【第1回】相馬・野馬追い――父の思い出―― (1) | マイナビブックス

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旅行小説「旅は一期一会」

【第1回】相馬・野馬追い――父の思い出―― (1)

2016.01.05 | 武山博

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 旅行社から電話があった。人数が集まらないので今回のコースは中止になった、という知らせだった。

 またか、と正也は気落ちした。去年は野暮用が急に入って参加できず違約金を払ったのだった。近年は、このコースを取り扱う旅行社が減ってきているのも気になる。

「コース」というのは、七月下旬の三日間にわたって福島県の南相馬市で行われる祭事を見学し、温泉地に一泊するというものだ。その「相馬・野馬追い」は十世紀、平将門が興したといわれ、野生の馬を狩り立てて武芸を磨くという旧来の軍事訓練がもとになり祭礼化したものという。

 妻の春子は「パスするわ」と、初めから下りている。以前はよく一緒に行っていたものだが、近年は人込みが苦手だという。気の合ったお仲間との温泉旅行のほうが楽しいらしい。

 地図で確かめると、仙台に近い。新幹線を利用すれば一見、日帰り圏に入るかに見えるが、常磐線に乗り換え一時間ほど戻らなければならない。福島市からは距離は近いが、安達太良山系に遮られて交通の便が悪い。祭事は朝から始まるので、結局、どこかに一泊ということになる。

 けれど、零細企業を営む正也にはのんびり構えて来年に期待する余裕はないし、体力の自信もない。後期高齢者の身では何が起きるかわからないので、元気な限り思い立つと、即、実行に移すようにしている。とはいえ、日時が迫っていて個人でこれから宿を確保するのは無理だろう。三日間のスケジュールを眺めると、ハイライトは二日目に集中していることに気付く。思いきって日帰りで計画してみよう、と娘の真理に頼んでパソコンを叩いてもらう。

 首都圏からの交通情報によると、常磐線に上野駅七時発の「スーパーひたち」という列車があるという。磐城に九時十分着とあり、そこから目的の原ノ町駅までは距離からいっても三十分ほどで着くのではないか。祭事本部へ電話を入れると、騎馬武者行列の開始は九時からという。とすれば、一時間ほど遅れるだけで見学できることになりそうだ。よし、これにしようと正也は決断した。

 

叔父が買ってくれた『愛馬読本』

 

 幸い当日は好天に恵まれ、列車も空いていて快適だった。

 揺られながら朝食用の弁当をとる。早起きをしたので頭が冴えない。ぼんやりと窓外の田園風景を眺めているうち、どうして自分はこうした祭事に夢中になるのだろうか、と考えてみた。

 正也は、ある小さな商店街で十三歳年下の妻と、嫁いで近くに住んでいる娘の家族とで洋品店を経営している。

 大学を出た頃は、出版関係の仕事で生きて行こうと考えていたが、いつの間にか志と違い、衣料問屋に勤めていた妻の才覚に頼って服飾関係の仕事を生活の糧とするようになった。無論、しばらくの間は先輩のツテを頼りに専攻の古代史関係の記事の校正や、調査の手伝いを傍らやっていたが、現在は趣味としてカメラをいじり、暇があると各地の祭事を撮り歩いている。けれど、同じ祭事でもわくわく感に不思議と高低がある。

 思い当たることがあった。戦前の話になるが、正也が小学生の頃だった。滅多に姿を見せなかった母の弟が尋ねてきた。召集令状がきて、近く出征するという報告だった。中国大陸へ派遣されるとか。母の気持ちは、どんなだったろう。当時、軍人だった父も一年ほど前に戦場へ行っていたのだ。

 正也は、叔父を駅まで見送った。その時、叔父が記念にといって本屋へ立ち寄り、好きな本を選べという。今生の別れとなるかも知れない、と考えたのだろう。正也は、迷うことなく『愛馬読本』(小津茂郎著)を手にとった。欲しかったが高価で手が出なかったのだ。この本を何度、繰り返し読んだことだろう。

 しばらくしてのことだったが、学級の発表会で、正也はこの本を種に馬の話をしたことがある。

 ――馬には二種類あって、小型の乗用と、大型の運搬用や農耕用に分かれ、前者はサラブレットやアラブ種、後者はハックニーやペルシュロン種があり、中間にアングロ・アラブ種があります。サラブレッド種などの競争用の馬は、イギリスという国で長い年月をかけて早く走る馬と馬から子供をつくり大事に育てられ今に至っているんです、などと話し、馬博士などという渾名を頂戴したのだ。

 これが正也の心に火をつけた。当時、手回しの蓄音機が流行していたが、友達が遊びに来ると、『愛馬行進曲』と、オーストリアの作曲家スッペの『軽騎兵』を必ず聞かせるというのめり込みようだった。

 また、近所の物知りの床屋の小父さんから聞いた、当時、宮城前広場にあった楠木正成の銅像は高村光雲という彫刻家の先生が創ったものだけれど、乗っている馬は、馬の彫刻では日本一の後藤信行という先生が創ったという話を、そっくり友人に受け売りして悦に入っていた。

 こんなわけで、動物のなかでも正也は特に馬が好きなのだ。

 無論、その大元は父が陸軍の軍人で近衛師団の騎兵隊に所属していたことに遡るだろう。

 父の実家は家具製造業を営んでいたが、父はその跡目を弟に譲り、志願して幹部候補生となり、やがて本人の希望もあったろうが大柄だった故か騎兵部隊へ配属されたのだった。

 確か、「軍旗祭」とかいう軍隊のお祭りがあって、兵営へ母に連れられ正也も見物に行ったことがある。紅白の幕に飾られた営内を見て回り、「酒保」とかいう食堂で様々な馳走を受け、父の案内で厩舎を覗いた記憶がある。そのときの華やかな営内の雰囲気や、動物の臭いに幼い正也は酔ったのだった。以来、馬という動物に特段の感情を持つようになったと思う。

『愛馬読本』の中の写真を参考に馬を描くことを思いつき、描きまくり、家中に貼った覚えもある。ついにはトイレの中まで飾り、家人たちから呆れられたものだ。

 

「スーパーひたち」は、いわき駅までだった。正也の快い思い出は断ち切られ、「いわき」からは小型の二輌編成の車両に乗り換えさせられることになる。しかも、ここからは地元の見物客が大挙、乗り込んできて満員となり、正也も席が取れず、立ちづめで各駅停車のまま一時間近く海沿いの線路を走ることになった。

 首都圏からの参加者が足りずツアーが中止となり、急行も中途で打ち切りというところに、この祭事が少しずつ地域限定型のものになりつつあるように感じられ、正也は寂しい感じがしたものだ。

「原ノ町」駅へ十時四十分に到着する。

 閑散とした駅前を右手に折れ、バス停でシャトル・バスを待つ。長い行列だ。二台目のバスに何とか乗り込んで会場へ。二十分ほども乗ったろうか、かなり手前で降ろされ、雲雀ケ丘祭場へ向かうことに……。

 近づくにつれ、拡声器から搾り出すような声が耳に飛び込んでき、群集のざわめき、馬のいななきや馬糞の臭いが潮のように襲ってくる。

 

 祭場は、野球場が四つほども収まろうかという広さの草地で、中央に三間巾ほどの道が地を二つに分けている。

 祭場へ向かう正也の進行方向左側に小高い丘があり、その巾百メートルほどの斜面にムシロやらシートが敷かれ、そこが見物席となっているが、大部分は大会賛助の企業や、旅行社がらみの指定席で、正也たちのような個人の見学者は上方へ上らざるを得ず、遥か彼方から祭事を見下ろすことになる。

 プログラムによると、十二時過ぎから式典開始とあるので、それまでに席を確保しようと正也は歩きまわった。

 やがて合図の陣太鼓が鳴り、中央の道の彼方から騎馬武者軍団を従えた総大将とおぼしき人物が登場する。大集団は見物席のやや手前で止まると、後方の家来衆は扇型に広がり、大号令の合図とともに式典が始まるのだった。

 案内によると、総大将に扮した人物は元藩主の末裔とのことだったが、所詮、仮の姿、開会宣言も今ひとつ迫力が足りない。何やら統制が取りきれてない感じもする。続いて軍師やら、侍大将といった面々の怒鳴るような挨拶というか、訓示も騎馬武者たちへの忠誠と、団結を要請するような内容に聞こえる。確かに、これだけの大群衆、しかも大馬群である。人の話によると五百頭近いという。統制が行き届かなければ大混乱に陥るだろう。主催者側に同情の気持ちも湧いてくる。

 当日は好天に恵まれ、気温が上昇したので脱水症状の患者が出たそうで、盛んにアナウンスで水分補給を呼びかけている。三十分ほどで挨拶も終わり、白装束の子供たち数十名による群舞が始まる。

 どこもかしこも指定席の縄が張られており、仕方なく正也は通路脇の縄から若干はずれた隙間のようなところに滑らぬよう両足を突っ張った姿勢で腰を下ろし、カメラの準備を始める。この広い場所のどこかに見やすい個人客用の席があるのかも知れなかったが、遅く到着した正也にはそうした案内を受ける機会はなかった。

 けれども正也は正直、楽しかった。人と馬とがこのように多く集まり、走りまわる祭礼が未だに続いているということが信じられないほど嬉しかったのだ。  

 この「野馬追い」の世界には、東北地方に見られる〝曲がり屋〟のように動物を家族の一員とみなし、同じ屋根の下で生活するという親密な交流があるように思えるのだ。馬を眺める正也の心情は、いつしか子供の心情に戻っていた。

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