【第11回】10 | マイナビブックス

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10

一週間が過ぎても、リノアからは何の連絡もなかった。仕事をしていても、リノアのことが気になって仕方がなかった。
リノアはちゃんと病院に行ったのだろうか、食事をとっているのか。
思いあまって、メールを送っても、彼女からの返事はなかった。
してはいけない、と思いながらも、僕はリノアのドアのチャイムを鳴らした。返事はなかった。重ぐるしい沈黙が、リノアのドアに張りつめていた。
突き放されたような孤独が僕を襲い、僕は苦しみ続けた。

リノアと会わなくなって十日が過ぎた時、残業をしていると、携帯電話に匿名の電話がかかってきた。〝CLUB MISTY〟のメンバーを名乗る男からだった。
男は野太い声で、「ミユキがお前のことを呼んでいる」と言った。そして、ミユキが今、入院しているという病院と部屋の番号を教えてくれた。ミユキは自殺未遂をした、ということだった。

僕は社長に事情を話して仕事を切り上げ、ミユキが入院している病院に向った。それは広尾にある、大きな総合病院だった。エレベーターに乗り、七階で降りた。そこは神経内科のフロアだった。長い廊下を歩き、四人部屋の入り口で、僕はミユキの名札を確認した。漢字で〝美雪〟と書かれていた。ミユキは〝CLUB MISTY〟で本名を名乗っていたのだった。
「こんにちは」
そう言って、僕は白いカーテンの向こうに声をかけた。
「どうぞ」という声がした。細く乾いた小さな声だった。
カーテンをまわりこむと、ベッドの中で横たわっているミユキがいた。しばらく見ないうちにミユキはやつれていた。僕を見つけると、ミユキは薄く笑った。
「来てくれたのね」
ミユキはベッドの中でそう言った。ミユキは僕を見つめた。素直な目だった。愛おしさが込みあげてきた。ミユキとは別れたはずなのに。
「心配したよ」
僕はそう言って、ミユキに近づき、丸い椅子に腰をかけた。僕が微笑すると、ミユキはやわらかく微笑んだ。
〝CLUB MISTY〟を仕切っていた時の勢いは、今の彼女にはなかった。傷つきやすく、脆い、ひとり泣いている女の子がそこにいた。
ミユキは長い髪を自然なままに下ろしていた。パーティで白いシーツの中で乱れていた髪とはまったく違っていた。病床の白いベッドの中で見るミユキの髪はとても素直で、とても無防備だった。ミユキの素顔を見た思いがした。
ミユキは胸が大きくカットされた白いキャミソールドレスを着ていた。柔らかなピンクのカーデガンを肩に羽織っていた。
ミユキは身体を起こした。ミユキの腕がシーツからはみ出た。僕は息をのんだ。ミユキの両手首に包帯が巻かれていたからだ。
ミユキは無理に身体を起こそうとした。
「寝ていたらいいよ」と僕は言って、ミユキが身体を起こすのを手伝った。ミユキのやわらかな身体を掌に感じた。僕の中で抑えていた感情が一気に噴き出した。そして、その想いは、ミユキにすぐに伝わった。
ミユキは僕の胸に思いっきり抱きついてきた。ミユキの肌のぬくもりを感じると同時に、リノアのことが心を横切った。ミユキと別れ、僕は真面目にリノアひとりだけとつきあおうと決心したのではないのか。僕の心は揺れた。
僕は無意識のうちに、ミユキの髪を撫でた。ミユキの髪は冷たくて、手触りのいい。ミユキを抱いていると、どうしようもなく、心が震えた。
しばらく抱きあった後、僕はミユキから身体を離し、
「どうしてこんなことに? 〝CLUB MISTY〟の関係者を名乗る男から連絡を受けてきたよ」と、静かに尋ねた。
ミユキは薄く笑った。
「〝CLUB MISTY〟の幹部との間で、いざこざがあって、嫌なことがあって、むしゃくしゃしていたの。その日はパーティの日で、準備に行かなければいけなかったのだけれど、それも忘れてクスリをやったの。クスリにしても、いつもはハッパやチョコ程度なんだけれど、なれないLSDをやった。それに加えてお酒なんか飲んだら急に心が鉛みたいに塞ぎこんできて、自分でもわからないうちに手首を切っていた。パーティの日なのにいつまでもやってこないあたしを心配して女の子があたしの部屋に来てくれたの。あたしは憶えていないんだけれど、両腕を血だらけにして、お酒もクスリもいっぱい空けて、あたしははいつくばってベランダから飛び降りようとしていたの。それで彼女は救急車を呼んでくれた」
ミユキの表情は、冬の弱々しい光のように精彩を欠いていた。ミユキはうまく笑おうとしたが、うまく笑えなかった。いつものミユキだったら皮肉の一つでも言いそうなのに。
「でも、どうしてこんなことに」。
僕は低い声で言った。
ミユキはしばらく何かを考えていたが、
「あたしには身体でつながる人がいても、心で抱きあう人はいない」と言った。
ミユキはさみしそうな顔をしていた。
「ここにいるよ」
そう言って、僕は手を伸ばし、ミユキの手に触れた。ミユキは、僕の手を弱々しく握り返してきた。
こうして久しぶりにミユキに会ってみると、自我の境界を感じさせない人だと感じた。ミユキも、僕も、感覚が開いていた。相手の感覚が、じかに感じられる。微妙な心の動きがわかる。心で抱きあう、というのは、こんな感覚を言うのだろう。ミユキが言いたいことが、僕にもわかっていた。
ミユキの掌から、彼女の肌のあたたかさを感じた。拘置所を出て、深く傷ついた僕の心に、ミユキの肌はとてもやさしかった。僕は目を閉じた。
瞼の中にミユキの白い肌がいっぱいに広がった。やわらかくて、やさしい起伏。僕は、ミユキの肌を思い出しながら、そっと目を開けた。
ミユキが目を閉じて、キスを待っていた。僕はミユキの顔に近づいた。だが、僕はうつむき、「ごめん」と言った。ミユキは静かに目を開け、淋しげに笑った。
このままミユキを抱けたら、どんなにいいだろう。
〝恋愛は、心の結びつきだけでは続かない〟
僕の部屋で食事をしながらリノアが言っていた言葉を思い出す。
心だけでなく、肌のぬくもりや、身体の重さ、手ざわりや香り……そんなものがなければ、恋愛は長く続かない。自分が都合のいい時だけ思い出すような妄想の恋愛で終わってしまう。あるいは、身体の関係は別の人と結ぶような、そんな不誠実な関係になってしまう。
これから先、どこまでリノアを守ってゆけるのか。心の結びつきだけでリノアだけを、本当に愛することができるのか。
僕の心は暗くなった。
ミユキが言った。
「ごめんね」
ミユキは静かに微笑し、僕の手から自分の手をするりと抜いた。
僕は茫然と立ち尽くしていた。
「……一番、苦しい時、君は僕を助けてくれた。何も言わず、ただ抱きしめてくれた。君を抱いていて、生きていることって、こういうことなんだって、そう思えた。心が死を望んでいても、身体は生きたい、とそう叫んでいた。君を抱きたいと思うことが、生きることだった」
ミユキは柔らかく微笑した。そして、首をかしげ、いたずらっぽく、
「だったら、そのお礼として、お願いを聞いてもらっちゃおうかな」と、ほほ笑んだ。
「お願い?」
「そう。三日の間だけでいいから、毎日、顔を見せに来てくれる?」
ミユキが、いたずらな目で、ちょっと照れながらそう言った。化粧気のない、素顔のミユキは、とても可愛らしかった。
僕の心は痛んだ。リノアは身体の調子が悪く、ずっと引きこもりのままだ。
リノアに黙って、昔の女に会うことはルール違反だ。
けれども、と僕は思った。ミユキは命の恩人だ。三日間のお見舞いだけだったら……。
そんな気持が、僕の心を横切った。
「明日から三日間、お見舞いに来ます」と、僕は言った。

僕は会社の帰りに、ミユキを見舞うことになった。
会社が終わった後、花やお菓子を持ってミユキの病室を訪ねた。花がひとつ飾られるだけで、殺風景な病室が急に温かみを増した。
僕たちは色とりどりの花を見ながら、苺のケーキを食べ、思い出に残る映画や幼かったころの話や、旅先で感じた出来事などを面会時間の終わりまで話した。そして、時々は、源さんの話をした。拘置所で毛布をまるめ、それをバレーボール代わりにして遊んだこと、組み立て体操をしたり、プロレスごっこをしたりして、退屈な時間を楽しく過ごそうと工夫していたことを話した。そんな話をすると、ミユキは「あの人らしい」と言って、涙を浮かべながら笑った。
仲良さそうに話しをしている僕たちを見て、年配の看護婦さんが「似合いのカップルね」と、言って冷やかした。そう言われて嫌な気分はしなかった。むしろ、心地よい気分だった。
しかし、僕の心の隅にあるのは、じっと部屋に閉じこもったままのリノアのことだった。リノアにメールを送っても、彼女からは何の反応もなかった。つらいことだが、僕はそっと見守ることしかできなかった。好きな女の子の力になりたいのに、何もできないというほど、むなしいものはなかった。
僕はリノアへの不安をごまかすために、ミユキといるのかもしれない……。それは、よくないことだ……。

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