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週刊将棋

下村記者の棋楽にいこう 第37手 河口先生の思い出

2015.02.03 | 

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 最初は週将編集部に異動する前、将棋書籍の編集者だった頃だ。当時10冊ほど出した異色の棋書「振り飛車ワールド」の編集を担当しており、インタビュー企画で振り飛車党の河口先生に出演依頼の電話をした。

 編集者になる前の一将棋ファンの頃から「対局日誌」「新・対局日誌」は欠かさず読んでおり、それまで密室だった対局室の空気や、戦う棋士の息遣いが聞こえるような描写は、ドラマを見ているような錯覚にとらわれるほど引き込まれた。

 そして、かってに親しみやすい先生のイメージを持っていた。きっとインタビュー企画にも出て頂けるだろうと思ってドキドキしながら電話をしたものの、予想外に電話口の向こうでいろいろお説教を頂戴した。内容はもう忘れたが、そのときのトラウマで逆に「怖い先生」の印象をしばらく持ち続けていた。

 週将編集部に異動して、取材に出てもまだ右も左も分からぬ頃。A級順位戦の最終局に取材と関係者へのご挨拶もかねて控室にうかがった。まわりは棋士だらけで新人記者はその雰囲気に圧倒された。肩身の狭い思いをしながら萎縮しつつも、部屋の隅っこのほうで取材局の局面を並べてああでもない?こうでもないと駒を動かして寂しく検討をしていた。

 そこに先生がフラリとやって来て、私の盤の反対側に座ると「君、こうだろ?ここはこう指すもんだよ、ホォーそんな手があるのかね、なかなかいい手だねぇ」初めて一緒に検討した棋士が河口先生で、筆者の緊張は一気にほぐれた。そして「気さくで優しい先生」とイメージは変わった。

 それから数年以上。今では将棋会館やタイトル戦で先生と会ったときには、気軽に声をかけてくださるようになった。たぶん記者の名前は覚えていないだろう。それでもなんとなく顔だけは覚えてくださっていたようで、雑談の中にも棋界の昔話を聞けたりして、先生の話を聞けることは楽しみだった。

 昨年3月、電王戦で小田原城対局でのこと。夜を迎えて控室で観戦していた河口先生が先に帰るとき「小田原駅にはどう行けばいいんだい?」と筆者に聞いてきた。たまたま城好きで小田原城周辺の地理を把握していたので、一生懸命分かりやすい道を説明した。「ああそうか、ありがとう」と手を挙げて、暗闇の中に消えた先生の背中を見送ったときの記憶がはっきりと思い出された。

 先生と直接会話できたことはこれぐらいしかないが、もっとお話を聞く機会がほしかった。謹んで河口先生のご冥福をお祈り申し上げます。


 

写真は昨年9月の王座戦第2局。箱根環翠楼にて。控室で大内九段、佐藤天七段(当時)と談笑する河口先生。