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【第1回】一 初日

2016.09.27 | 福山ぶどう

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一 初日

 

「大丈夫? 三日で、やめる人もいたのよ。」

 心配そうな顔で、総務の恭子さんにきかれる。推定四十代。ささみのようなぱさぱさ感が漂う。

 今日は、転職した初日。卸会社の正社員。安定雇用の第一歩。

「はい。大丈夫です。よろしくお願いします。」

 あたしは、答える。こういう時、大丈夫って、いうしかないよね。

 同期入社って、二人だけの中途採用でもいうのか、隣にいる理沙さんも、はいと返事をしている。

「トイレは、ここで」

 続く恭子さんの施設案内。思わず、手で鼻を覆いたくなる。ハリウッドスター達が便座をこぞってお土産に買ってく日本の平成の時代に、和式の便所が、一つ。

「こっちは、給湯室。お茶当番とかあるけど、また今度、説明するわね。あっ、おはようございます。常務、新しく入った事務の二人です。」

「塩田久美です。よろしくお願いします。」

 常務に、自己紹介をする。隣で理沙さんも続く。

「よろしくね。わかんないこととか、改善点とかあったら、何でも言ってね。」

 社長の弟の常務。五十代位。いい人風に笑顔をふりまき、去っていく。

 

「じゃあ、早速、仕事してもらうので、久美さんは、多恵さんについてもらって。理沙さんは、私が教えます。初めに言った通り、女性社員は、下の名前で呼ぶようにね。」

 恭子さんから、多恵さんに変わる。

「よろしくね。久美さん。若いから覚えも早いわよ。」

 多恵さんは、よくしゃべるしわくちゃのおばあちゃんだ。孫もいるらしい。六十代のおばあちゃんからみたら、三十一の自分なんて、若い部類に入るのか。

「元々ね、別の人がこの業務をしていたの。ちょっと前に、やめちゃって、それまで、代わりに私が。理沙さんの仕事の人は、昨日、やめたばっかりよ。」

「はあ。結構、辞める人多いですか。」

 心配になってくる。

「ふふふ。多いなんてもんじゃないわよ。」

 おばあちゃんがこなせるだけあって、事務の仕事自体は、すごく簡単だった。お客様から注文が電話かファックスできたら、メーカーや卸業者に転送するだけ。商品自体も、仕入れ先から、直接、発送してもらう。

「卸の会社って、不思議ですね。直接、やり取りされたら、この会社潰れちゃわないですか。」

 思わず、きいてしまう。丁度、その時、電話がなった。

「あら、電話よ。でてみなさいよ。」

 多恵さんが、ナンバーディスプレイに表示された会社名をみて、不敵に笑う。

 電話にでる方法とか、一切レクチャーのないまま、適当に会社名のみをいってでる。前勤めていた会社では、電話のロールプレイ研修まであって、会社名と部署名、担当名をいう決まりだったが、この会社は、ゆるそうだ。

 電話の相手は、相当怒っていた。電話の相手のお客様が、ここの会社に、直接、買いたいと電話してきて、ここの会社の者が受けたらしい。どういうつもりだと喧々諤々。

「営業に、伝えておけば、いいわよ。うちが、出し抜こうとするとばれるのよね。他社は、熱心な営業がいて、羨ましいわね。」

 多恵さんは、隣の席で、すました顔で、シール貼りをしながら、言う。

 

「久美さん、明日、雇用保険と給与の口座番号のわかるもの持って来てもらえるかな。」

 恭子さんが側にきて、言う。

「はい。そういえば、雇用契約書は、いつ書きますか。」

 朝から、疑問に思っていたことを口にする。なにかと、うるさい世の中で、大手だと、個人情報保護法とかコンプライアンスとか、いっぱいサインをする。

「ないわよ。ちなみに、就業規則も、有給も、賞与も残業代も。ぜーんぶ。」

 多恵さんが隣から、付け加えてくる。

「あれ。就業規則って、労働基準法で、十人以上の従業員がいる場合は、必須ですよね。」

 あたしは、あやふやな知識を呼び起こす。求人票にも、十二人の従業員と記載があったはず。労働基準監督署は、何をしているのだろうか。初日で、ブラック認定。

「そうだけど、この会社、普通じゃないのよ。」

 恭子さんがため息をつくと、同時に、向こうから、恭子さんに呼び出しがかかる。向かった先には、理沙さんと営業の角田さん。

 角田さんは、中年のおじさんで、こどもでも身ごもっていそうな大きなお腹をつきだし、偉そうにふんぞり返って座っている。

「恭子さんは入社した時、角田さんのいるBグループの営業事務だったのよね、それが、色々あって、恭子さんは、総務と経理担当になったの。担当の事務の子が変わるたびに、恭子さんが教えなきゃいけなくて、仕事ができないって。前任者、昨日で角田さんがクビにした手前、営業が教えるからなんて、言っていたはずよ。」

 多恵さんが、ひそひそと教えてくれる。

「俺の言うとおりにしろ。俺の仕事増やすな。」

 角田さんの怒号が飛ぶ。

「角田さんはBとCグループ担当なの。担当じゃなくてよかったわね。グループ違えば、営業と事務は、ほぼ、つながりないわよ。こっちのAグループの営業は、みんな温和だから。事務の仕事も単純だし。」

 多恵さんが、苦笑を浮かべる。

 関わりたくない相手第一号決定。

 

「遅くなって、ごめーん。病院が、混んでいて。」

 三時頃に、真っ白な豚さんみたいにむっちりしたおばさんが現れた。推定五十代。

 汗をふきながら、挨拶をしてくる。Cグループの事務の雛子さん。

「どう、慣れた。これから、よろしくね。なんでも、きいてね。って、グループ違うと、教えられないけど。それに、二人、若そうだけど、本当に、ここの会社でいいの。もったいないわよ。」

 ころころと、一人で笑いながら、去って行く。

 事務のメンバーは、女性五人。やっていけるかな。

 

 初日を終えると、疲れがどっと押し寄せてくる。

「どう。今度の会社は、続きそう。」

 家に帰ると、母親からの質問。

「まだ、わかんないよ。」

「もう、三十過ぎているのよ。いい加減、落ち着きなさいよ。」

 部屋に戻って家猫と遊ぶが気が晴れない。こんな時は、彼氏に電話だ。

「久美。おつ。どうだった。初日。」

「初日だから、わかんないよ。それより、週末、どこ行こうか。」

「どこって、どうせ、久美、決めているだろう。」

 彼氏の実とは、半年前、友達の紹介で出会った。三歳年下で、大手の会社の下請に勤めている。あたしが、前の会社を辞める相談をした時に、俺には、何とも言えないって、言われた。

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