【夢見里龍 同月刊行記念】『後宮見鬼の嫁入り』×『華咲地獄 椿咲ク探偵ト華守ノ蝶』SS②
2026/04/16
本サイトは『華咲地獄 椿咲ク探偵ト華守ノ蝶』(マイナビ出版 MPエンタテイメント)をご購入いただいた方のみアクセスいただけるページになります。
◎本SSはダウンロードできません。
◎本SSは予告なく公開を取りやめることがございます。
◎本SSのURLの第三者への開示、インターネット上へアップロードする行為は禁止いたします。
大正十年、東京。
日本橋に春がきていた。
春一番の風に乗って南下した桜前線は帝都をうす紅に染めた。室町通りにならぶ桜はいっせいに莟を綻ばせ、冬を越えた喜びにさんざめいている。漫ろ歩く人の格好はひと月前と比べて軽やかで、ウール地の道行姿の婦人とすれ違うこともめっきり減った。
「春ですねェ」
髪をさらりと結わえ、品の良いナポリ式の背広姿の男がぽつりとつぶやいた。
八重崎蝶仁。若き侯爵である。
彼の、数歩先を歩いていた娘が「あら」と振袖を拡げ、振りかえった。美貌を飾るように耳もとで綻びかけた椿の莟が弾む。
「それはどちらの春を指していて? 蝶」
姫つばきは華咲の娘である。
日本には時折、その身から華を咲かせた娘たちが産まれ、嫁いださきに幸せをもたらす。華咲の娘を奪いあって争いが勃発した時期もあったが、維新を経てからは神の化身として政府が娘たちを管理し、庇護するようになった。
「大正は文明の春と称えられているそうよ。特に昨今、帝都の日本橋はひときわ賑やかだもの」
華咲の娘を日本経済の中枢を担っている官僚や華族に嫁がせることによって、日本は今まさに栄華の時代を迎えている。
だが、蝶仁はどちらも違うと頭を振った。
「春ってのはもちろん、お姫さまのことですよ。冬と違って羽織も外套もいらなくなったじゃないですか。柄ゆきも雪輪やら南天から、桜とか梅、牡丹に変わって、すっかりと華やいでいます」
「そんなこと?」
「そんなもなにも。俺にとっては文明開化も放っておいても、毎年繰りかえす季節なんかも、どうだっていい。なんの感心もありません。それより、お姫さまですよ」
「まったく、おまえさまときたら……」
姫つばきは咲かぬ莟の娘だ。
ある事情を抱えており、今は探偵として華咲の娘にまつわる事件を解いている。蝶仁はその助手ということになっていた。日本橋にきたのも事件の依頼があったためだ。
「なんでも、日本橋の財閥家に嫁いだばかりの華咲の娘が死んだか、殺されたかしたとか。明らかに自害してるのに、殺害を自首してきた男が現れるなんてどうにも――」
蝶仁は路地から吹きつけてきた突風に言葉を途切れさせた。春の旋風にしても妙だ。路地裏に視線をやった蝶仁は枝垂の椿に眼を奪われた。桜ならばともかく、こんなところにあんな椿が咲いているはずがない。
劈くような眩暈がした。
「お姫さま、あれ、なんでしょう」
酷くがざわついて、姫つばきに呼びかけた。
だが、振りかえるとそこに姫つばきはおらず、それどころか――
異境の幻想が漂う王宮のただなかにいた。
奈良東大寺、東京瑞聖寺と似た造りの、重みのある建物群。彫刻が施された飾り窓。釣燈篭の揺れる軒さきでは桃の花が咲き群れている。少なくとも日本橋の風景ではない。
「志那?」
蝶仁は志那には詳しくない。
先程は取り敢えず知っている寺院をあげたが、あれらは江戸時代ごろに志那から渡来した唐の建築を取りいれた建造物である。もっとも、いま拡がる風景はさらに洗練されていて、明もしくは清の王朝を連想させた。
蝶仁は夢かと疑って眼を擦った。
変なところに迷いこんでしまった――混乱しそうになるのを懸命に律して、呼吸する。噎せかえりそうな花と香のにおいがした。現実だ。
「落ちつけ」
まずは姫つばきを捜さなければ。
もっとも優先するべきは彼女がここにいるのか。なにか危険に巻きこまれていないかを確かめることだ。どういう理窟かは分からないが、現実の志那かつ過去の時代だとしたら、死にいたる危険がありすぎる。
そもそも、蝶仁は中国語が喋れない。良い耳は持っているので、英語ならばある程度聴いて理解できるが、中国語は訳したことがなかった。
警戒しながら進んでいく。
豪華な造りの宮だが、人の声等はしない。かといって、きちんと整備されている庭をみるかぎり廃墟ではなさそうだ。
奇妙なところだ。
進んでいくと池泉にかこまれた亭があった。まだ春ということもあって、水の表には蓮の葉すら芽吹いていない。
亭に人がたたずんでいる。身につけているのはどちらというと和服に似ていて、腰に帯を締めるようなつくりになっていた。濡鴉の髪を結いもせず滝のように落とした後ろ姿をみるに妃だろうか。
言語が通じるかも不確かな現状で、接触するのは危険をともなう。だが、静まりかえった王宮を延々と彷徨っていても、どうにもならない。
慎重に近づいていく。
水亭に架かる橋まできたところで蝶仁は凍りついた。
あれは女ではない。それどころか、人の身のたけではなかった。七尺はゆうに超える。
なにより、蝶の勘が警告していた。
あれは人に非ざるものだと。
だが、眼が離せない。
相手がゆっくりと振りかえった。青糸の帳のような髪が風でなびき、素顔が露わになる。蝶仁は美に頓着がない。正確には美しさに感じいるということがない。
それでも解る。
異様なほどに美しい男だ。
遠い異教の神像を思わせる貌。透きとおる白皙に冷ややかな唇。理知の星を燃やす双眸からひとつ、涙がこぼれた。真昼の星を砕いたような果敢ない雫だ。
「ああ」
男の眸が蝶仁を映す。
「迷孩か」
警戒するでも、何者かと訝しむでもなく、男は瞬時に蝶仁がここにあるべきではないことを察した。
「そなた、俺の愛する花嫁を見掛けてはおらぬか」
ひとつ、またひとつとあふれる涙を拭おうともせず、男は低い声で尋ねかけてきた。言語を聴き取れて安堵したのもつかのま蝶仁は直感する。この答え、誤ったら危うい。
男はきわめて穏やかな物腰だが、それは異邦人である蝶仁を物珍しくもなんとも思っていない証拠でもある。今、この男から蝶仁への関心がなくなれば、詰む。
姫つばきを捜すにしても、現実に帰還するにも、おそらくこの男が鍵だ。
「俺もたいせつなひとと逸れちまいまして、ちょうどこまってたところなんですよ、旦那」
ゆっくりと橋を渡りながら、蝶仁はなるべく敵意のない声を繕って語りかける。
「話を聴くかぎり、俺がこっちにきて、旦那の花嫁がいなくなった。つまり、入れかわっちまったってことは考えられませんかね?」
「ふむ」
男が細い眉を跳ねあげた。とめどなくあふれる涙がまたひとつ、頬にきらめく線を残す。
「いまのところ、こっちに俺のお姫さまはおられそうにない。となると、俺がもといたところに帰れたら、旦那の花嫁も帰ってくるかもしれませんぜ」
「ずいぶんと遠まわしだが、そなたが異邦へ帰還るのを俺に手伝えということか? この俺を思い通りに動かそうとするとは」
神秘を帯びた双眸が上弦の月のごとく細められた。
「狡知なニンゲンよな」
睨みつけられただけで髪の先端まで痺れた。
蝶仁は日頃から危険な橋を渡ることも多く、喧嘩や殺意には慣れている。そんな自分が縫いとめられたように動けなくなった。
なんだ、この男、化け物か――
「それだけ、はなれたくないひとがいるんですよ。違うせかいに頒たれるなんてとんでもない。旦那も花嫁さんを捜しておられるんでしょう? だったら、解るはずです」
神経を張りつめながら蝶仁が訴えかけると、男は独特な威圧をやわらげた。
「そうか。ならば、理解できる。そなた、名乗れ」
「蝶です」
八重崎蝶仁とは名乗らなかった。
こういうところで名乗ったり異界で飲食をしたりすると連れていかれそうだ。
「ふ、蝶か」
男は微笑をこぼした。
「なるほど、確かにそなたの魂は蝶に似たる。草の毒を喰んだ麝香の蝶よ。俺は神喰という」
ついでにこういうものを、喚ぶことも避けたほうがいい。
その時だ。池泉の水がにわかにざわめいて、赤い波紋がゆらゆらと拡がった。ともすれば、八重の椿が咲くような。
「血潮?」
不穏な紅。どうしても、姫つばきのことを考えてしまった。
「やはりこの底か。池泉の底に、こちらとそちらを結んだものがある。なかなか繋がらず、如何にしようかと思っていたが、縁のあるそなたがきたからか繋がったようだな」
縁がある? どういうことかと尋ねる暇もなかった。神喰とやらは足払いをかけてから、蝶仁を突きとばした。
「っな、にを」蝶仁は水しぶきをあげ、池泉に吸いこまれる。泳げないわけではないのに、底が渦を巻いていて浮かびあがれなかった。
異界の王宮で溺死なんて、しゃれにならない。
(お姫さま)
帰らないと。
強く念じながら、蝶仁の意識は遠ざかる。
残る息は泡と弾けた。
***
「っ」
息をする。
意識を取りもどした蝶仁は慌てて身を起こした。
「どうなってんですか、俺、溺れたんじゃ」
水のなかでもなく岸でもなかった。
奇妙なところだ。天はなく、延々と枝垂れの椿が頭上を覆っていた。地を埋めつくすは落ち椿。
椿にかこまれた箱のなかにいるような錯覚を起こす。
王宮だって大概だったが、さらに現実感のない風景だ。
「ここはいったい」
身を起こすと側には神喰がいた。どうやら蝶仁を突き落としたあと、神喰も続けて水の底まで追いかけてきたらしい。
「此岸と彼岸の 端境であろう。……招かれたな」
「招かれたっつうか、突き落とされたっつうか」
「どうせ飛びこめとうながされても、躊躇するであろう? ならば、このほうが迅い」
奇妙なことに服が濡れていなかった。神喰もしかりだ。
「椿たるは神域に咲く霊妙なる花ゆえ」
「斎つ真椿でしたか」
「ほお、知っておったのか。同時に化け椿でもある。霊鬼の未練とやらに寄り添おうとするがゆえにいちど穢れると霊鬼がとり憑きやすい――このようにな」
神喰が指を弾く。
枝垂れの椿だとおもっていたものが、瞬時に骸骨の手となる。蝶仁は身も凍るような現象に絶句した。
手の群はかたかたと誘うように骨を軋ませる。
枝垂れた骨の手のあいまを、ひとりの娘が踊るように走りすぎていく。風に舞う髪はそのすべてが赤い麝香連理草でできていた。燃えたつような真紅の華の、髪。
「華咲の娘……?」
蝶仁のつぶやきに神喰が眼を細めた。
「ふむ、そなた、あの霊鬼を知っておるのか?」
「彼女のことは知りません。ですが、《あれ》は華咲の娘というものです。その身に華を咲かせ、人に幸を授ける特殊な――」
「なるほど、異邦の神か」
神喰はなぜか、嘲るように微笑した。あるいは自嘲か。
「偶像であろう? あるいは人身御供というべきか。いずれにしても、そなたらはあの突然変異の娘を神格化して信仰している。そうすることで利を得ているものがいるのであろう。そうではなきか?」
「っ」
神喰に看破されて、蝶仁は僅かに動揺した。
「その通りです、旦那」
「は、異邦であろうと、ニンゲンの考えることは変わらぬな」
だが、なぜ、こんなところに華咲の娘がいるのか。
娘は蝶のようにはらはらと躍る。誘惑するような舞だが、表情は凍りついていた。舞いながら走るその姿を追いかける。だが、何処までいっても枝垂れ椿の天蓋と落ち椿の大地が続くだけ。
近寄ることもできず、遠ざかることもない。
「こちらには華咲の娘ってのはいないんですよね?」
息を切らして、蝶仁はあらためて神喰に尋ねる。
「聴いたことはないな」
神喰は垂れさがる手の骨をわずらわしげに振り払いながらも涼しげな顔をしていた。みれば、走らずに浮遊している。いちいちびっくりするのも面倒くさくなってきた。
「だが、おまえがこちらに紛れてきたように境を跨いだものもおったのやもしれぬ」
蝶仁は思考を廻らせて、ひとつの解にたどりつく。
「まさか、ここって後宮ですか?」
「是だ。いまは寂れているが、ひと昔前までは千を越える妃が皇帝のため、かこわれていたそうな」
「あーなんとなくわかってきました」
おそらくは誤ってこちら側にきてしまった華咲の娘が皇帝に惚れられて、後宮に迎えられたのだ。加えて神喰は先ほど椿というのは霊鬼の未練に寄り添って、化けると話していた。
化け椿。日本にも化け椿の伝承があったはずだ。
思いだせ。年を経た椿が化ける話。椿が娘になって男に嫁ぐ話。古墳で祟りがあったため、椿を植えて鎮魂したが、その椿が毎晩女に化けて立ち続けているという話――「これか?」地味な話だが、椿の木が古墳の霊と同化してなにかを訴えるところはこの事象と似ている。
「真実は華のなかにある――か」
蝶仁はほつりとつぶやいて、足をとめた。
華咲の娘はふたりのまわりを舞い続けている。とまれよ、遊べ。遊べよ、とまれ。その姿は赤い蝶々を連想させた。
「ふむ、面妖なことばよな。なにが言いたい?」
「お姫さまの口癖です。華は雄弁。語らずに表す。そして華咲の娘はその花が暗示する運命をたどることがあります」
麝香連理草には逸話がある。
「あの華咲の娘から咲いている花は、奇しくも王宮に嫁いだ妃が愛し、その心のなぐさめになった花と伝承されています。なんでも伝承によると王には百人を越える妾がいたとかで、妃は嫉妬で身を細らせていたとか」
「ふむ、この後宮と一致するな。して?」
「花に寄せられた言葉は――私を忘れないで」
華咲の娘は男を魅了する。それこそ神のごとく皇帝に寵愛された。
だが、華咲の娘には御子は儲けられない。後宮の最大の意は皇帝の血脈を多く残すところにある。実を結ばない華だけの娘はいらないのだ。
捨てられた彼女は孤独に死んだ。
異界からきた娘を葬る墓などあるはずもなく、亡骸は池泉に投げ捨てられたとしたら、そうとうな未練だろう。
蝶仁は膝をついて落ち椿を掻き分けはじめた。
「なにをしている?」
「華咲の娘の骨を捜しています」
神喰は理解できたとばかりに唇の端を持ちあげる。
「ならば、こうしたほうがよい」
神喰が袖を振るう。強い風によって地を埋めつくしていた落ち椿が吹きあがる。底から現れたのは白い頭蓋骨。骨の眼窩からはひとつ、蝶がとまるように麝香連理草の花が咲きこぼれていた。
蝶仁はそれを拾いあげた。
「彼女はたぶん、これを捜してほしかったんだとおもいます」
「ゆえにそなたを招いたのか。故郷に還らんがために」
あたりを舞っていた華咲の娘は踊りをやめ、それをじっと眺めていたが、やがて安堵したように微笑んだ。
天を覆っていた骨の群が散って、真っ白な蝶になる。華咲の娘は腕を拡げ、蝶の群とともに舞いあがった。未練が解けたのか、その髪から咲き綻んだ華もまた赤から白に変わっていった。
ぐらりと天と地がまざりあう。
またも意識が遠ざかりかけたが、ぎりぎりで踏みとどまった。滲んだ視界が再び焦点を結んだとき、蝶仁は後宮の水亭にいた。
服は濡れていないが、華咲の娘の骨はきちんと腕に抱えている。
神喰は空間を移動してもふらつきもしなかった。橋へと近寄り、指を差す。
「みるがよい、橋杭より椿が咲きこぼれておろう? あれが化け椿よ」
確かに橋杭から椿がひとつ、咲いていた。椿材は水に強い。だから、おもに橋を造るときにつかわれる。
「物珍しやと信仰され、愛でられてきた枝垂れの椿が老いて花をつけなくなり、忘れられ、あげくに伐採られたのであろうや。椿の古木のやるせなさが華咲の娘とやらの未練に重なりあって、あのような現象を招いた。そう考えれば理にかなう」
「なるほど、ひとってのはかんたんに神を捨てるもんですからねェ」
蝶仁がぽつりとつぶやけば、神喰は低く嗤った。
「よくよく理解できているではなきか。左様、ニンゲンが欲しがるのはおのれに都合のよき神ゆえにな」
この男、果たして何者かと蝶仁は考え続けていたが、この時になって理解する。
彼はきっと、こちら側の神だ。実際に
「神」なのか。それとも
「神」と定義され、信仰されたものなのかは分からないが――
「旦那もそうでしたか?」
ヒトの都合に振りまわされて、捨てられたのか。
神喰は是非はこたえず、こう続けた。
「俺の花嫁だけはそうではなかった」
彼の双眸からまたひとつ、涙がこぼれる。
「俺にたいして、救いも滅びも望まなかった。ただ、俺の孤独を想って、涙を流した。ひとりぼっちはさみしいと」
花嫁と唇に乗せる時、彼は酷く優しい声をだす。それが如実に彼の愛を証明していた。
「あの時から、令冥は俺の最愛たる花嫁だ。彼女がおらねば、俺は寂しや」
そうか。この神サマが絶えず、涙をあふれさせているのは愛する花嫁がいなくなったからなのだ。
なんて危うい神だろうか。
だが、理解できる。
水鏡に咲き群れる椿が映る。そのむこうに懐かしい大正の風景が拡がっていた。
「繋がったな。還るがよい、離れがたきものがいるのであろう? 蝶」
こんどは背を突きとばされるまでもなかった。蝶仁は振りかえらず、水のなかに身を投げる。
水鏡が割れて、しぶきが吹きあがった。
ただ、最後にひとつ、言い残す。
「旦那は俺と似ていますね」
彼にとって、その花嫁がすべてなのだ。
不敬だ。
だから捨て台詞にした。神喰が例え不愉快におもっても、後からならば問題はない。ただ、それは杞憂だったらしく、最後に神喰の笑う声がした。
***
「これでよし、でしょうか」
異界から持ちかえった華咲の娘の骨は邸の敷地に埋葬した。土をかぶせ、合掌してから頭をあげた蝶仁は、側らにいる姫つばきを振りかえる。
姫つばきは柏手を鳴らし、慰霊の祈りを捧げた。
「願わくば、華の魂がやすらかであらんことを」
あの後、異界から帰還した蝶仁を、姫つばきは表情すら変えず
「おかえりなさい」と迎えた。おつかいから帰ってきたような軽い素振りに、蝶仁は苦笑した。
「お待たせしました。っていうか、心配とかしてくれたりしました? 俺、結構ヤバかったんですけど」
「そう、ご愁傷様ね。でも何処にいっても、おまえさまが帰ってこないはずはないわ」
姫つばきはとろけるように微笑んだ。
「だって、わたくしがここにいるんだもの」
それはまったくもって、そのとおりだ。
蝶仁は降参して手をあげた。
そうして持ちかえってきた華咲の娘の骨を庭に埋めて、今にいたる。日はすっかりと暮れかかっていた。宵の帳を連れてくる青紫の雲がたなびいている。
「ところで、例の事件はどうなりましたか」
「おまえさまがいないうちに、お客様と一緒に真実を結んでしまったわ」
「へ、お客さんですか?」
姫つばきはうっそりと微笑した。
「とても愛らしい娘さんだったわ。おまえさまが逢ったというその異教の神サマの花嫁さんは、まちがいなく彼女でしょうね。清らかで……怖ろしい娘」
「あァ、なんとなく想像がつきました」
あの神サマにあれだけ愛されるのだ。ふつうの娘ではないだろう。
「神サマ、か」
ふと考えた。蝶仁にとって姫つばきは神なのか。
蝶仁は神サマがキライだ。碌でもないものだとおもっている。だが、異邦の神と逢って語らい、あらためて理解した。結局のところ、碌でもないのは神サマではなく、神サマをつくり、崇めて、捨てるにんげんなのだ。
「お姫さま」
風が吹きわたる。華のかおりを乗せた黄昏の風だ。
「俺がいなくて、さみしかったですか」
姫つばきは風でなびく髪をおさえて、微かに笑った。
「そうね。……だから、おまえさま、わたくしからはなれてはだめよ」
それだけでじゅうぶんだ。その命令ひとつで、なにもかもが報われる。彼女にたいして救済いを祈ることも、贖罪しを欲することもなかった。
変わらずにいてくれたら、それだけで。
「仰せのままに、お姫さま」
蝶仁は微笑って、姫つばきの後を追いかけていく。
斯くて大正の春は明けそめる。咲いては散る、華の宿命を悲しむ暇すらないままに。あるいは哀れみなどは要らないとばかりに。
吹きつける時代の風のなか、華は咲い、蝶は舞う。ともにあれば、どんな地獄でも越えられると信じて。
◎本SSはダウンロードできません。
◎本SSは予告なく公開を取りやめることがございます。
◎本SSのURLの第三者への開示、インターネット上へアップロードする行為は禁止いたします。
『華咲地獄 椿咲ク探偵ト華守ノ蝶』購入者特典SS
大正十年、東京。
日本橋に春がきていた。
春一番の風に乗って南下した桜前線は帝都をうす紅に染めた。室町通りにならぶ桜はいっせいに莟を綻ばせ、冬を越えた喜びにさんざめいている。漫ろ歩く人の格好はひと月前と比べて軽やかで、ウール地の道行姿の婦人とすれ違うこともめっきり減った。
「春ですねェ」
髪をさらりと結わえ、品の良いナポリ式の背広姿の男がぽつりとつぶやいた。
八重崎蝶仁。若き侯爵である。
彼の、数歩先を歩いていた娘が「あら」と振袖を拡げ、振りかえった。美貌を飾るように耳もとで綻びかけた椿の莟が弾む。
「それはどちらの春を指していて? 蝶」
姫つばきは華咲の娘である。
日本には時折、その身から華を咲かせた娘たちが産まれ、嫁いださきに幸せをもたらす。華咲の娘を奪いあって争いが勃発した時期もあったが、維新を経てからは神の化身として政府が娘たちを管理し、庇護するようになった。
「大正は文明の春と称えられているそうよ。特に昨今、帝都の日本橋はひときわ賑やかだもの」
華咲の娘を日本経済の中枢を担っている官僚や華族に嫁がせることによって、日本は今まさに栄華の時代を迎えている。
だが、蝶仁はどちらも違うと頭を振った。
「春ってのはもちろん、お姫さまのことですよ。冬と違って羽織も外套もいらなくなったじゃないですか。柄ゆきも雪輪やら南天から、桜とか梅、牡丹に変わって、すっかりと華やいでいます」
「そんなこと?」
「そんなもなにも。俺にとっては文明開化も放っておいても、毎年繰りかえす季節なんかも、どうだっていい。なんの感心もありません。それより、お姫さまですよ」
「まったく、おまえさまときたら……」
姫つばきは咲かぬ莟の娘だ。
ある事情を抱えており、今は探偵として華咲の娘にまつわる事件を解いている。蝶仁はその助手ということになっていた。日本橋にきたのも事件の依頼があったためだ。
「なんでも、日本橋の財閥家に嫁いだばかりの華咲の娘が死んだか、殺されたかしたとか。明らかに自害してるのに、殺害を自首してきた男が現れるなんてどうにも――」
蝶仁は路地から吹きつけてきた突風に言葉を途切れさせた。春の旋風にしても妙だ。路地裏に視線をやった蝶仁は枝垂の椿に眼を奪われた。桜ならばともかく、こんなところにあんな椿が咲いているはずがない。
劈くような眩暈がした。
「お姫さま、あれ、なんでしょう」
酷くがざわついて、姫つばきに呼びかけた。
だが、振りかえるとそこに姫つばきはおらず、それどころか――
異境の幻想が漂う王宮のただなかにいた。
奈良東大寺、東京瑞聖寺と似た造りの、重みのある建物群。彫刻が施された飾り窓。釣燈篭の揺れる軒さきでは桃の花が咲き群れている。少なくとも日本橋の風景ではない。
「志那?」
蝶仁は志那には詳しくない。
先程は取り敢えず知っている寺院をあげたが、あれらは江戸時代ごろに志那から渡来した唐の建築を取りいれた建造物である。もっとも、いま拡がる風景はさらに洗練されていて、明もしくは清の王朝を連想させた。
蝶仁は夢かと疑って眼を擦った。
変なところに迷いこんでしまった――混乱しそうになるのを懸命に律して、呼吸する。噎せかえりそうな花と香のにおいがした。現実だ。
「落ちつけ」
まずは姫つばきを捜さなければ。
もっとも優先するべきは彼女がここにいるのか。なにか危険に巻きこまれていないかを確かめることだ。どういう理窟かは分からないが、現実の志那かつ過去の時代だとしたら、死にいたる危険がありすぎる。
そもそも、蝶仁は中国語が喋れない。良い耳は持っているので、英語ならばある程度聴いて理解できるが、中国語は訳したことがなかった。
警戒しながら進んでいく。
豪華な造りの宮だが、人の声等はしない。かといって、きちんと整備されている庭をみるかぎり廃墟ではなさそうだ。
奇妙なところだ。
進んでいくと池泉にかこまれた亭があった。まだ春ということもあって、水の表には蓮の葉すら芽吹いていない。
亭に人がたたずんでいる。身につけているのはどちらというと和服に似ていて、腰に帯を締めるようなつくりになっていた。濡鴉の髪を結いもせず滝のように落とした後ろ姿をみるに妃だろうか。
言語が通じるかも不確かな現状で、接触するのは危険をともなう。だが、静まりかえった王宮を延々と彷徨っていても、どうにもならない。
慎重に近づいていく。
水亭に架かる橋まできたところで蝶仁は凍りついた。
あれは女ではない。それどころか、人の身のたけではなかった。七尺はゆうに超える。
なにより、蝶の勘が警告していた。
あれは人に非ざるものだと。
だが、眼が離せない。
相手がゆっくりと振りかえった。青糸の帳のような髪が風でなびき、素顔が露わになる。蝶仁は美に頓着がない。正確には美しさに感じいるということがない。
それでも解る。
異様なほどに美しい男だ。
遠い異教の神像を思わせる貌。透きとおる白皙に冷ややかな唇。理知の星を燃やす双眸からひとつ、涙がこぼれた。真昼の星を砕いたような果敢ない雫だ。
「ああ」
男の眸が蝶仁を映す。
「迷孩か」
警戒するでも、何者かと訝しむでもなく、男は瞬時に蝶仁がここにあるべきではないことを察した。
「そなた、俺の愛する花嫁を見掛けてはおらぬか」
ひとつ、またひとつとあふれる涙を拭おうともせず、男は低い声で尋ねかけてきた。言語を聴き取れて安堵したのもつかのま蝶仁は直感する。この答え、誤ったら危うい。
男はきわめて穏やかな物腰だが、それは異邦人である蝶仁を物珍しくもなんとも思っていない証拠でもある。今、この男から蝶仁への関心がなくなれば、詰む。
姫つばきを捜すにしても、現実に帰還するにも、おそらくこの男が鍵だ。
「俺もたいせつなひとと逸れちまいまして、ちょうどこまってたところなんですよ、旦那」
ゆっくりと橋を渡りながら、蝶仁はなるべく敵意のない声を繕って語りかける。
「話を聴くかぎり、俺がこっちにきて、旦那の花嫁がいなくなった。つまり、入れかわっちまったってことは考えられませんかね?」
「ふむ」
男が細い眉を跳ねあげた。とめどなくあふれる涙がまたひとつ、頬にきらめく線を残す。
「いまのところ、こっちに俺のお姫さまはおられそうにない。となると、俺がもといたところに帰れたら、旦那の花嫁も帰ってくるかもしれませんぜ」
「ずいぶんと遠まわしだが、そなたが異邦へ帰還るのを俺に手伝えということか? この俺を思い通りに動かそうとするとは」
神秘を帯びた双眸が上弦の月のごとく細められた。
「狡知なニンゲンよな」
睨みつけられただけで髪の先端まで痺れた。
蝶仁は日頃から危険な橋を渡ることも多く、喧嘩や殺意には慣れている。そんな自分が縫いとめられたように動けなくなった。
なんだ、この男、化け物か――
「それだけ、はなれたくないひとがいるんですよ。違うせかいに頒たれるなんてとんでもない。旦那も花嫁さんを捜しておられるんでしょう? だったら、解るはずです」
神経を張りつめながら蝶仁が訴えかけると、男は独特な威圧をやわらげた。
「そうか。ならば、理解できる。そなた、名乗れ」
「蝶です」
八重崎蝶仁とは名乗らなかった。
こういうところで名乗ったり異界で飲食をしたりすると連れていかれそうだ。
「ふ、蝶か」
男は微笑をこぼした。
「なるほど、確かにそなたの魂は蝶に似たる。草の毒を喰んだ麝香の蝶よ。俺は神喰という」
ついでにこういうものを、喚ぶことも避けたほうがいい。
その時だ。池泉の水がにわかにざわめいて、赤い波紋がゆらゆらと拡がった。ともすれば、八重の椿が咲くような。
「血潮?」
不穏な紅。どうしても、姫つばきのことを考えてしまった。
「やはりこの底か。池泉の底に、こちらとそちらを結んだものがある。なかなか繋がらず、如何にしようかと思っていたが、縁のあるそなたがきたからか繋がったようだな」
縁がある? どういうことかと尋ねる暇もなかった。神喰とやらは足払いをかけてから、蝶仁を突きとばした。
「っな、にを」蝶仁は水しぶきをあげ、池泉に吸いこまれる。泳げないわけではないのに、底が渦を巻いていて浮かびあがれなかった。
異界の王宮で溺死なんて、しゃれにならない。
(お姫さま)
帰らないと。
強く念じながら、蝶仁の意識は遠ざかる。
残る息は泡と弾けた。
***
「っ」
息をする。
意識を取りもどした蝶仁は慌てて身を起こした。
「どうなってんですか、俺、溺れたんじゃ」
水のなかでもなく岸でもなかった。
奇妙なところだ。天はなく、延々と枝垂れの椿が頭上を覆っていた。地を埋めつくすは落ち椿。
椿にかこまれた箱のなかにいるような錯覚を起こす。
王宮だって大概だったが、さらに現実感のない風景だ。
「ここはいったい」
身を起こすと側には神喰がいた。どうやら蝶仁を突き落としたあと、神喰も続けて水の底まで追いかけてきたらしい。
「此岸と彼岸の 端境であろう。……招かれたな」
「招かれたっつうか、突き落とされたっつうか」
「どうせ飛びこめとうながされても、躊躇するであろう? ならば、このほうが迅い」
奇妙なことに服が濡れていなかった。神喰もしかりだ。
「椿たるは神域に咲く霊妙なる花ゆえ」
「斎つ真椿でしたか」
「ほお、知っておったのか。同時に化け椿でもある。霊鬼の未練とやらに寄り添おうとするがゆえにいちど穢れると霊鬼がとり憑きやすい――このようにな」
神喰が指を弾く。
枝垂れの椿だとおもっていたものが、瞬時に骸骨の手となる。蝶仁は身も凍るような現象に絶句した。
手の群はかたかたと誘うように骨を軋ませる。
枝垂れた骨の手のあいまを、ひとりの娘が踊るように走りすぎていく。風に舞う髪はそのすべてが赤い麝香連理草でできていた。燃えたつような真紅の華の、髪。
「華咲の娘……?」
蝶仁のつぶやきに神喰が眼を細めた。
「ふむ、そなた、あの霊鬼を知っておるのか?」
「彼女のことは知りません。ですが、《あれ》は華咲の娘というものです。その身に華を咲かせ、人に幸を授ける特殊な――」
「なるほど、異邦の神か」
神喰はなぜか、嘲るように微笑した。あるいは自嘲か。
「偶像であろう? あるいは人身御供というべきか。いずれにしても、そなたらはあの突然変異の娘を神格化して信仰している。そうすることで利を得ているものがいるのであろう。そうではなきか?」
「っ」
神喰に看破されて、蝶仁は僅かに動揺した。
「その通りです、旦那」
「は、異邦であろうと、ニンゲンの考えることは変わらぬな」
だが、なぜ、こんなところに華咲の娘がいるのか。
娘は蝶のようにはらはらと躍る。誘惑するような舞だが、表情は凍りついていた。舞いながら走るその姿を追いかける。だが、何処までいっても枝垂れ椿の天蓋と落ち椿の大地が続くだけ。
近寄ることもできず、遠ざかることもない。
「こちらには華咲の娘ってのはいないんですよね?」
息を切らして、蝶仁はあらためて神喰に尋ねる。
「聴いたことはないな」
神喰は垂れさがる手の骨をわずらわしげに振り払いながらも涼しげな顔をしていた。みれば、走らずに浮遊している。いちいちびっくりするのも面倒くさくなってきた。
「だが、おまえがこちらに紛れてきたように境を跨いだものもおったのやもしれぬ」
蝶仁は思考を廻らせて、ひとつの解にたどりつく。
「まさか、ここって後宮ですか?」
「是だ。いまは寂れているが、ひと昔前までは千を越える妃が皇帝のため、かこわれていたそうな」
「あーなんとなくわかってきました」
おそらくは誤ってこちら側にきてしまった華咲の娘が皇帝に惚れられて、後宮に迎えられたのだ。加えて神喰は先ほど椿というのは霊鬼の未練に寄り添って、化けると話していた。
化け椿。日本にも化け椿の伝承があったはずだ。
思いだせ。年を経た椿が化ける話。椿が娘になって男に嫁ぐ話。古墳で祟りがあったため、椿を植えて鎮魂したが、その椿が毎晩女に化けて立ち続けているという話――「これか?」地味な話だが、椿の木が古墳の霊と同化してなにかを訴えるところはこの事象と似ている。
「真実は華のなかにある――か」
蝶仁はほつりとつぶやいて、足をとめた。
華咲の娘はふたりのまわりを舞い続けている。とまれよ、遊べ。遊べよ、とまれ。その姿は赤い蝶々を連想させた。
「ふむ、面妖なことばよな。なにが言いたい?」
「お姫さまの口癖です。華は雄弁。語らずに表す。そして華咲の娘はその花が暗示する運命をたどることがあります」
麝香連理草には逸話がある。
「あの華咲の娘から咲いている花は、奇しくも王宮に嫁いだ妃が愛し、その心のなぐさめになった花と伝承されています。なんでも伝承によると王には百人を越える妾がいたとかで、妃は嫉妬で身を細らせていたとか」
「ふむ、この後宮と一致するな。して?」
「花に寄せられた言葉は――私を忘れないで」
華咲の娘は男を魅了する。それこそ神のごとく皇帝に寵愛された。
だが、華咲の娘には御子は儲けられない。後宮の最大の意は皇帝の血脈を多く残すところにある。実を結ばない華だけの娘はいらないのだ。
捨てられた彼女は孤独に死んだ。
異界からきた娘を葬る墓などあるはずもなく、亡骸は池泉に投げ捨てられたとしたら、そうとうな未練だろう。
蝶仁は膝をついて落ち椿を掻き分けはじめた。
「なにをしている?」
「華咲の娘の骨を捜しています」
神喰は理解できたとばかりに唇の端を持ちあげる。
「ならば、こうしたほうがよい」
神喰が袖を振るう。強い風によって地を埋めつくしていた落ち椿が吹きあがる。底から現れたのは白い頭蓋骨。骨の眼窩からはひとつ、蝶がとまるように麝香連理草の花が咲きこぼれていた。
蝶仁はそれを拾いあげた。
「彼女はたぶん、これを捜してほしかったんだとおもいます」
「ゆえにそなたを招いたのか。故郷に還らんがために」
あたりを舞っていた華咲の娘は踊りをやめ、それをじっと眺めていたが、やがて安堵したように微笑んだ。
天を覆っていた骨の群が散って、真っ白な蝶になる。華咲の娘は腕を拡げ、蝶の群とともに舞いあがった。未練が解けたのか、その髪から咲き綻んだ華もまた赤から白に変わっていった。
ぐらりと天と地がまざりあう。
またも意識が遠ざかりかけたが、ぎりぎりで踏みとどまった。滲んだ視界が再び焦点を結んだとき、蝶仁は後宮の水亭にいた。
服は濡れていないが、華咲の娘の骨はきちんと腕に抱えている。
神喰は空間を移動してもふらつきもしなかった。橋へと近寄り、指を差す。
「みるがよい、橋杭より椿が咲きこぼれておろう? あれが化け椿よ」
確かに橋杭から椿がひとつ、咲いていた。椿材は水に強い。だから、おもに橋を造るときにつかわれる。
「物珍しやと信仰され、愛でられてきた枝垂れの椿が老いて花をつけなくなり、忘れられ、あげくに伐採られたのであろうや。椿の古木のやるせなさが華咲の娘とやらの未練に重なりあって、あのような現象を招いた。そう考えれば理にかなう」
「なるほど、ひとってのはかんたんに神を捨てるもんですからねェ」
蝶仁がぽつりとつぶやけば、神喰は低く嗤った。
「よくよく理解できているではなきか。左様、ニンゲンが欲しがるのはおのれに都合のよき神ゆえにな」
この男、果たして何者かと蝶仁は考え続けていたが、この時になって理解する。
彼はきっと、こちら側の神だ。実際に
「神」なのか。それとも
「神」と定義され、信仰されたものなのかは分からないが――
「旦那もそうでしたか?」
ヒトの都合に振りまわされて、捨てられたのか。
神喰は是非はこたえず、こう続けた。
「俺の花嫁だけはそうではなかった」
彼の双眸からまたひとつ、涙がこぼれる。
「俺にたいして、救いも滅びも望まなかった。ただ、俺の孤独を想って、涙を流した。ひとりぼっちはさみしいと」
花嫁と唇に乗せる時、彼は酷く優しい声をだす。それが如実に彼の愛を証明していた。
「あの時から、令冥は俺の最愛たる花嫁だ。彼女がおらねば、俺は寂しや」
そうか。この神サマが絶えず、涙をあふれさせているのは愛する花嫁がいなくなったからなのだ。
なんて危うい神だろうか。
だが、理解できる。
水鏡に咲き群れる椿が映る。そのむこうに懐かしい大正の風景が拡がっていた。
「繋がったな。還るがよい、離れがたきものがいるのであろう? 蝶」
こんどは背を突きとばされるまでもなかった。蝶仁は振りかえらず、水のなかに身を投げる。
水鏡が割れて、しぶきが吹きあがった。
ただ、最後にひとつ、言い残す。
「旦那は俺と似ていますね」
彼にとって、その花嫁がすべてなのだ。
不敬だ。
だから捨て台詞にした。神喰が例え不愉快におもっても、後からならば問題はない。ただ、それは杞憂だったらしく、最後に神喰の笑う声がした。
***
「これでよし、でしょうか」
異界から持ちかえった華咲の娘の骨は邸の敷地に埋葬した。土をかぶせ、合掌してから頭をあげた蝶仁は、側らにいる姫つばきを振りかえる。
姫つばきは柏手を鳴らし、慰霊の祈りを捧げた。
「願わくば、華の魂がやすらかであらんことを」
あの後、異界から帰還した蝶仁を、姫つばきは表情すら変えず
「おかえりなさい」と迎えた。おつかいから帰ってきたような軽い素振りに、蝶仁は苦笑した。
「お待たせしました。っていうか、心配とかしてくれたりしました? 俺、結構ヤバかったんですけど」
「そう、ご愁傷様ね。でも何処にいっても、おまえさまが帰ってこないはずはないわ」
姫つばきはとろけるように微笑んだ。
「だって、わたくしがここにいるんだもの」
それはまったくもって、そのとおりだ。
蝶仁は降参して手をあげた。
そうして持ちかえってきた華咲の娘の骨を庭に埋めて、今にいたる。日はすっかりと暮れかかっていた。宵の帳を連れてくる青紫の雲がたなびいている。
「ところで、例の事件はどうなりましたか」
「おまえさまがいないうちに、お客様と一緒に真実を結んでしまったわ」
「へ、お客さんですか?」
姫つばきはうっそりと微笑した。
「とても愛らしい娘さんだったわ。おまえさまが逢ったというその異教の神サマの花嫁さんは、まちがいなく彼女でしょうね。清らかで……怖ろしい娘」
「あァ、なんとなく想像がつきました」
あの神サマにあれだけ愛されるのだ。ふつうの娘ではないだろう。
「神サマ、か」
ふと考えた。蝶仁にとって姫つばきは神なのか。
蝶仁は神サマがキライだ。碌でもないものだとおもっている。だが、異邦の神と逢って語らい、あらためて理解した。結局のところ、碌でもないのは神サマではなく、神サマをつくり、崇めて、捨てるにんげんなのだ。
「お姫さま」
風が吹きわたる。華のかおりを乗せた黄昏の風だ。
「俺がいなくて、さみしかったですか」
姫つばきは風でなびく髪をおさえて、微かに笑った。
「そうね。……だから、おまえさま、わたくしからはなれてはだめよ」
それだけでじゅうぶんだ。その命令ひとつで、なにもかもが報われる。彼女にたいして救済いを祈ることも、贖罪しを欲することもなかった。
変わらずにいてくれたら、それだけで。
「仰せのままに、お姫さま」
蝶仁は微笑って、姫つばきの後を追いかけていく。
斯くて大正の春は明けそめる。咲いては散る、華の宿命を悲しむ暇すらないままに。あるいは哀れみなどは要らないとばかりに。
吹きつける時代の風のなか、華は咲い、蝶は舞う。ともにあれば、どんな地獄でも越えられると信じて。

