【第1回】第四章:蝦夷の龍馬―(1) | マイナビブックス

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龍馬、蝦夷に征く!(下)

【第1回】第四章:蝦夷の龍馬―(1)

2017.03.09 | ナリタマサヒロ

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明治2年3月末、春の訪れの遅い、蝦夷の地にの突如として龍馬という真夏のような男が訪れた。

しかも、巨大な鋼鉄の蟹の爪のようなアームを備えた潜水艦隊4隻で構成される世界最強の私設海軍に加え、最新鋭艦「甲鉄」をはじめとする新政府軍の虎の子の艦隊8隻、さらにその乗組員で龍馬に賛同した者たち2000名を率いての凱旋だった。

その龍馬艦隊の函館入港には、土方たちによる起死回生の作戦「宮古湾アポルダージ」にかすかな期待を抱いていた榎本武揚をはじめとする共和国の首脳陣一同は、腰を抜かすほど、驚いた。

しかし、その威容に本当に驚いたのは、榎本たちではなく、函館湾に停泊中の各国の艦隊だった。

もともと、彼らは徳川幕府に対して、信(よしみ)を通じていた欧米列強の代表であったり、あるいは、新政府軍と旧幕府軍のどっちが勝っても、後々に有利に展開出来るように、両張りを目論む各国政府の意向を受けた「死の商人のような存在だった。

それぞれの国が、この突然の龍馬出現の一方を本国に連絡した。

彼らにとって、このニュースは、必ずしも朗報として伝えられるべき性質のものではなく、むしろ、今後、日本が彼にらにとって、好き勝手に御しがたい国になることの懸念をいち早く感じたからだった。

たとえば、彼らにとって、当時の徳川幕府は、200年以上に及ぶ鎖国政策の弊害により、著しく国際感覚が欠如したままの状態で開国し、不平等条約により開港に踏み切ったことは、実に都合が良かった。

その最大の理由は、金銀銅の比価の違いによる暴利の貪りであった。悪質なメキシコドルを大量に日本に持ち込むことにより、日本国内から金銀を流失させることにより、莫大な利益を上げてきた彼らにとって、龍馬のような外国での通商経験のある日本人の帰国は、懸念材料以外のなにものでもなかった。

このようにして、坂本龍馬という男が生きていて、函館に入港したというニュースには、日本国内のみならず、アジア進出をもくろく欧米列強にもいち早く伝わり、全世界が彼の動向を固唾を呑んで見守る状況となった。

さて、龍馬である。

2年前の慶応3年(1867)の1115日に、大政奉還と王政復古の大号令の合間に凶刃を受け、瀕死の重傷を負ったにも関わらず、近藤勇の計らいによって、秘密裏に京都を脱出。

勝海舟が密かに手配したアメリカ海軍の軍艦によってアメリカ本土に運ばれ、奇跡的な回復を見せるや、トーマスエジソンやロックフェラーと親交を深め、大陸横断鉄道の開通推進に協力することで莫大な収益を上げた。

その利益のすべてをつぎ込み、外洋航海も可能な巨大な潜水艦を建造、その潜水艦4隻を元に、彼に賛同する多国籍の同士からなる『新海援隊』を結成。

その世界でも最新鋭にして、最強の私設海軍を率いて、このたび、満を持して日本に凱旋帰国してきたわけであるが、彼自身の夢は、もともと、彼が願っていた形での新しい国家を創造を、もう一度、やり直すことであった。

一方、新政府は、この突然の龍馬出現の事態を、沈黙をもって静観していた。

一度は、共和国軍の奇襲による戦艦「甲鉄」奪取を撃退したと思いきや、突然に坂本龍馬の亡霊が現れて、虎の子の海軍をはじめ、兵士2000人にいたるまで、寝返りをさせられてしまったのだ。

この事実は、すべての公文書や報道には伏せられ、蝦夷地での動向については、あくまでも「春の雪解けを待って、総攻撃を掛ける。」という大方針は堅持されたままだった。

新政府にとって、今の明治維新を正当化するためには、坂本龍馬という不世出の英雄は、夜明けを前に伝説と化してもらう必要があったのである。

それが、今になって、突如、再出現し、しかも、蝦夷の地であと一歩というところまで追い詰めている旧幕府軍に肩入れしたという情報など、決して、各藩には知られてはならない不祥事そのものだったのである。

まして、龍馬の兵力が世界最強であり、薩長保有の軍艦や、旧幕府から接収した艦艇を船員もろとも一度に捕獲されたという不始末は、絶対に世間に知られてはならない、とんでもない事態だった。

したがって、4月初旬を目標に蝦夷上陸の準備を進めていた新政府軍の作戦も一時、中断することとなった。なにしろ、兵力を輸送する海軍の主力部隊が根こそぎ奪われたため、作戦そのものの見直しを迫られざるを得なかったのである。

而して、青森に集合をしていた新政府軍の陸兵部隊は、かの地で足止めを喰らう事態となった。

さらに、海軍力を根こそぎ奪われたことにより、共和国軍が逆に蝦夷地から再上陸してくる懸念も生じたため、内地防衛という新たな任務を背負わざるを得なくなったというおまけもついた。

それほどまでに、龍馬という男の動向は、激動する日本国内のみならず、世界に対しても、見過ごしにできないほどの影響を与えたのである。

そして、その渦中の龍馬は、「これが世界最強の私設海軍を率いる男か?」と、見る者の目を疑いたくなるほど、飄々とした様子で、20人ほどの『新海援隊』を率いて、五稜郭内の函館奉行所庁舎の中に入ってきた。

庁舎内では、榎本総裁自らが、龍馬を出迎えた。龍馬の横には、土方が立会人という立場で、両首脳の会見を見守った。

榎本は、総裁室の横にしつられられた応接室に龍馬を通し、人払いをした。その場には、龍馬と土方の2名のみが残った。

最初の挨拶は、榎本から切り出した。

「私がこの『蝦夷共和国』の総裁、榎本武揚です」

「知っちゅうがや。江戸開城の折に、勝先生と対立して、あくまでも徹底抗戦を主張した〝いごっそう 〟がおったとは聞いちょったきに、もそっと、ごっつい男かと想像しちょったが、こないな優男とは驚いちょるぜよ」

そう言って、龍馬は右手を前に突き出して、いきなり握手を求めた。

その様子に一瞬、たじろいだ榎本であったが、すぐに握手に応じ、その手を強く握り返した。榎本自身、文久2年(1862)から、足掛け5年にわたり、幕府が発注した「開陽丸」の建造のために、オランダに留学していた経験があることから、すぐに欧米流のコミュニケーションに応じることが出来たのだ。

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