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【第3回】ビルが炭坑節を歌い始めた ~スコットランド~

2017.02.08 | 鈴木康之

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 ダイニングルームへ下りていくと、かなり混んでいて、ざわついていた。ボーイが私たちを導いてくれたのは入口に近い、あまりいい席ではなかったが止むを得ない。

 その時、「ジャパニーズ!」という声が聞こえたように思えた。キョロキョロするのも憚られたし、もしそう呼ばれたのならいささか複雑な思いにもなる。すぐには気持ちが整理できないので、声のしたほうには目をくれずに席についた。私が壁に向かって席につき、雅代が中のほうを向く側に座った。

 サービスが来る前に私は「いまジャパニーズって言われなかったか」と聞いた。雅代は目をテーブルの上に落としたまま「なんかそう聞こえたわねえ」と答えた。

 アラン島はスコットランドの自然が一通り揃っているミニチュア版スコットランドと言われる島。その景勝地、シスキーンのキンロッホ・ホテルでのことである。プレストウイックやトゥルーンが並ぶスコットランド西海岸から、南北に長いキンタイア半島に渡ってマクリハニッシュを訪ねるにはフェリーを使ってこのアラン島経由で行くのが楽である。

 ここにはシスキーン・ゴルフ・アンド・テニス・クラブがある。ゴルフコースは1896年開場のもの。全12ホールという半端なホール数であるにもかかわらず、少し前の米国ゴルフマガジン誌のリゾートコース世界100選にランクされたという話を聞いていたので、寄ってみることにした。

 

 

 私たちがフロム・ジャパンであることを知ったコースのフロントデスクの老人は、棚の下から分厚い来場者の署名簿の1冊を取り出した。英国のちゃんとしたゴルフ倶楽部には署名簿があって、開場以来のビジター名が記されてある。手裁きよく乾いた音をたてながらページを繰り、「ここだ」と言って私に見せた。漢字で住所氏名が達筆で記されている。さらに驚いたのは私の知人の名前である。私が驚きの表情をしたので、「友だちか。彼は写真家だと言っていたが」と聞く。私は「いや違う」と答えた。同姓同名だが職業も住所の県も違う。

 ゴルフコースの話ではよくヒドゥン・ジェム(隠れた宝石)という修飾が用いられるが、まさにここはその表現の最適地だろう。前方に海とキンタイア半島、手前に切り立った奇岩などを借景にして、ホールごとにまったく異なる絶景を楽しませてくれる。広いが左右に大きく傾斜しているホールがあり、崖上に放り投げるようなパー3ホール「カラスの巣」があり、特色のある12ホールはその仕掛けと景色とともに一度で記憶の中に入る。

 5番と9番のティ、4番と8番のグリーンが寄り集まったところにコンクリートで石を固めた腰の高さほどの水飲み台があった。プレートが埋めてあり、「シスキーン・ゴルフ・アンド・テニス・クラブに寄贈 ここで幾度も幸せな休日を過ごしたケン・ヘイグを偲んで」と刻まれていた。遺族が整えたものだろう。こちらのコースではメッセージ・プレートをはめたメモリアル・ベンチをよく見かけるが、メモリアル・水飲み台というのは初めて見た。

 

 

 昼間の絶景は最上級のロケーションの恵み。だから夕景も素晴らしかった。いい天気に恵まれて幸運だった。ディナーのあとバーのソファーに身を沈めながら夜の9時過ぎまで眺め続けた落日ショーは、それだけでも十分私たちの記憶に残ったはずだが、この日のサンセットは次にさらなる感動の時間を用意していてくれた。

 ようやく日が沈んで、北国の短い夜が始まろうとした頃、グラスを手にした老夫妻が「日本から来たね」と話しかけてきた。かなり前からバーのあちらの席にグループ客がいたが、いつのまにか老夫婦2人だけになっていた。私たちはこの夫婦にあちらの席からずっと注視されていたらしい。夫人が「さっきビルが大声で、ジャパニーズなんて叫んで気になったでしょう、ごめんなさいね」とフォローした。酒を飲まない奥さんのペニーだった。

 酒の入っているビルは喋りまくるばかり。半分以上チンプンカンプンだったが、ペニーは私たちの英会話力をすぐに見抜いてくれて、ゆっくり丁寧に話し、私たちが頷くのを確認しながら通訳みたいな役回りをしてくれた。

 私たちがゴルフツアーで来ていることが分かると、ビルはいままでにどこへ行ったか、と聞いてくる。口で言ったらきりがない。私は中座して部屋へ上がり、ゴルフコースマップを持って戻った。この小道具で話はスムースに流れ始めた。お互いがこれまでに回ったゴルフコースの名前を出し合いながら、それぞれに一言ずつコメントしては同意するという極めてシンプルな会話だが、ゴルファーはこれだけで十分に国境を超え、言語を超えて仲良しになれる。

 やがてビルが「ヨコスカ、クレ、サセホ」などと日本の地名や固有名詞を口にし、日本の話を始めた。「ギンザ、テイコクホテル、アサクサ」、なんと吉原の老舗「マツバヤ」まで飛び出したではないか。

 ビルは第二次大戦で英国海軍士官として日本にいたのだという。われわれの言い方をすれば進駐軍の将校だったのだ。当時の帝国ホテル秘蔵の高級洋酒の栓を空ける階級にいて、夜のギンザでも相当遊んだらしい。横に並んでいるペニーに気づかれないように「ハナコさん、マリコさん」と顔を赤くして思い出しては、私にウインクするのだった。雅代はペニーから、ビルは爆撃で耳をやられ、少し不自由していて、私たちの言葉をペニーがもう一度大きな声で繰り返しているのだという事情を聞いていた。

 楽しい時間はアッという間である。零時を過ぎていた。私たちは住所を交換し(メールアドレスは持っていなかった)、明日は早い時間にホテルを発ち、フェリーの港へ行かなければならないと言い、再会を誓って部屋に上がった。

 その翌朝の話だ。チェックアウトして重いスーツケースを運び出そうとしていた私の背後から「ヤス・スズゥキ」と声が掛かった。

 ビルは「ちょっと時間を」と言う。私たちをロビーのソファーに引き戻して座らせた。ビルと私は向かい合う。ペニーは雅代と並び、雅代の膝に手を掛けている。突然ビルが「ツウキーガア」と歌い出した。「デタデータア、ツウキーガア、デタア」。私たちは啞然としたが、そのまま自然に一緒に手拍子を打った。「アンマーリー、エントトーガア」の辺りになると、だいぶ怪しくなってきたので、私が歌ってリードしなければならなくなった。「タキャイノーデー」。私は涙もろい。「サアゾオヤー、オーツキサアン」。歌い、笑い、鼻に痒みを感じ、涙腺から熱いものが滲み出てきたが、一番を歌い終わるまでは全うしなければならなかった。

 朝日差し込むスコットランドのホテルで炭坑節を手拍子で歌うことになろうとは、なんてことだ。

 「ビルは日本が大好きなの。ビルったら、昨夜あのあと部屋に戻って、一生懸命思い出そうと朝まで頑張ったのよ」。熱いものが止まらなくなった。私はハンカチを出して目を拭った。ビルも万感の顔つきになっていた。そのままハグになった。

 1999年の夏のことである。翌2000年の夏にセントアンドリュースへ行った時、ビル&ペニー・ベックはストーンへブンから2時間の道をクルマでやってきてくれて再会し、ランチをともにした。2004年には彼らの終の住み処となるらしい新居、ローレンスキャルクの築数百年という石の家で、私たちは数日をともに過ごし、ナンシー梅木のジャズソングを電蓄で聞くことになる。

 

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