野呂エイシロウの「ケチの美学」第39回|MacFan

アラカルト ケチの美学

野呂エイシロウの「ケチの美学」第39回

文●野呂エイシロウ

人気放送作家が語るケチとアップルの交差点。

目の前のものと対峙する

先ほど、左手の人差し指をちょっとだけ切った。缶の切り口で怪我をしたのだ。

なぜ切ったのか? ちょっと考えてみる。単なる不注意なのだが、その缶をちゃんと見ていなかったからである。そう、対峙していなかったのだ。それに気がついた。ちょっと慌てていて、同時にいろいろなことをしたのが失敗だった。そう、ちゃんと缶と向かい合えばよかったのである。

食事の際に、醤油や食べ物をこぼしたりすることがある。それも同じだ。対峙していないからである。

茶道とか華道とか剣道とか、道がつくものは何かと向かい合う。茶道では器と、稼働では華と、剣道では人と。そう、対峙することがとても大切なのだ。毎日の忙しさのあまり、現代人はそれを忘れがちだ。普段、歩くことに集中することもない。

ボクは、こうやってMacでキーボードを打っているときも懸命に画面と指先に集中している。マルチタスクの時代と言われているが、ボクは逆にシンプルタスクにこだわっている。

1つのことに集中したほうが断然いい感じなのだ。

たとえば、領収書の整理。ほとんどクレジットカードなので領収書は非常に少ないのだが、それでもエクセルへの入力作業がある。そんなときは、「写経だ」と考えて作業するようにしている。

正確には、作業ではなく「これは修行だ」と思っている。すると、面倒くさかった領収書の整理整頓が心を静にする写経になる。書類を作るのとは気分が全然違う。

先日、自宅倉庫の整理整頓をしながら、ダンボールに文字を書くときに、途中で気持ちを切り替えた。丁寧に文字を書くことにしたら、その瞬間に一種の爽快感を味わえた。

そんな気持ちになると「面倒くさいもの」がなくなってくる。朝、家中のゴミを捨てるのも、床を磨くのも修行。そう考えると楽しくなる。

多分、これらも含めて、ある意味「禅」だ。10年ぐらい前から興味があり、機会があるごとに勉強をしている。それがシンプルな自分をさらに加速させていると思う。

もう1つは、「神様を意識する」こと。たとえば、誰も見ていなかったら、「まあいいか、ゴミを捨てても」と以前なら思っていた。「逮捕されなければいい」「怒られなければいい」という思いがあった。

でも、神様を意識したらそんなことはなくなった。つまり、人間が見ていようが見ていまいが、「自分はどうしたいのか?」という尺度で考えるようになったのだ。

すると行動がガラリと変わる。さらに価値観がシンプルになる。その連続だ。

なんだろう!?  “How to”ではなく、そこにある本当の価値と対峙するようになった。さらにシンプルに“道”や“禅”を極める。それは永遠に終わらない修行なのかもしれない。

 

 

東京で一番好きなホテルのラウンジでぼんやり…。

 

 

EishiroNoro

放送作家、戦略的PRコンサルタント。毎日オールナイトニッポンを朝5時まで聴き、テレビの見過ぎで受験失敗し、人生いろいろあって放送作家に。「元気が出るテレビ」「鉄腕DASH」「NHK紅白歌合戦」「アンビリバボー」などを構成。テレビ番組も、CMやPRをヒットさせることも一緒。放送作家はヒットするためのコンサルタント業だ!と、戦略的PRコンサルタントに。偉そうなことを言った割には、『テレビで売り上げ100倍にする私の方法』(講談社)『プレスリリースはラブレター』(万来舎)が、ミリオンセラーにならず悩み中。