【第2回】1 | マイナビブックス

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【第2回】1

2016.04.19 | じゃいがも

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『恋人、貸します』

 

 こんな貼り紙を見つけたのは、営業回りでくたくたになった、仕事帰りの事だった。

 幾分壁から剥がれかかった貼り紙は、三月のまだ冷たい風に揺れていた。

 夜の九時を少し過ぎていた。駅前の繁華街から逸れた薄暗い夜道。数少ない街灯に照らし出されたその貼り紙には、本文と電話番号しか書かれていない。文面のあまりのストレートさに、香山雄二はつい足を止めてしまった。

 

(新手の風俗店だろうか……)

 

 男心に気にはなったが、空腹と冷たい風に背を押され、雄二はその場を後にした。

 途中、行きつけのコンビニエンス・ストアに寄る。弁当と発泡酒を購入し、弁当は温めてもらう――。もう何年も続いているパターンだ。入り口でカゴを取り、まっすぐ酒販コーナーに向かう。商品カゴにそっと横たえると、缶は緩やかに転がり、カゴの隅で止まった。500ml分の重みが、左手に伝わる。弁当コーナーで、焼き鮭弁当を手に取る。弁当は、いつも決まって焼き鮭弁当にしている。トンカツ弁当や唐揚げ弁当などを食べると、翌朝、胃がもたれてしまう。最近、油物にめっきり弱くなった。二十九歳。もう、若くないのかも知れない。

 アパートに帰ると、暗闇と静寂が僕を迎えた。

 

「――ただいま」

 

 溜め息まじりの言葉が、すうっと暗闇に散った。

 

 翌朝、出社すると、同じ営業部の後輩・小宮優実が皆の祝福を受けていた。六月に結婚退社するのだという。いわゆる「寿退社」だ。彼女のデスクを取り囲むように出来た人垣のあちこちから、冷やかしの声と、どういう人? どこで知り合ったの? といった質問が飛ぶ。彼女は男勝りの性格で、そのパワフルで押しの強い営業スタイルと特徴的な頬の膨らみから、「営業部の機関車トーマス」と揶揄されていた。意見の違いから、雄二や他の男性社員との衝突も珍しくなかったが、愛嬌のある笑顔で、男性社員のファンも多かった。

 彼女は人付き合いが良く、社内のイベントには率先して参加し、幹事を任される事も多かった。毎日のように残業をこなし、多忙期には帰宅が終電間際になる事もしばしばだった。

 ――「寿退社」。

 あれだけの仕事量をこなし、その上、恋愛につぎ込む時間と体力がいったいどこにあったというのか。

 騒ぎが収まると、優実は雄二のデスクに近付き、ノートパソコン越しに「結婚式、先輩も来てくださいね」と笑顔を見せた。雄二も笑顔で頷く。

 もう幾度となく、同じ光景を見てきた。雄二の心の隅が、チクリと小さく疼いた。

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