピューターグラフィックスをやってみたかったから。そのころは歌手の藤井フミヤさんが「フミヤート」をやっていた時期で、僕もやりたいと思いました。大学の授業で単位を落として「勉強はダメだ」と思っていたとき、「Macならいけるかも」と考えて購入しました。
Photoshop 3.0が世に出るころに、後に就職する出版系デザイン会社にバイトで入りました。会社では「デザイナー」というきちんとした肩書きはもらえませんでした。デザインの仕事をするには、デザイン学校や美大を出ていないとダメと言われていて、ハードルが高かった。ただ入社自体は「Macを使えれば入れる」という感じでしたので、そこから入ったところはあります。

 坂本:当時どのようなデザインや仕事をされていましたか。

こもり:日経BPとかアスキーなどに関わっていました。それ以外は企業のパンフレットを作成していました。つくる作業はわりと好きで、会社を辞める直前には「一週間でマスターする」シリーズを担当していました。毎日コミュニケーションズ(現:マイナビ出版)で出ていたやつです。カバーなどもつくっていました。DTPソフトの「QuarkXPress」や「Adobe PageMaker」で作業していました。
IIJ(インターネット接続を初めて開始した会社)ができたころに、会社にもインターネットの線が引かれました。僕自身はその前から、ハイパーメディアクリエイターの高城 剛さんが運営していた「フランキー・オンライン」をよくやっていました。慣れ親しんでいたので、Webへのとっかかりは早かったです。
1995年には、デザインの仕事でWindows 95のマニュアルを修正したこともあります。Windows 95が登場すると、多くの企業がWebサイトをどんどん立ち上げていきました。僕も知り合いに頼まれて、副業で某企業のサイトをつくったりもしていました。
 

アングラ系に生息しながら仕事の幅を広げる

 坂本:当時、Webのコミュニティには参加していましたか。

こもり:アングラ系の掲示板に参加することが多かったです。アングラ系に入ったきっかけは、会社でサーバー管理の仕事をしていたから。アメリカの独立記念日に、会社の専用線にDoS攻撃(大量アクセスによるセキュリティ攻撃)がきて、敵を知って対抗しようと思って、アングラ系を見るようになりました。
そのうち裏のコミュニティで、企業の社長や業界の人たちから「ミュージシャンのプロモーションツールをつくってください」と頼まれるようになりました。当時はネットにつなぐ費用も高額だったので、良い役職でお金を持っている人じゃないとつなげなかった。だから、ネットでいい人脈がつくれたんです。副業がてらNapster(2000年ごろに隆盛した音楽ファイル共有サービス)のスキンなどをつくっていました。
 

偽名を使って隠密活動で本の執筆

 坂本:こもりさんは、書籍をたくさん書かれていますよね。執筆されたきっかけや、何冊ぐらい書かれていたのかをお聞かせください。

こもり:出版系のデザイン会社でしたので、コネクションがたくさんありました。当時は、エロやアングラの書籍がたくさん出ていて、本が1本当たると、みんなも出したくなる。そこで僕にも個人的に「書かないか」と話がきました。アングラ系の本を一冊、それからADSLやストリーミングについての本も書きました。会社の仕事とはまったく別の個人ルートで、偽名を使って完全に隠密活動で執筆していました。
 

ひとり情報システム担当で社員旅行にも行けない!

 坂本:出版系のデザイン会社は、いつ辞めたのですか。また辞めたきっかけなどはありますか。

こもり:出版系のデザイン会社を辞めたのは2001年です。辞めたきっかけは…いまでは笑い話なんですけれど、社員旅行に行けなかったからです。
そのころ会社が部署採算制になったんです。そうしたら「自分たちの部署の売り上げで社員旅行に行きなさい。前の年度の売り上げに応じて行き先が変わります」という制度に変わった。そして部署採算制に変わったとき、ネットワーク管理部署の所属員は僕ひとりだけでした。
「他の部署の社員旅行についていけば?」と言われたのですが、僕が旅行に行ってしまって、誰もいないときにネットワークの問い合わせがきたら、結局は僕がサポートしなくてはいけない。「行けるわけない!」となりました。
これがきっかけで「覚えることは覚えた。そろそろ辞めてWeb業界に転職しようかな」と思うようになりました。

 坂本:それからどうなったのですか。

こもり:こもり:アングラつながりの人脈から「フリーランスとして働いてくれる人を探している」という話がきていました。当時はWebサイトをつくるにも費用が高かったので「企業に頼むのは高すぎてキツイから、フリーランスでやれる人がいないか」と探していたらしいです。それで「僕がやるよ」といってやり始めました。
最初の仕事はレコード会社でした。当時BMG JAPANという外資系のレコード会社があって、その仕事をメインにWeb制作をしていました。BMG JAPANは各レーベルごとでWebサイトをもうけていたので、1レーベルごとにサーバーを丸ごと管理するかたちでやっていました。
サーバーの管理はデザイン会社でもやっていたので、仕事自体は同じでした。その延長線でしていました。
 

「こもりまさあき」として技術書の執筆をはじめる

 坂本:この辺りから「こもりまさあき」という、今の名前が出てきますよね。何かきっかけがあったのですか。

こもり:きっかけは30歳のころです。前職の編集プロダクションから「Webデザインの本を出さないか」という話がきました。
当時の技術書はテクニカルライターと呼ばれる人たちが書いていた。技術的に正しいことは書けても、世にあるWebサイトのようなきれいな見た目にはなっていなかった。40歳を過ぎた人たちが書いていたので、「若い人に書いてもらいたい」という話で、僕に白羽の矢が経ちました。それで技術書を書き始めました。
ブログデザイン本から書き始めました。僕はWebデザインもやっていて、携帯サイトの立ち上げにかかわったり、運営を手伝ったりしていたからです。当時のWeb制作はギリギリ一人でもできるくらいの規模。このあとWebはもっと複雑になったり規模が大きくなったりして、2020年のいまではひとりですべてこなすのはなかなか難しくなりました。
きちんと名前を出して出版するうち、いくつも技術書の執筆依頼が来るようになりました。

 坂本:フリーランスとして「こもりまさあき」名義で活動されるようになり、肩書きや役割は何か変わりましたか。

こもり:肩書きや役割は、プロジェクトごとにまったく異なります。携帯サイトの制作でも、システム・写真撮影・壁紙制作・携帯電話向けのFlashをつくるなど、いろいろと担当していました。プロジェクトによって、まったく違うことをしています。
本を書き始めたこともあって、Web系の雑誌では、Webクリエイターやデザイナー向けの記事を書いていました。そういった雑誌では他に原稿を書ける人があまりいなくて、締め切りギリギリになって依頼がくるケースも結構ありました。やんごとなき事情で書けなくなったとか、1ページ足りないとか(笑)。そのようなときに連絡がきて、ヘルプで書いたりもしていました。

自分でできる保証がないと責任をもてないと思う

 坂本:今まで順調にずっときているように見えますが、大変だったことや困ったことはありますか。

こもり:仕事で困ったことは、さほどありません。ただ、むかしは日々の暮らしに苦労したりもしました。仕事がないと、生活のバランスをとるのに苦労します。本をいくつか書いていても、出版が遅れる可能性もある。書き終わっても、お金が入るのは2~3ヶ月後です。うまくバランスをとりながら、制作の仕事もしつつ、本も執筆しつつというのは、なかなか難しかったです。
自分ができないことは、基本的にお請けしません。勉強してからやるというタイプの方もいますが、僕はダメで、自分でできる保証がないと責任をもってやるのは難しい。そのかわり致命的に困るというケースはあまりありません。もちろん、たまには失敗することもありますが。
仕事の入口はあまり広く開けていないので、クライアントは、知り合いの知り合いくらいまでです。

プログラミングをイチから学び直したい

  郷:こもりさんは、いまこの時代で20歳だったら、どのようなことをしますか。

こもり:現在は現在で楽しいので、20歳だったとしても同じ仕事をすると思います。僕らが20歳のころよりは可能性もたくさん広がっていて、できることも多い。「やっていこう!」と思えばあちこちにいける。楽しく似たような仕事をしているような気がします。
「今は無理だけど、若かったらやっている」と思うものに、プログラミングがあります。僕は人生で幾度となくプログラミングに挫折しているんです。プログラミングの技術書が家にたくさんあるのですが、どれも読み進めていくうちに途中で止まってしまっている。積読がたくさん。
プログラミングは仕事でも少しはやっているのですが、きちんと学び直したい。なかでもバックエンドを、もっときちんとやっておけばよかった。長くやっていればいちおう理解はできていくものなので、20年も続けていれば、もう少しはうまくなっていたろうと思います。

継続することの強みを知ってほしい

 坂本:これからWeb業界に入る世代に、メッセージをお願いします。

こもり:これからの世代の人には「継続は力なり」と伝えていきたい。「ずっとやり続けている強み」というものあります。むかしからやっているから「過去の技術に新しいものが乗っかる」という感じでやることができる。うなぎのタレみたいにつけ足しつけ足しで、僕らはなんでもできるわけです。過去の蓄積があってのものなので、長く継続して、地道にやるのがよい。
僕はプログラミングができなかったので、若い人にはぜひ継続してもらいたいです。

 

 

Era Web Architects プロジェクトとは

『Era Web Architects』プロジェクトは、発起人の坂本 貴史を中心に、インターネット黎明期からWebに携わり活躍した「ウェブアーキテクツ」たちにフォーカスし、次世代に残すアーカイブとしてポートレート写真展を企画しています。
公式YouTubeチャンネルでは、毎週ひとりずつ「ウェブアーキテクツ」へのインタビューをライブ配信しています。本記事はそれをまとめたものです。
STAFF:羽山 祥樹(編集・監修)


・公式ウェブサイト (https://erawebarchitects.com/)
・公式Youtubeチャンネル (https://www.youtube.com/channel/UClJ4OvlhOzkWwFhK-7NJ0CA)
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インタビュアー プロフィール
坂本 貴史(『Era Web Architects 』プロジェクト 発起人)
グラフィックデザイナー出身。2017年までネットイヤーグループ株式会社において、ウェブやアプリにおける戦略立案から制作・開発に携わる。主に、情報アーキテクチャ(IA)を専門領域として多数のデジタルプロダクトの設計に関わる。著書に『IAシンキング』『IA/UXプラクティス』『UX x Biz Book』などがある。2019年から株式会社ドッツにてスマートモビリティ事業推進室を開設。鉄道や公共交通機関におけるMaas事業を推進。

郷 康宏(『Era Web Architects』プロジェクト オンライン配信担当)
2010年以降、ビジネス・アーキテクツ(現BA)を経て本格的にWebの世界へ。2015年までネットイヤーグループ株式会社において、コンテンツの作成からリアルイベント実施、SNSやWebサイトの運用まで幅広く手掛ける。2016年よりKaizen Platformにてクライアント企業の事業成長を支援。肩書は総じてディレクター。