【第0回】はじめに/東ベルリン概略図(1987年当時) | マイナビブックス

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もう一つのベルリン 旧東ベルリン、街の変遷

【第0回】はじめに/東ベルリン概略図(1987年当時)

2016.05.19 | 村田満

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もう一つのベルリン


ー 旧東ベルリン、街の変遷 ー


撮影・文 村田 満

  

はじめに

 

 第二次世界大戦で敗戦国となったドイツは、戦勝四か国(英米仏ソ)により分割統治され、その後、それぞれの統治国の政治体制を反映するかたちで、資本主義のドイツ連邦共和国(西ドイツ)と社会主義のドイツ民主共和国(東ドイツ)とに生まれ変わった。当時、首都ベルリンは東ドイツ内に位置していた。しかし、国と同じように戦勝国による共同占領の形で分割されていたため、ソ連に占領されていた地域はそのまま東ドイツに属し、英米仏に占領されていた地域は、西ベルリンと呼ばれ、社会主義国の中に小島のように浮かぶ資本主義の都市となった。その西ベルリンは、1961年8月13日、東ドイツにより突然周囲を鉄条網で封鎖され、その後、コンクリートの「壁」で囲まれていった。これは、東ドイツ内に存在する資本主義の「飛び地」西ベルリンに、東ドイツ国民が逃亡するのを防ぐためだった。このときすでにその「壁」を挟んで東側、かつてソ連に占領されていたベルリンは、東ドイツの首都、ベルリン(通称、東ベルリン)となっていた。そして時が過ぎ1980年代後半、東欧諸国で起こった民主化の大きなうねりの中で、1989年11月9日「ベルリンの壁」は開放され、それとともに東ドイツの国民は外国旅行の自由を得た。続く1990年3月18日の自由選挙を経て、1990年10月3日「東西ドイツの再統一」、東ベルリンは西ベルリンに統合され、統一ドイツの首都ベルリンの一部になった。

 1987年夏の終わりに初めて東ベルリンを訪れた。ブランデンブルク門からアレキサンダー広場までの約2キロの整然としたメインストリートは、周囲に歴史あるオペラ劇場や博物館を配している。しかし、そこを一歩離れると、崩れかけたファサードに第二次世界大戦の弾痕も残る灰色の街並みが続く。その年の冬と翌1988年の夏の訪問でも、灰色の街並みという第一印象は変わらない。

 そして、「壁」崩壊を挟んで、1990年2月、四度目に訪れたとき、街には自由の空気がみなぎっていた。この年の10月、ドイツ再統一。社会主義の国に育った人々が資本主義の中で生活を始める。同時に西側主導による首都整備の大規模な工事が開始された。その後、訪問するたびに灰色だった街に色が加わっていった。

 誰もが「壁」の開放・ドイツの再統一を考えていなかった1987年。そして、地図上は、一つのドイツとなって10年以上経った2001年。その間の旧東ベルリン地区の人々の変化を、その街の変遷から眺めてみた。

2013年2月  村田 満

  

  

 すべてポジフィルムで撮影した写真をスキャニングしてデータ化したため、表示の大きさによっては、フィルムの粒子がノイズのように見えることがあります。
 キャプションの建物名・通りの名・行政区名(大文字表記)・行政区内の地区名は撮影当時のものです。変更のあったものについては、2013年1月現在の名も記しています。通りの名が不明な場合、地区名か行政区名だけを記しています。仮名表記は、一般的に使われているものは慣例に従い、それ以外は、ドイツ語の音に近づけました。

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