序
剣も魔法もない、この平凡なありふれた世界のなかで、君と出会えたことこそ、キセキなのかもしれない――。
1
俺には、ひとりの女をめぐり、日夜戦いを繰り広げている、永遠のライバルがいる。
しかも、戦況は最悪だ。圧倒的に、俺の方の分が悪い。
そして、ヤツは今、俺の愛する女の腕のなかで、意志の強そうな太い眉をつりあげ、どんぐりまなこの黒い瞳で、こちらをにらみつけているのだった。
「ぶううぅぅ!」
くっそう。こいつは本当に、俺の血を受け継いでいるのだろうか……。そう疑わずにはいられないほどの小生意気な態度である。
俺は、ヤツの上から愛する女へと、視線を移した。
「な、なんだって……? もういっぺん、言ってくんない?」
「だからね、浩太の面倒をみてほしいって言ったの。美容院に行きたいから」
彼女は、自分の胸に抱いているヤツの――昨日八ヶ月になったばかりの俺たちの息子、浩太の背中をしきりになでていた。
「もう三ヶ月も行ってないの。限界だわ、これ以上は無理! おねがい、行かせてください!」
「そんなこと言われても……」
俺だって、彼女の願いをこころよく聞き入れてやりたかったのだが、問題がひとつだけあった。
何を隠そう、俺は赤ちゃzxんが怖いのだ。
とうぜん、片手の指で足りるほどの回数しか、自分の息子を抱っこしたことがない。上向きにした両手の平に、息子の体をただ乗せただけの状態を、抱っこと呼んでもいいのなら話は別だけど。
こんなことになるなら、妊娠期間中に産院で行われた母親教室に参加すべきだった、と今さらながら後悔している。
生まれたばかりの赤ちゃんが、あんなに小さくて、頼りなげで、骨がやわらかく、手足がぶらんぶらんしているとは予想だにしていなかった俺は、浩太が生まれたとき仰天した。そのときの衝撃が尾を引き、未だに風呂へ入れるどころか、抱っこすらまともにできない状況なのである。
『はい! ここの部分を、ちょきっとやっちゃってください。ちょきっ、と思いっきり』
とにっこり笑いながら、助産師さんが俺に差し出した鋭利なハサミ。
出産に立ち会って、ぶっ倒れそうになってしまったほど気の弱いこの俺に、さらにへその緒をちょんぎれって言うのかあああっ! この俺にいいっ!
『いえ、遠慮させてください……』
銀色に鈍く光る切っ先を目にしたとたん蒼白した俺は、なんとか返事を返したものの、そのあとやっぱり倒れてしまったのである。
そんな苦い思い出があるというのに――。
「情けないことを言わないでください。 あなた、父親でしょう! 休みのときぐらい面倒みてくれたって!」
なかなか煮え切らない俺の態度に、彼女の怒りは爆発寸前だった。このままだと、家庭崩壊まっしぐらかもしれない。
しばらく続いていた不景気により頻度こそ減ったものの、『やれ歓送迎会だ、接待だ』などと言って外で騒ぐことができる俺を、彼女は内心にくらしく思っていることだろう。
終電に乗り遅れタクシーで家に帰ると、いつも玄関のカギがかけられていて、インターフォンを押しても開けてくれないことが度々あるのだ。カギは落とすといけないからと、彼女に取りあげられていた。
それほど、俺っていう男は、情けない父親なのである。
「ほら、俺、育メンじゃないし。浩太も俺のことにらんでイヤだって言ってるだろ。なあ、浩太?」
赤ちゃんに助けを求めるなんて父親としての立場がないが、浩太の顔の前に指を一本、差し出した。こうすると、浩太は、いつもガブッと俺の指に噛みついてくるのだが……。
「パパぁ……」
ちっ! こういうときに限って、俺の思い通りにならねえ。
浩太は俺の指を小さな手でギュッと握りしめると、にこっと天使のほほ笑みで笑いかけてきた。
ちくしょう、かわいい! かわいすぎるっ! おまえは本当に俺の子なのか! く~、涙が出てくるぜっ。
「ほら、浩太もパパがいいって」
話をまとめようと、彼女は勝手に息子の意見を代弁した。
「で、でも……」
「あなた、忘れてるの? わたしは、あなたより一回りも年上で、ただでさえオバサンなのに。きれいになるための努力をしなかったら、もっとオバサンになってしまうんだよ。それでも本当にいいの……?」
もちろん、かまわない! 俺は、彼女がオバサンでも愛してる!
……いや、そんなことを言った瞬間、血を見るに決まってるから、口が裂けても言わないが。俺がぞっこん彼女に惚れ込んでいることだけは、唯一無二の、揺らぐことのない真実だ。
妊娠前と比べて体重が八キロも増えたままだとか、妊娠線がなかなか消えないだとか、腰のくびれがなくなっただとか、そんなの全然たいしたことないじゃないか。新たな命をこの世に生み出すために、彼女ががんばってくれた証なんだからな。
そうだ! 愛を守るために、今こそ立ち上がるのだ!
情けない父親だけど……。
「わかったよ、奥さん。俺だって父親だ。少しの時間ぐらい、浩太と仲良くできるさ。たぶん……」
「じゃあ、お願いしますね。二時間ぐらいで戻りますから。だから、がんばってくださいね」
「おわっ! に、二時間も……?」
「だいじょうぶ。あなたなら、やれるわ。それに、ちゃんと帰ってきますから。ね!」
彼女は、目を細めて笑った。