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『ドキュメント藤井聡太四段』―史上最年少棋士はいかにして生まれたか―

2016.12.21

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皆さん、こんにちは。将棋世界編集部の田名後です。
加藤一二三九段対藤井聡太四段の注目の対局(第30期竜王戦ランキング戦6組)が、いよいよ12月24日に行われます。藤井四段のデビュー戦ですが、新旧の史上最年少昇段記録保持者同士の凄いカードとなり、ニコニコ生放送で実況中継されることになりました。
希代の天才の呼び声高い藤井四段の、秘密のメールに包まれていた将棋が、ついに公式戦の場で明らかになります。この対局を非常に喜んでいた加藤九段の、本気の戦いぶりも楽しみですね。
ところで、62年ぶりに大記録を塗り替えた藤井四段とは、いったいどんな棋士なのでしょうか。そして、どんな半生を歩んできたのでしょうか。
現在発売中の『将棋世界1月号』に掲載している、藤井聡太四段のドキュメント記事の一部を、公開いたします。


※通常の2倍サイズの『将棋世界1月号ワイド版』も発売中!

ドキュメント・藤井聡太四段
―史上最年少棋士はいかにして生まれたか―


【構成】鈴木宏彦
【撮影】本誌


史上5人目の中学生棋士としてプロ入りした藤井聡太四段。14歳2ヵ月は、「神武以来の天才」といわれた加藤一二三九段を抜く史上最年少記録だ。過去の中学生棋士たちは、後にタイトルを獲得するトップ棋士になった。果たして藤井四段は、それに値する逸材なのだろうか。綿密な取材で迫る.

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生まれつきの集中力
棋士・藤井聡太は、平成14年7月19日、愛知県瀬戸市に生まれた。西暦でいうと2002年で、アメリカのソルトレイクシティ―で冬季オリンピックが開催された年だ。藤井は21世紀に生まれた最初の棋士である。
瀬戸市は、名古屋市都心部より北東へ18キロほど。古くから「瀬戸物」の産地として知られるが、近年は工業団地や住宅地の開発が進んで、近隣の名古屋市や豊田市へ通勤・通学する人も多い。
聡太の父・正史さんは、大手住宅設備機器会社に勤めるサラリーマン。母の裕子さんは専業主婦だが、バイオリンが趣味で、いまもアマオケに参加している。藤井家は両親と聡太、そして4歳上の兄の4人家族だが、隣家には裕子さんの御両親も住んでいる。
小さい頃の聡太はやんちゃで、お兄ちゃんと一緒に走り回って遊んでいたという。ドッジボールやボール遊びが大好きな少年だったが、プラレールを与えると部屋いっぱいにレールを組み立てて遊んでいたそうだ。
3歳で入った地元の幼稚園が、モンテッソーリ教育を取り入れていたことは、聡太の頭脳開発に大いに役立ったと思われる。モンテッソーリは20世紀前半に活動したイタリアの精神医で、遊びを仕事として取り入れる教育法を確立した。その教育法は、日常生活の練習、感覚教育、言語教育、算数教育、文化教育の5分野に分かれ、多くの遊び道具や知能教材を使う特徴がある。
3歳から4歳にかけて、聡太は紙を編んで作る「ハートバック」という袋を毎日大量に作って家に持ち帰った。その数は100個に及んだという。4歳になると、今度は父が買い与えたスイス製のキュボロという木製玩具にはまった。空中に立体迷路を作って、ビー玉を走らせる知育玩具だが、かなり複雑で、大人でも最初はてこずる。それを独り飽きずに何時間でもいろいろなパターンを作り続けたという。この遊びは将棋に夢中になる中でも、しばらく続けていたそうだ。「やり始めたらとことんやる。その集中力は最初からありました」と裕子さんは言う。
そんな聡太に、ついに将棋との出合いが訪れる。ご両親は将棋を指さないが、聡太が5歳になった年中の夏、隣家に住む祖母の育子さんが、盤駒のセットを与えたのだ。それは「スタディ将棋」と呼ばれる、駒に動かし方が書いてあるものだった。一緒に遊んだ育子さんはすぐ聡太に適わなくなり、今度は将棋が少し指せるおじいさんに代わったが、そのおじいさんも勝てなくなったという。それでも、聡太は「将棋が指したい」と言う。そこで近所の将棋教室を探すことになった。ここから聡太の運命は将棋に向かって動き始める。

最初から手を読んだ少年
「ふみもとこども将棋教室」は、日本将棋連盟瀬戸支部長である文本力雄氏が、18年ほど前から新瀬戸駅の近くに開いている将棋教室だ。聡太の家からは車で5分ほどのところにある。
文本氏は地元瀬戸市の出身で、中学生時代に独学で将棋を覚え、社会人時代には名古屋の栄町にある板谷教室で腕を磨いた。プロ棋士の板谷四郎、進の親子九段にはよく教わったという。現在は仕事も辞めて、教室に専念している。
文本氏の指導方針は明確だ。まず最初に礼儀と挨拶をしっかり身につけさせ、ルールを教え、符号つまり棋譜の読み方を教える。それから八枚落ちの基本定跡を教えるのだ。それを覚えきったら今度は詰みの形を教える。そのテストに合格したところで、いよいよ生徒同士の実戦に進む。駒落ち定跡と詰将棋、そして生徒同士の実戦が、ふみもとこども将棋教室の3本柱だ。棋力が上がってきた子どもには、さらに難しい駒落ち定跡を教え、詰将棋を出す。実戦だけにはしない。
聡太はいきなり異才を示した。5歳の冬に入ってきて、将棋を覚えたばかりだというのに、最初からすごい集中力を見せた。「詰将棋を教えると、3手詰から始めて5手、7手、9手とどんどん進んでいく。1年で11手詰まで進んだのかな。成長がとっても早いし、読む力が最初からあった。私も長く将棋教室をやっていますが、あんな子どもは初めて見た。とんでもない子だと思った」と言う。
最初に与えられた級は「20級」。教室には聡太より年上の強豪が数人おり、その一人が現在、奨励会に入っている迎琉歌さんで、2歳上の8級だった。
ふみもと教室の会員は20人から30人ほど。6畳2間のこじんまりとした教室だが、それだけに指導の目が行き届き、先輩が後輩を教える体制がしっかりでき上がっている。私もあちこちの子ども教室を見ているが、強くすることにこれほど熱心な教室は少ない。聡太は幸運だった。
奨励会方式で、級位に応じて規定の成績を取るとクラスが上がる。聡太にとっては詰将棋の解答と同時に、そうした先輩たちへの挑戦が何よりの目標になった。
「ふみもと先生の教室では、夏と冬に合宿があり、そのときにはたくさんの詰将棋の問題が出され、皆で競争して解いていました。すると、聡太はがぜん張り切るんです。考えすぎて、頭が割れそうと幼稚園のときに言っていたのを覚えています」と裕子さん。
藤井家には、いまも聡太の詰将棋ノートが残っている。中は詰将棋の解答でびっしり。聡太はまだ字が書けなかったので、裕子さんが代筆したものだ。
将棋教室に通い始めて1年。聡太は20級から4級に上がった。16階級のランクアップだ。「これまた、こんな子どもは初めてです」と文本氏。その予感は確信に変わった。この頃から「名人の上を目指せ」と言うようになったという。
6歳の3月。幼稚園の終わりに聡太は、早くも詰将棋解答選手権の初級の部に出場する。そして小学校1年生、7歳の冬には将棋教室で初段になった。ふみもと教室では、アマ初段になった子どもは東海研修会への入会を勧めている。先輩の迎さんも研修会に入っていて、聡太も迷わず東海研修会に入ることになった。
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並みの子どもではない
東海研修会に入った聡太は、月に2回の例会と週に3、4回のふみもと教室の実戦で腕を磨いた。1年生でアマ初段というのは確かに優秀だが、空前というわけではない。佐々木勇気五段は、石田和雄九段が開く柏将棋センターでアマ四段になっている。ただし、聡太には難解な詰将棋を解くことによって得た読みの能力がある。その能力が指し将棋の力も確実に押し上げていく。
東海研修会は、名古屋市中心部の栄町にある。聡太の自宅からは、名鉄瀬戸線経由で40分ほど。入会してしばらくは、父母のどちらかが送り迎えをした。それだけではなく、幼稚園年長の頃より聡太はあちこちの将棋大会に参加し始めた。名古屋、岐阜。そして2年生のときには、筆者の住む岡崎市で春に開催される「岡崎将棋まつり」のこども大会にも参加して優勝。夏休みや日曜日になると、家族はあちこちに遠征した。やがて、藤井聡太の名前は「強いチビ」として近隣に知られるようになる。この辺りの事情は、羽生善治三冠の少年時代に似ている。
東海研修会は、棋道指導員の竹内努氏が世話役を務め、ピリリと引き締まった雰囲気の中で活動している。奨励会を目指す子どもも多く、地元の杉本昌隆七段や中田章道七段のほか、関東や関西の棋士も定期的に招いて指導を仰いでいる。杉本七段がどんな視線で聡太のことを見ていたのかは、インタビューに詳しい。聡太が小2で詰将棋解答選手権に出たときは、すでに関係者の間で「藤井君は将来の名人じゃないか」という声が出ていた。
聡太は、小学2年生の頃からネット将棋を指し始めた。中学2年生で奨励会三段になるまで、ネットでの対局数は約1500局。その間にレーティングは2000点から3000点まで上がった。ネット将棋をやっている棋士に聞くと、「ネットではみんな本名を出さないが、あまりにも強いので藤井君のハンドルネームはすぐに知れ渡った」と言う。
小学4年生のときの記念色紙に、聡太はいちばん関心のあることに「将棋」と書いたあと、そのほかの関心事として、「読書、電王戦の結果、尖閣諸島問題、南海トラフ地震、名人戦の結果、原発」と書いている。当時から新聞を隅々まで読んでいたという。長い小説を読むのも好きで、小学校5年で司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読み切っていたというから、ここでも並みの子どもではない。得意教科は地理と算数。地図を読むのが好きで、世界中の山の名前と標高を覚えていたという。球技は苦手だが、運動能力は高く、中学2年生の運動能力試験では、50メートル走を6秒8で走っている。
「もともと勉強はよくできました。中学に入ってからの成績もよかったです。でも、三段リーグに入って将棋の勉強に集中するようになってからは、それなりに成績が落ちました」と裕子さん。
奨励会に入ったことで、聡太の生活環境はかなり変わった。ふみもと教室と東海研修会から離れ、大会にも参加できなくなった。実戦の機会がガラリと減ってしまったのだ。月2回の例会以外は、師匠が月に1、2度開く研究会、それに地元のアマ強豪である稲葉聡氏が地元の奨励会員を集めて開いてくれた研究会。あとはネット将棋が練習の場になった。
奨励会の対局は、大阪の関西将棋会館で行われる。最初のうちは母の裕子さんが一緒に大阪まで付いていったが、そのうち一人で通うようになった。
「聡太は将棋に夢中になると、ほかのことに気が回らなくなってしまう。小さいときから、会話の最中でも何か考えていることがありました。初めて将棋会館に泊まったときも、着替えを全部部屋に置き忘れて空のカバンを持って帰りました。新幹線の中にお財布を忘れてきたこともあります。でも、最近はそんなこともなくなりました」と裕子さん。
“子どものやりたいようにやらせる。親はそれを温かく見守る”という姿勢で、聡太の御両親は一貫している。ご両親は聡太が将棋を始めてからずっと、その勝敗を心の中では気にしつつ、平静を装うようにしていたという。
自らこども将棋教室を開き、何人もの奨励会の弟子を持っている飯塚祐紀七段は、「子どもを教室に通わせるような親御さんは皆さん熱心で、それはいいのですが、熱心なあまり、成績や将棋の内容にまで口を出す方がたくさんいて、それが子どものプレッシャーになることが多い。藤井君の御両親の姿勢は、とても賢明だと思います。自分も弟子たちには、つい藤井君を見習えと言ってしまいますが(笑)」と語っている。

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つづきは、ぜひ現在発売中の「将棋世界1月号」でご覧ください。

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