ベック夫妻の「ピースフォー」
翌日は北上してカーヌスティでラウンド。キャディマスターに聞くと、キャディ・フィー35+チップ10=45ポンドとここも高かったが、前日までのアラン・ダンカンたちに比べて見た目もキャディらしくなく、すること為すことがもの足らなかった。カーヌスティ全体のキャディ・サービスのクオリティが低いのか、たまたま彼らが劣っていたのか妄断はできない。
軽くランチを頰張ってから一路ローレンスキャルクへ。
かなり詳細な地図を持っていたから、ベック夫妻の家の前でピタリとクルマを止めた。A90沿いの旧道沿いに同じような造りの家が4軒点在していて、その中の1軒だった。道沿いの窓にビルの顔が現れた。ペニーがドアを開けて出てきた。築100年以上になる伝統的な石造りの家だという。庭の側に1部屋増築して、2ベッド・ルームの2室とリビングキッチンとユーティリティとなっていた。
なにより素晴らしいのが、旧道沿いの窓からは一面の菜の花畑、反対の庭側の窓からは数キロ先までなだらかに下る斜面の緑の畑、その向こうはあまり高くはない嶺々が続いているその眺望だった。この見晴らしは四季折々、毎日見ていても飽きない、この環境ゆえに2人はここを終の住み処として選んだのだと満足げだった。すぐの町に娘夫婦がいるから楽しいし、心強いとも言った。
早い夕食をさっとすませた。私たちのように食べながら飲むのではない。食事は食事ですませ、それからソファーに移ってゆっくり酒を飲むのであった。道に面した窓、クルマを止めた時ビルが顔を見せた窓だが、この横長の窓が退屈しない絵であった。暮れなずむ黄色い菜の花畑の上に、その奥のフリーウエイを走るタンクローリーのてっぺんが時折横切る。菜の花の手前は旧道を行く自動車があっという間に過ぎ去る。自転車の人は自動車よりゆっくりだが、それでもさっと通り過ぎる。歩行者でさえ窓の端から端までは観察する間もなく10歩もなく通り過ぎる。ソファーからじっと見ていると、一時流行ったスモール・タウンもの映画のオープニング・シーンのようだ。とんでもないドラマが起こる予感がした。
ところがドラマは窓の内側に起こった。ビルが玄関ではしごを立てかけ、屋根裏に昇ろうとしていた。危ないから私が昇ることにした。昔の電蓄を下ろそうというのであった。電蓄と古いアルバムと数枚のレコードを下ろした。埃を払った。アルバムには昔の日本の女性の写真があった。西洋風の美人だった。横須賀のバーのジャズ歌手で「マリコさんだ」と言う。マリコ、あの『腰抜け二挺拳銃』の『ボタンとリボン』を歌った池真理子ではないかと思ったが、自信はない。雅代も分からないと言う。
3枚のレコードのうち2枚はあの重い日本盤であった。美空ひばりの『長崎の蝶々さん』と『星は知っている』だ。もう1枚はLPで『MIYOSHI』というジャズ・レコードだった。女性シンガーの声を聴いて、もしやと思った。レーベル名Mercury WING。急いでジャケットの解説を読むと、Miyoshi means Beautiful Life. Miyoshi was the first Japanese girl to sing American song in Tokyo. Tsunoda Sextette Benny Goodman Band of Japan , Miyoshi Umeki. とあった。やっぱり、のちのナンシー梅木だったのだ。いま聴いても、日本のシンガーでこれよりうまくジャズを歌う人を私は知らない。私は高校生の頃、ラジオ東京の水曜日午後7時半から『味の素ミュージック・レストラン』小島政雄指揮、小原重徳とブルーコーツ・オーケストラを必ず聴いていた。初期の頃レギュラーだったのが笈田敏夫とナンシー梅木だったのだ。
ナンシー梅木の天才的な歌いっぷりに、50年後のいま、それもはるかなるローレンスキャルクの石の家の中で酔おうとは。
スコットランド生まれのペニーとイングランド生まれの旦那のビルがロジャースとハマースタインのジャズ小唄『フラワー・ドラム・ソング』をデュエットでナンシー梅木に合わせて歌う。これがまた格別うまいのだった。ジャズを歌い終わると、ビルが炭坑節を口ずさみ出した。私も歌わないでいられないではないか。そしてついにビルはゴルフキャップをザルに見立てて踊り出した。ああ、もう。
私の67歳のある晩にこんなに満ち足りたひとときが巡ってこようとは。私は幸せに浸って目を潤ませた。今回の旅は調子づいて、もっともっと凄いことになりそうな気配がしてきた。
翌朝も穏やかな風景だった。食堂の窓から庭の側のヒーリーな眺望を眺めていると、ビルが「お早う」と入ってきて私と並んだ。私が「ピースフォー」と言うと、ビルも「ベリー・ピースフォー」と相づちを打った。ピースフルである。この景色のことをそう言うのだと、昨日ビルの口から教わった。ラブリーでもなく、ビューティフォーでも、ワンダフォーでもない。私にこの眺望を見せた最初の時ビルが「ピースフォー」と発したことが、私に彼の大いなる満足感をよく実感させてくれた。ビルは「ピースフォー」を数回繰り返した。
数年前、私たちがセントアンドリュースまで行った時、ストーンヘブンからルサックス・ホテルまでわざわざやってきてくれて、数時間再会を楽しんだことがある。ビルは私がリンクスランドのトリコになっていることを覚えていてくれて、マルコム・キャンベルの名著『ザ・スコティッシュ・ゴルフ・ブック』を抱えて来てくれた。ビルは手紙にスクリプト書体でペンを美しく走らせる人だが、その本の白い見返しにもスクリプト書体で「ヤス&マサヨへ ゴルフを楽しんで ビル&ペニー」とサインを入れてくれた(同じ本を私はすでに買って持っていたのだが)。
この時、ビルは「フェアウェイとラフのオリジンを知っているかい」と聞いてきた。ビルによると、フェアウェイとは正しい航路のことを言い、ラフとは岩や海流のせいで少しの風でも荒れる海域のことを言うのだそうだ。世界に冠たる海洋民族の英国人、とりわけスコットランド人はゴルフにそういう航海用語を採り入れることを好んだようだ。リンクスランドとは海からの風が創った土地で、デューンもアンジュレーションもバンカーも海風の所産なんだ、と『ザ・スコティッシュ・ゴルフ・ブック』を開いてリンクスの写真を見せながら話してくれた。元大英帝国海軍将校のビル・ベックが言うことだから頷かざるをえなかった。
フェアウェイを航行していながら荒れに荒れる大海原を幾度も経験しているはずだ。敵軍と砲弾の合戦も何度も経験しているだろう。ある時の爆発の後遺症でいま耳が遠い。そうした戦火と荒海をくぐり抜けてきたビルが、見渡す限り穏やかにヒーリーな畑を一望して「ピースフォー」と感嘆するのを見て、私は彼の平穏を祈る名状し難い心境に見舞われた。
朝食の後、ベック夫妻は私たちをハイランドの山中の観光に連れていってくれた。途中スコッチウイスキー、ピーターケアンの蒸溜所に寄った。目的地はスコットランドでもっとも標高の高いブレイマーGCだった。この話は「一の旅」で書いた。
この日も早い夕飯を食べ、それから、黄昏迫るストーンヘブンGCに案内してくれた。彼らの発音だとストノヘブンである。ビルはそこの古いメンバーだが、最近は足を弱くしているのでたまにしかラウンドしないと言った。ストノヘブンGCの数ホールを4人で散歩した。足の弱くなったビルがゴルフの回数を減らさざるをえなくなった訳がよく分かった。
断崖の上にあって、どのホールからも北海を一望できる絶景のコースだったが、断崖の上は平らではなく、すべてのホールが海に向かって傾いていた。それも急勾配といっていいほどの傾きである。日本ならブルドーザーで土も岩も動かして段々畑状にホールを並べるはずのところだが、こちらでは自然の地形をいじることなどもってのほか。神への冒瀆。あるがままのところにネイチャー・コースを見つけ出すのがこちらのゴルフ文化である。海を横に見ながら歩いていると体が自然に海のほうへ持っていかれる。屋根の上を歩いているようで、真っ直ぐ歩こうとすると、これは結構疲労がくる。ましてや上りとなると相当しんどい。黄昏の中をプレーしている組がいた。相当海と反対側に打ち出された球だが、落ちてから海のサイドへ転がっていく。
ゴルフは空中の風とグラウンドのアンジュレーションという2つのハザードと闘う球技である。だからストノヘブンは名コースと言わずばなるまい。ぜひ一度トライしてみたい、とビルに言った。
翌朝、2泊のステイとは思えないほど思い出ができたローレンスキャルクを発った。翌年の夏、ビルがデジタル・カメラとプリンターを買ったという手紙と家の庭の花の写真をたくさん送ってきてくれた。いまもわが家の棚を飾っている。