ResearchKit導入事例にみる医学研究のジレンマ|MacFan

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ResearchKit導入事例にみる医学研究のジレンマ

文●朽木誠一郎

Apple的目線で読み解く。医療の現場におけるアップル製品の導入事例をレポート。

国内のスマートフォンの半数以上のシェアを占めるiPhoneを、「がん」の研究に活用する。そのためのアプリが、日本のがん研究の中心施設である国立がん研究センターによって開発された。医学研究へのスマートデバイス導入の「意義」、そしてその「限界」に迫る。

 

 

実はデータがほとんどなかった

「テクノロジーの発達により、医学は進歩するか」。こう問われたら、多くの人は「そうだ」と答えるだろう。もちろんそれは決して誤りではない。本連載でも、これまでにICTが医療に活用されたさまざまな事例を紹介してきた。しかし、医学の発展の基盤となる「研究」の分野では、そうとも断言できないようだ。

医学研究の分野でアップルが提供するAPI「リサーチキット(ResearchKit)」。同社があらかじめテンプレートを用意しておくことにより、デザインやプログラミングに時間をかけず、見た目にも統一感のあるアプリケーションが、短期間で開発できるというものだ。国立がん研究センターが開発した「がんコル(QOL)」もリサーチキットを利用したアプリの1つ。がん患者の日常生活の実態、特に仕事のパフォーマンスについて、iPhoneを使ったアンケート形式でデータを集めることで、がん治療の改善につなげる。2人に1人は何らかのがんにかかるとされる時代、がん患者の労働環境の整備は社会の関心事でもある。

このようなアプリを開発した経緯とは。そして、医学研究におけるICT活用の根本的な問題とは。アプリの発案者で国立がん研究センター中央病院医師の近藤俊輔氏は、「“できることがある”と“それに意義がある”は、まったく別の話」と指摘する。同氏に医学研究へのICT導入の実際について話を聞いた。

 

 

国立がん研究センターは、日本のがん医療・研究の拠点となる国立の機関として1962年に創設。以来、国際水準の臨床研究や医師主導治験などの中心的な役割を担い、日本のがん医療と研究を強力にリードしている。【URL】http://www.ncc.go.jp/jp/

 

 

独立行政法人国立がん研究センター中央病院 肝胆膵内科/先端医療科の近藤俊輔氏。

 

年間約100万人が新たにがんと診断される中、働きながら治療を続ける人も増えている。がんコルでは、研究内容に同意したがん患者に毎日6つの質問をして、体調を記録する。さらに、毎週2つの質問をして週ごとの労働状況を、4週ごとに9つの質問をして月ごとの労働状況とパフォーマンスを記録する。なお、がん患者以外でも参加可能だ。

「がんの治療中は、ある週は元気だったのに、次の週はぐったりしてしまう、といったことが起こります。ほかの患者さんがどうだったのかについてのデータがあれば、ある程度それを予測し、日常生活に役立てられそうなものなのに、実はこのような研究というのは、これまでほとんどありませんでした」

がん患者の就労支援は喫緊の課題であるにもかかわらず、そもそもデータがそろっていない現状があった。そこでもっと便利に、予算をかけず、多数のがん患者のデータをそろえるために、リサーチキットによるアプリ開発をすることになったという。また、この研究では、最終的にがん患者400~600人のデータが集まることを目標にしている。研究成果は1年で一度振り返り、2年で取りまとめ、その後は論文化される予定だ。

近藤氏にインタビューをしたのは、アプリ公開から約1週間が経過した頃。その時点までにがん患者以外も含む1000人弱のデータが集まったが、これが本当に信頼性の高いデータなのかどうかについては精査が必要だという。近藤氏は「いずれにしても、多くの方に参加していただくことが、精度を高める方法です」と語る。

医学研究にはそぐわない面も

しかし、アップルが医療分野への参入の足がかりとして注力するリサーチキットの導入例として、「アンケートだけ」というのは少々地味に思われる。そう指摘すると、近藤氏は「たしかに、おもしろみのある研究ではない」と認めたうえで、アップルの機能を全面活用するようなデータ収拾は「なかなか医学研究にはそぐわない面がある」と実情を明かした。

「医学研究における質というのは、過去のデータと照らし合わせることにより決まります。つまり、まったく新しい手法により集めたデータというのは比較対象がなく、研究結果の意義を判断するのは難しいです。そうすると、手法自体の信頼性を証明しなければいけなくなり、研究の主旨が変わってしまう」

だからこそ、アンケート調査だったのだ。近藤氏らは「この手法であれば、ある程度は信頼性の高いデータが集まる」と判断したが、厳密には「紙とアプリで結果に差が出るかもしれない」などの懸念もないわけではない。また、一括りにiPhoneといっても、その機種はさまざまだ。「とはいえ、信頼性についてはどこかで線を引かなければなりません」と近藤氏は語る。

海外でのリサーチキット導入事例では、ジャイロスコープなどの機能を活用してパーキンソン病患者のバランスや歩行を測定したり、HDカメラと顔認識アルゴリズムを組み合わせて自閉症の検査をサポートしたりしている。これらは一見、とても先進的で、医療の発展に大きく貢献しそうなものだ。

しかし、これらの研究結果が医学的に信頼されるためには、iPhoneという特定のデバイスを使った研究が長期に渡り続けられ、データの比較による検証が行われなければならない。その頃までiPhoneが今のようなシェアを維持し続けられるのか。このような視点に立てば、医師による測定や検査のほうがかえってコストが低いことも考えられる。

「意義があるか」を問う

近藤医師は「医学研究においてはiPhoneはオーバースペック」だという。そこで出たのが、冒頭の「“できることがある”と“それに意義がある”はまったく別の話」という発言だった。近藤医師は目新しい機能に飛びつくのではなく、できるだけ信頼性の高いデータをより効率よく集めるという、現実的な一歩目を踏み出すことにしたといえる。

「医学研究であるならば、その結果は論文の形にして複数の専門家により検証されることが必須だと、私は思います。とりあえずやってみたけど信頼性の高いデータが取れませんでした、では研究とはいえません。ICTの研究費は増加傾向にありますが、そのうちどれくらいの研究が成果を上げているのか。今後、それが問われることになるでしょう」

それでもなお、近藤氏はリサーチキットに期待している。同じデバイスを持っている世界中の人が被験者になり得ることには「夢がある」という。

「今は国ごとに制限があるようですが、アメリカや中国なども対象にして大規模な調査ができたら、と思っています。デバイスが同じであれば、別の国との共同研究もやりやすくなるかもしれません」

実は、近藤氏にとって、このような研究は決してメインテーマではない。同氏は普段、肝胆膵内科領域の臨床をしながら、並行してAIの研究をしているそうだ。それにもかかわらず、なぜ「がんコル」の開発をすることになったのか。あえてチャレンジする必要のないことに挑む思いを、同氏は次のように語る。

「すべての医療施設が、この(国立がん研究)センターのように、人材や施設の面で充実しているとはいえません。しかし、そのような場所でこそ、リサーチキットのような低コストのICTを導入することにより、新しい風を吹き込むことができるはずです。まずは、がん患者にはどのようなサポートが望ましいのか、議論の材料となるファクトを明らかにしたいと考えています」

アメリカのトランプ大統領誕生に代表される、ポスト・トゥルースの風潮。奇しくも、日本でも同時期に、インターネット上に信頼性の低い医療情報があることが問題視された。それらに対抗するためには、軽視されつつあるファクトの価値を再認識することが必要だ。こんな時代だからこそ、医学研究に真摯に向き合う近藤氏の指摘は重い。

「私は、医学研究というのは、患者が何に困っているかにしっかり向き合ったときに、自然発生的に必要になるものだと思っています。おもしろくなくてもいいから、本当に世の中のためになるものか、考え抜かなければいけません」

テクノロジーの発達は速度を増す一方で、アカデミアでもある医学には譲れない一線もある。経済成長が鈍化している日本社会において、どこに投資するのかの選択は慎重にならざるを得ない。できることが多くなったからこそ、常に問いかけたいのは「それに意義があるか」だ。

 

 

がんコル

【開発】国立研究開発法人国立がん研究センター
【価格】無料
【場所】App Store>メディカル

 

iPhoneアプリ「がんコル(QOL)」。がん患者の生活の質を調査し、療養の生活の質(QOL)向上を目指して開発された。がん患者以外も使用できるのは、データとの比較対照として。また、YouTubeには使い方を解説した動画もアップされている。【URL】https://youtu.be/V63CxG2TXs4